第4話
完全に椀田親子が姿を消したのを見計らって、最初に口を開いたのはハルだった。
「部長、正直言っていいですか?」
「んだよ、改まって」
「味、変わりましたね」
それがコーヒーのことを指していることくらい、ほぼ部外者の翔にも分かった。
隣で安心院もこくこくとうなずいている。二人の微妙な表情の正体はこのことだったらしい。名児耶は少し考え込み、コーヒーを一口すすった。しばらく口内で転がし、ゆっくりと飲み込む。そして再び考え込み、首を捻った。
「……そうか?」
「もう、部長の味オンチ! カフェイン中毒者!」
「おいおい、中毒呼ばわりは心外だな」
「でも名児耶さん、実際味そんなに分からないでしょう?」
「まあ、そうだけどよ。でも、そんなに変わったか?」
変わりましたよ、と安心院は声をひそめて不満げに唇を尖らせた。その顔をハルのような美少女がやっていただければ文句なしに愛らしかったのだが、ベートーヴェンを無慈悲にも引き延ばす巨人がその表情をしても微塵もかわいくない。
すると、不意にハルが翔に視線をよこした。
「えっと、どうしたの?」
「玉置君も正直言っていいんだよ」
「えっ、正直って言われても……」
「玉置君はどう思ったの?」
ハルが射抜くように翔をじっと見つめる。安心院も名児耶も真剣に翔を見つめ、翔は針のむしろに座らされる思いだった。
「えっと、僕は、あんまりコーヒーの味とか分からなくて」
「翔君も中毒なの?」
「そういうわけじゃないんですけど、なんていうか」
「じゃあ玉置君、おいしかった?」
ハルの質問はあけすけでストレートだった。翔だけでなくさしもの名児耶も反応に困っているようだ。
「おいおい、湊。それはいくらなんでも」
「で、どうなの? おいしかったの?」
「えっと、その」
「僕からも聞きたいな。どうだったの?」
「安心院まで」
「あの」
すっかり翔は参ってしまった。天井を仰ぐが、無駄におしゃれなシェードランプがぶら下がっているだけだった。
結局、根負けしたのは翔だった。
「正直言うと、あの、椀田さんたちには内密にしていただきたいんですが、あまりおいしくは」
「だよね。ほら、玉置君もそう言ってる」
「俺はいつも通りだと思うだがなあ」
「それは名児耶さんだけですよ」
「うーん、どうして味が変わっちゃったんだろう」
ハルがかわいらしく小首をかしげてうなる。隣で安心院も同じポーズをとっていた。名児耶はいまいち腑に落ちない様子で唇を引き結び、翔はというと、正直に告白したことを後悔しだしていた。
「それで、どうなんだ? 具体的にどう変わったんだ?」
おもむろに名児耶がそう聞いた。ハルと安心院は顔を突き合わせ、そろって首を横に振った。
「なんだかヘンだなーって思っただけで、具体的にどう変わったかは私には分かんないです。安心院さんは?」
「僕もいまいちわからないなあ。でも、何か変でした。いつもの『ワンダー』っぽくないなあって」
「玉置、お前はどうだ?」
「僕ですか?」
不意に向けられた矛先に、翔はすっとんきょうな声を上げた。先ほどの悪夢のような一瞬を思い返してみようとしたが、追体験を体が拒んで上手くできなかった。翔は無駄に水をがぶ飲みし、激しくかぶりを振った。
「僕、この店の本当の味も知らないし、分かりません」
「あんたブラックで飲んでたろ。たぶんあんたが一番味わって飲んでるぞ」
「そんな、僕、そんなこと」
ほとほとに困って、翔は無為にハンバーグを切り刻んだ。あふれ出てくる肉汁がもったいなくて一口食べると、じゅわっと口の中に肉のうまみが広がった。噛めば噛むほど肉汁があふれてきて、脂が甘く舌の上でとろりととろける。あれだけまずいコーヒーを作っている店が出したものとは思えないほどのおいしさだった。うまっ、と翔は思わずつぶやく。
「おいしいでしょ? えりこさん、料理は上手なんだよねー」
「そう、なんだ」
「うん。カルボもすっごくおいしいの!」
ハルがフォークにパスタを絡ませて持ち上げてみせた。温かそうなソースがたっぷりからんでいて、確かにうまそうだ。贅沢に厚切りされたベーコンがまた食欲をそそる。
「で、どうなの、翔君?」
正面から安心院が身を乗り出してきた。翔が知らない間に安心院はクラブサンドを食らいつくしてしまったようで、皿もカップも空だった。
「ここには椀田さんもえりこさんもいないから正直に言っていいよ。僕らみんな口堅いし、安心していいから」
「でも」
「そら、何かひっかかってんじゃねえか」
「部長、言い方キツいですよ」
本当に口が堅いのだろうか、翔はなんだか心配になった。
「あのですね……なんか、嫌な味でした」
「嫌な味? ってなんだ?」
「なんだか、泥臭いっていうか」
そのとたん、三人の顔が引き締まった。三人で顔を見合わせ、納得したかのようにうなずき合う。
