第5話
えりこと椀田を呼びに行ったのはハルだった。
ハルは心配そうな面持ちで二人を連れてきた。えりこはただならない空気に戸惑っている様子で、きょろきょろと人気のほとんどない店内を見回している。椀田のシワだらけの顔はぴくりとも動いておらず、何を考えているのかいまいちよく分からない。
「どうしたの、みんな。何かあったの?」
「実はさ、えりこさん……」
名児耶はなんと言おうかしばし逡巡したようだった。気まずげに視線をそらしつつ、しかし、彼は結局単刀直入に聞くことにした。
「豆、変えました?」
「豆? コーヒー豆のこと? 変えてないと思うけど」
えりこはちらりと隣の椀田を見やった。椀田は石膏のようにシワひとつ動かすことなく、ただ毅然と首を横に振った。
「シングルオリジンなのに変えるも何もないだろう」
「でも、なんか味が違うような気がしたんスよ」
「お前に味が分かるようになったのか」
「や、俺じゃなくて部員が」
ぎろりと椀田が翔たちを順番にねめつける。その視線だけで肉がすっぱり切れてしまいそうだ。さしものハルや安心院も首をひゃっとすくめ、翔はあわてて名児耶の陰に隠れた。
「ぼ、僕は、ちょっといつもと味が違うなって思っただけで」
「わ、私も私も。全然、まずいとか言ってないです」
「おいしかったですよ。ねえ湊さん」
「ね、安心院さん」
二人はあっさりと翔をおいて安全圏へ逃げた。椀田の視線が翔に集中する。この視線でいっそ殺されたらどれだけ楽か、翔は我が家の両親の笑顔を思い出しながら考えた。
「お前はハウスブレンドを飲んだんだったな」
「は、はい」
「何か言うことはあるか」
「な、何にもないです」
「ちょっと、玉置君」
テーブルの下でハルが翔のつま先をつつく。机上では彼女は何か言いたそうに翔を睨んでいた。
「嘘はよくないよ。気づいたのは玉置君だけなんだから」
「そんなこと言われても」
「椀田さん。ハウスブレンドが泥臭かったそうっす」
すかさず名児耶が口をはさんでくれた。椀田はぴくりと毛むくじゃらな眉を動かした。表情こそ変わっていないものの、かなりご立腹であることはいくらなんでも分かった。
「それはイエメンとエチオピアとパナマしかブレンドしていない。カネフォラ種なんかうちは使っておらん」
「ちょっと、お父さん」
「それ以上言いがかりをつけると、たとえ娘の後輩だろうが、出て行ってもらうぞ」
椀田はそれだけ言うと、くるりと背を向けてカウンターの内側に戻った。剣呑な彼の物言いにはらはらしていたのは翔だけで、他の四人は「またか」と肩をすくめるばかりだった。
「新入り君、気にしないでね。お父さんったら、いちゃもんつけられるとすぐむくれちゃうの」
「はあ」
「災難だったな、今日は椀田さんご機嫌斜めだ」
「でも私いつ見ても怖いなーって思っちゃいますよー。椀田さん、迫力あるから」
「それでも僕たちの話をもう少し聞いてくれてもいいと思うんだけどなあ」
「本当にね。あ、新入り君。このコーヒーちょっと預かるわね。本当に変な味がしてたらコトだし、冷めてるからどっち道淹れなおさないと」
えりこはひょいとカップをソーサーごと持ち上げ、少しだけ顔を近づけた。お団子のような鼻をひくひくさせ、細い眉をきゅっとしかめた。
「新入り君、ちょっと失礼」
えりこはそう断ると、ティースプーンでコーヒーをひとさじすくった。そして黒い液体をずっと音を立ててすする。しばらく舌の上で味わっているうち、彼女の顔がだんだん険しくなっていった。
やがてえりこは顔を上げた。
「……本当に泥臭い」
えりこはばたばたと椀田を呼び戻した。
戻ってきた椀田は先ほどより一層不機嫌そうだった。手にはタル型のキャニスターを持っている。椀田はキャニスターを、指が白くなるまで力を込めて握りしめていた。
「……飲みました?」
おそるおそる名児耶が椀田に聞く。椀田は肯定も否定もしなかった。ただじっと翔を見つめ、押し殺したように低く言った。
「よく気が付いたな」
「はい?」
翔にはわけが分からなかったが、椀田はそれ以上説明をしようとはしなかった。
おもむろに、椀田が頭を下げた。
つるつるに禿げ上がった頭がシェードランプの明かりを反射している。翔はその様子を、目を丸くして見ているしかなかった。他の四人も同様で、何も言えずにただ椀田の頭を見ていた。
椀田の怒りがまだ収まっていないことは、キャニスターの指を見れば明白だった。それでも椀田は、顔を決して上げようとはしなかった。
「あんなコーヒーを出して悪かった」
震える声で椀田は謝罪した。
「ただ、今日はもう帰ってくれ。今日はもう店を閉める。えりこ、閉店作業を手伝ってくれ」
「お父さん……」
「それと、このコーヒーのことはここだけのことにしてくれ。もし外に漏れたとなれば、私たちはもう店を続けることができなくなる」
「どうする、玉置」
名児耶はなぜか翔に水を向けた。ハルも安心院も指し示したかのように翔を見る。
翔はおろおろとえりこを見た。えりこはウインナーのような人差し指を口元に当てた。お願い、とその唇が声を出さずに動く。
どうしてこうなってしまったのだろうと、翔はついシェードランプを見上げた。シェードの内側も外側もよく磨かれて、憎らしいほど鮮やかな光を放っている。店内は薄暗くてごちゃごちゃしているのに、ランプだけは整然としてそこにいた。
「……分かりました」
ややあって、翔はうなずいた。
「このコーヒーのこと、忘れます。ハンバーグ、おいしかったです」
「ありがとう」
「こんなことがあったけど、また来てね」
翔はそれにうなずくことはできなかった。その代り、倶楽部一同が「はい」と即答していた。
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