第2話 この竜キモイぞ

 うん? なんだか埃っぽいなあ。

 ゆっくり浮上する意識。のんびりした駄菓子屋みつまめとは違い、なんだか騒がしい。誰かの声と、わりかし近いところで獣の咆哮が聞こえる。なんだなんだ、物騒だな。有り体に言うと、めっちゃ怖い。なにこれ、今流行りの異世界転生? 私死んだの? 飴が美味しすぎて? ジョークにしては笑えない。

「しかし不思議と悔いはない」

「しっかりしろ。こんなところで死ぬな!」

 うむ、まったく聞き覚えのない声だ。大人の男、だが、たぶん若いと思う。その人が私の身体をがくがく揺さぶってくる。うえ、酔ってきた。ずいぶん手荒い殿方だ。

 うっすら目を開けると、目に入ったのはきらびやかな銀髪だった。

 と言っても、庄野先生やしずゑさんのような、お年寄りの白髪とはまったく違う。さらさらの、少し水色の混ざったきれいな色をしている。シルバーアクセサリーにも似ている。コスプレイヤーの方、なわけないか。

 視界がクリアになってくると、だんだん状況が分かってくる。

 私を揺さぶるのは、眼福なほど顔たちの整った男性だ。身なりはしっかりしているが、数多の傷を負っている。その上、ぽたぽたと私の頬に血が降ってくる。ひえ、流血沙汰じゃないか。この世界は物騒だな。

 男性は私を手荒く寝かせると、いかつい剣を片手にどこぞに駆け出していった。私もやっとの思いで半身を起こす。

 ほう。草原だ。

 日本国内では北海道でしか見られないような、だだっ広い場所だった。驚くなかれ、地平線が見える。これで空が曇っていなけば、さぞかし絶景だったに違いない。しかし砂ぼこりがひどい。座っているだけで口の中まで砂利まみれだ。

 などと、のほほんとしていられるのも、それまでだった。

 目の前を火炎放射が横切った。

 ただの火災ではなく(それでも十分大ごとだが……)、スプレーにライターを付けたときに起こるような、一直線の炎だった。熱すぎて前髪が少し焦げた。怖! ほんの数センチずれていたら顔がお陀仏するところだった。冗談ではなく、ちびるかと思った。

『ふ。最強の剣士といえど、しょせんは人の子よ』

 お、先ほどの男性とはまた違う声がする。しかし物騒な声だ。人間が発するような、明瞭な活舌ではない。動物が無理やり言葉を発したような、そんな声だ。がらがらした声が、ただただ不気味だ。

 私もしかして、目覚める場所を間違えてしまったのだろうか。と生命の危機を自覚し始めた、その時。

 目の前に化け物が舞い降りたではないか!

 妖怪大博士の柳田国男や水木しげるが想像する妖怪とは違う。どちらかと言えば、ゲームの世界に出てくるドラゴンに近い気がするが、それともまた違う。

 その異形には、顔が三つあった。

 ヤマタノオロチのような、首がいくつも生えている竜とも違う。顔が三つあるのだ。首がなく、肩に当たる部位に顔がある。ムキムキした脚は妙に長く、六本も生えている。翼が六つ。しかも大きい。ちょっとしたクジラくらいでかい。

「ぎゃ――!」

 なんと気持ち悪い生命体だろう。この私が悲鳴を上げるとは、不覚を取った。

 しかもその化け物が、私の方を向いた。うわ、よく見ると目はヤギだ。余計に気持ち悪い。

『ほ、ほ、ほ。これは異国のおぼこ娘ではないか。上々上々』

 うわ、さっき喋ってたのこいつなんだ。それにしても何故私の性生活を知っているんだ。外見とは違う意味で気持ち悪い。鳥肌だ。

 化け物の目が不気味に光った。

『貴様に永遠の楔を打ち込んでやるわ!』

 化け物の三つの口から赤い光が漏れる、と思ったのもつかの間。あ、これ、まずい。私また死んだわ。今度転生するなら、もっと平和な世界がいいなあ。あと、超チート級の能力もくださいな、神様。今気づいたが、私はどうやら現実逃避が得意のようだ。

『飢餓の呪を刻め!』

「させるか!」

 颯爽と男性が間に割って入る。化け物が光を放った。

 男性が光を断ち切る。

 そんなことが出来るのか、すげえ、かっこいい。惚れそうだ。しかしその光は男性の腕を確かにかすめた。男性が舌打ちする。え、これ、まずいんじゃない? 飢餓のナントカとかいうやつ、刻まれちゃったんじゃない? しかし男は、そんなの構わないらしい。果敢に化け物の懐に入り込み、六本の脚のうち一番細いものを切断した。一番細いとはいえ、私のウエストくらいの太さがある。すごい膂力だ。

 襲いくる無数の火炎放射を、男性は紙一重で躱し、断ち切り、受け流す。なのに私の方には一切飛んでこない。すべて計算づくなら、この人、ますます常人離れしている。

 しかし化け物も頑丈だ。一本脚がなくなったくらいではびくともしない。でかい図体なのに、身軽に男の剣をよけ、牙を突き立てる。男性は剣で防いだが、まったく無傷というわけにはいかず、剣が折れそうなほどたわんだ。

 見ているこちらの胃が痛くなるほど、彼らの戦いは拮抗している。

 そしてその均衡は、あっけなく崩れた。

 反撃に転じたのは男性の方だ。化け物が牙で攻撃しようとしている隙をつき、その目に剣を突き立てた。白い液体と血液が目からあふれ出し、たまらず化け物が悲鳴を上げる。大きく首を振り、男性を振り落とした。辛くも受け身を取る男性。彼も満身創痍だ。