「ロブ臭だな」
はじめにそう言ったのは名児耶だった。
「ロブ臭、って何ですか?」
「玉置君、コーヒー豆にはおおまかに二種類あるって知ってる?」
「二種類しかない? あんなにたくさん種類があるのに?」
翔は先ほど回収されたメニュー表の裏を思い出し、こめかみをもんだ。ハルはうなずいてみせた。
「うん。大きく分けて二種類。細かく分ければブルーマウンテンやグアテマラがあるけど、今回それは考えなくていいよ」
「う、うん」
「まず一つがアラビカ種。世界で作られているコーヒー豆の七割がこの種類で、日本に入ってくるコーヒーのほとんどがこれ。おいしくて、でもデリケートだから作りにくいのが特徴なの。さっき挙げたブルーマウンテンやグアテマラはアラビカ種の一種なの」
「へえ」
そのアラビカ種とやらがあのまずいコーヒーとどうつながるのかよく分からず、翔はとりあえず曖昧にうなずいた。熱っぽく語るハルは目の保養だが、話している内容が苦手のコーヒーのことなので、彼女の話が耳の右から左へと抜けていく。
「それで、もう一つがカネフォラ種。こっちは病気に強くていっぱい取れる。でも苦くてまずい。インスタントコーヒーなんかに使われてるのはこっちの種類。別名――」
そこでハルは三秒たっぷりためて、どや顔で言った。
「ロブスタ種」
「……」
もったいぶったように言われても、翔にはいまいちピンとこなかった。慌てて隣から詳しい解説が入る。
「正確にはロブスタ種はカネフォラ種の一種なんだが、泥臭くて苦みが強いのが特徴なんだよ。それがロブ臭って呼ばれてるんだ」
「ああ、なるほど」
言われてみればこのコーヒーも、部室で飲んだコーヒーより苦みが強くて泥臭かった。
「つまり、このコーヒーにはその種類のコーヒー豆が入ってるんですね」
「そこが問題なんだよねえ」
安心院は困ったように翔のコーヒーを指さした。
「さっき湊さんが言っていたように、カネフォラ種はふつうインスタントコーヒーや安いコーヒーのかさましに使われるんだ。たまにエスプレッソ向けにわざとそれを混ぜたブレンドを作ってるお店もあるみたいだけど、僕は飲んだことないし」
「えっと、つまり、どういうこと、ですか?」
「『ワンダー』ではカネフォラ種は使ってない」
名児耶が眉間をもみながらそう言った。
「ここのハウスブレンドはイエメンとエチオピアとパナマだ。カネフォラ種は使ってない。なにより、それ以外のメニューはすべてシングルオリジンだ」
「では……」
異物混入、という四文字が翔の頭に浮かんだ。
あるはずもないものがこの液体に混ざっていたという事実が、この黒々としたものが一層恐ろしくさせた。きっと翔はこのコーヒーを二度と口をつけないだろう。その四文字はあまりに不穏に響き、翔を心底震え上がらせた。
「えりこさんに話を聞いてみましょうよ」
そう言ったのはハルだった。毅然とした顔で先輩二人を見つめ、言いましょう、と念を押した。
「えりこさんに正直に言いましょう。今回のコーヒーはまずかった。何か原因があるはずだ、って」
「でも、たまたま椀田さんが淹れるのを失敗しただけかもしれないし、僕はいちいち言わなくてもいいと思う。それに椀田さん、プライド高いし」
「今回はえりこさんが淹れたのかもしれないぜ」
「あの、でも、椀田さんが淹れてるの、見ました」
翔が不用意にそんなことを言うので、三人分の注目を浴びる羽目になった。穴があったら入りたい。翔は肩をすくみ上がらせた。
「あの……いつもはえりこさんの方が淹れてるんですか?」
「うーん、その時々だねー」
「うん、僕たちがたまにえりこさんの修行に付き合ってる感じ」
「でもあの調子じゃ、独立はまだまだだぜ」
「味は悪くないんですけど、椀田さんと比べちゃうとまだまだですよねー」
「湊さんはあけすけだねえ」
どうやらえりこもたまにこの店でコーヒーを振る舞うが、壊滅的に下手なわけではないらしい。万一えりこの技術に大きな問題があれば、椀田もそんなことをさせないだろう。
ではやはり、豆の方に問題があったのだ。
「あの、差し出がましいようですけど」
「何、翔君?」
「僕も、言った方がいいと思います。あの、もし、他のお客様にも、このコーヒーを出してたら、その、いろいろまずいですし」
「確かに店の信用問題にかかわるな」
名児耶はしばらく天井のシェードランプを眺めていたが、ややあって、腹をくくったように手を打った。
「分かった。言おう」
「名児耶さん! いいんですか?」
「いいさ。ただし、ここは部長の俺が言う」
それだけは譲れないと名児耶は何度も念を押した。翔たちも、彼の熱意に圧される形で、なし崩しに彼に任せることにした。
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