『ふ、ふ。この朕が傷を負うとは、不覚をとったわ。貴様の存在、しかと覚えた』

 ばさ、と化け物が六枚の翼を広げ、ふわりと浮かぶ。あっという間に化け物の姿が消えた。逃げたのだ。良かった良かった。

 男性も気が抜けたのか、その場にうずくまった。うわ、大丈夫かな。私が力になれるかはなはだ疑問ではあるが、とにかく彼に駆け寄った。

「あの、大丈夫ですか? 怪我、すごいですよ」

「かすり傷だ、こんなの」

「絆創膏ならありますよ」

 しかし彼の顔は青白い。絆創膏ではどうにもならないか。普段からマキロンくらい持ち歩いていれば良かった。

 ――いや、違う。

 確かにこの人は傷だらけだが、それにしては様子がおかしい。しきりにお腹の方を気にしているようだ。しかしそこは無傷。内出血でも起こしているのだろうか。

「あの、お腹痛いんですか? あ、そうだ。鎮痛剤がありますよ」

「いや、痛いんじゃない」

「じゃあ、何ですか?」

「たぶん――」

 男性が一旦言葉を切り、しばし考えていた。

 そのわずかな沈黙の中、ぐうう、と妙に慣れ親しんだ音がした。

 それは高校生の私が、四時間目の授業でよく聞く音だった。きっと全人類が聞いたことあるだろう。しかし音量が違う。そんなに慎ましいものではない。しかも長い。妙に長い。まるで胃袋が全身全霊で断末魔を上げているみたいだ。

 そう。これは間違いなく、お腹の虫が鳴いている音ではないか。

「ま、まさか。お腹が空いたんですか?」

「おそらく……」

 私も十分戸惑っているが、それ以上に男性も戸惑っているようだった。その間もお腹の虫は止まらない。きっと彼は、尋常ではないくらい空腹なのだろう。見れば首筋に鳥肌が立ち、額には冷や汗が浮いているし、身体もかすかに震えている。典型的な低血糖の初期症状だ。

 なぜだろう、と考えていると、ふと、あの化け物の言葉を思い出した。

 飢餓の呪。

 詳しい原理は分からないが、たぶん、あの化け物の呪いのせい、かもしれない。いや、間違いなくあの化け物のせいだ。だって単にご飯を抜いただけではここまで空腹になるまい。

 冷や汗を乱雑に拭うと、男性は切れ長の目をこちらに向けた。

「お前に、頼みがある」

「何なりと」

「何でもいい。食えるものを、探してきてはくれないか。でないと腹が減って、死ぬ」

「食べられるもの」

 しかしこんなだだっ広い草原に食べられそうなものがあるだろうか。というか食べていいものかどうか、見分けがつく自信がない。下手して毒キノコなんか持ってきたら、それこそ一発でお陀仏だ。

 食べられるもの。うーん、何だろう。

 考えて、考え抜いて、手元に目を落とす。

 幸い、その手にはいつものトートバックが。

 そういえば、中にはしずゑさんから買ったりもらったりしたお菓子がたくさん入っている。これなら間違いなく食べられる。おかきやドーナツを嫌いな人間はいないだろうし。お菓子は国境どころか世界線も超える。

 なんと、異世界に来てまで誘拐犯常葉氏になるとは思わなかった。ふ、ふ、ふ。この私が、大人の男性を無事に誘拐してみせようではないか。

 おかきよりドーナツのが満足感はあるだろうし、洋風のものだから、きっとこの世界にもあるはず。とりあえずミニドーナツお徳用を出してみた。

「これ、食べます?」

「これは?」

 あ、知らないか。

「ドーナツの小さいものです。小麦粉とお砂糖でできてて、美味しいですよ」

「本当に食えるのか、これ」

「まあまあ、おひとつ」

 とりあえず一つ出して、彼に握らせる。男性は不審げにドーナツをにらんでいたが、お腹の虫には勝てなかったらしく、ぽんと口に放り込んだ。

「どうです? 食べられるでしょ?」

「不思議な味だな。ティータに似ているが、それより甘い?」

 てぃーた? なにそれ。この世界のお菓子だろうか。ふ、ふ。お菓子ジャンキーの血が騒ぐぞ。どんな味だろう。いつか必ず、お腹いっぱい食してやる。

「甘いの苦手でした? そうだ。おかきもありますよ」

「いや。甘いのは好きだ。疲れにも効く」

「たくさんありますから、いっぱい食べてください」

 男性はうなずき、早速二つ目を口に入れた。

 しかしこの人、ちょっととっつきにくい顔をしているのに、美味しそうにものを食べるなあ。見ているこっちが幸せになる。いいなあ、顔も綺麗だし、冷食のCMとか出られそう。

「お兄さん、名前聞いていいですか?」

「ナマエ?」ぴた、と男性の手が止まる。

「私、常葉紗衣って言うんですよ」

「トコハサイ?」

「だから、お名前教えてくださいよー」

「オナマエ?」

 うーん、「お名前」のイントネーションが怪しい。まるで私の英語の発音みたいだ。ううん、むしろ私の英語の方が上手く発音できる自信がある。

 男性はしばし考えたのち、なんと、こんなことを言った。

「オナマエとは、何だ?」

 なんということだ。

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