第3話

 校門の広場で一八時半に集合ね。

そうハルに言われたはいいものの、翔はそれに参加するかどうか、ぎりぎりまで悩んでいた。

 珈琲倶楽部の歓迎会ということで、どうやら飲み会の酒の代わりにコーヒーが出てくるらしい。飲み放題のコーヒー。コーヒー好きにはたまらないだろうが、悲しいかな、翔はコーヒーが飲めない。先ほどは意地と根性だけでなんとか飲み干すことができたが、ではもう一度と言われても、また同じことができるとは思えない。しかし、せっかくハルが誘ってくれているのだ。大学生のハルは中学生のころと比べてぐっと大人に、魅力的になった。あのとき諦めていた恋心が再燃して、翔の心を蝕んでいる。行きたくないけど彼女と一緒にいたい。いっそコーヒーが飲めないということを告白できたらと思うが、ハルをがっかりさせたくない。翔は身もだえするくらいに煩悶していた。

 そんなことをしているうちに、一日の授業が終わってしまった。時刻は集合時間の十分前。今から広場に向かえばちょうどいい時間になるだろう。ばらばらと人がはけていく教室の一番前の席で、翔は腰を浮かしたり沈めたりを繰り返していた。

 名前を呼ばれたのは、翔が四度その行動を繰り返したときだった。

「玉置君! 迎えに来たよ!」

 天使の祝福を受けたような声。間違えようもなくハルだ。翔は思わずそちらへ首を捩じった。

 ハルは巨漢と王子様を従従者のように従えてずんずんとこちらに向かって歩いてきた。そしてたどり着くと、翔を三人でトライアングルの形で囲む。どこにも逃げ場はない。

 詰んだ、と確信した。

 翔の右脇をしっかり固めたハルは、頬を上気させながら翔の腕を引っ張った。

「ささ、早く行こうよ! 今回は部長のおごりだって!」

「おいおい、俺はおごるなんて一言も言ってねえぞ」

「名児耶さん、そんなこと言って。こないだの湊さんの友達のときだって気前よく出してくれたじゃないですか」

「やだ部長、男女差別するんですかー?」

「まったく、あんたら調子いいこと言いやがって」

 などとほのぼの会話しながらも、三人はちゃっかり翔を立たせ、荷物を持たせ、教室から連れ出そうとしている。ちょっと待ってください、という震える声とともに死ぬ気で机の端にしがみついた。

「僕、あの、その」

「なんだ、玉置」

「翔君、どうしたの?」

「あ、さては緊張でお腹が痛くなったね? 大丈夫! 悪いことはしないから!」

 どこまでも能天気で天真爛漫なハルの笑顔を見てしまうと、とても「行かない」とは言えなくなってしまう。こんなかわいい子を悲しませるようなことはしたくない。

「あ、あはは。な、何でもないです」

拒否の言葉は結局口の中で渦巻くばかりで外には出てこず、翔は三人に引きずられるまま、とうとう教室を出た。

 こんなことなら遺書を書いておくべきだった。お父さん、お母さん、今までありがとう。翔は涙を浮かべながら、自宅の温かな食事を想った。



 ずるずると引きずられるように連れてこられた店は、一見、何かの事務所のようにも見えた。

古臭いピンク色のタイルの壁面に円柱形のぼてんとしたシルエット。たそがれどきだというのに薄暗い店内。そのすべてが「田舎の工場の事務所」然としていた。喫茶店っぽいところと言えば、「カフェ ワンダー」とかろうじて読める店先の看板と、その上でくるくる回るパトランプくらいだ。よく言えばレトロな、ありていに言えばボロい建築物だった。

 ここが本当に事務所だったらどれだけ幸せだろうか。翔は何かの間違いであることを必死に祈ったが、扉から出てきたのは「ワンダー」と書かれたエプロンを付けた女性だった。まちがいなくカフェの従業員だ。

 女性はふくよかすぎる顎に手を当て、まあ、と倶楽部の面々を順に見た。

「名児耶くんたちじゃない。最近、よく来るわねえ」

「うっす。えりこさん、お邪魔します」

 名児耶が殊勝に頭を下げた。この女性も、どうやら珈琲倶楽部の一員だったことがあったらしい。

 名児耶に続きハルと安心院も「えりこさん」に頭を下げて入店していく。翔はこのまま逃げてしまおうかとも思ったが、当の「えりこさん」と目が合ってしまい、それもできなくなってしまった。

 彼女はころころとした顔をほころばせ、にこやかに翔を迎えた。

「あなたとは初めましてね。私は椀田えりこ。珈琲倶楽部のOGで、修行中で、マスターの娘よ」



 店内はがらんとしていた。

 木製の机も椅子もよく磨かれていることが分かるが、あまり客が使ったような形跡がなく、卓上の砂糖や塩もこんもり残っている。店内のいたるところを照らすシェードランプや手作りと思しきコースターがおしゃれだが、棚やカウンターに、大小や材質もさまざまのキャニスターがところせましとおいてあって、全体的に散らかったような印象を受ける。空気はコーヒーの匂いでどんよりしていて、換気が行き届いていないのか少し湿っぽい。おそらく「椀田さん」という名前と思しきマスターは、翔たちが入ると読んでいた新聞から一瞬だけ顔を上げたが、すぐ活字に目を落とした。読んでいる新聞は名前すら聞いたこともないマイナー新聞だ。

 翔たちはえりこに窓際の席へ案内された。翔は窓際のトイレ寄りの、一番いい席があてがわれた。正面には安心院が腰かけ、隣には名児耶が座る。肝心のハルは対角線の向こうでちょっと遠い。

 しばらくすると、メニューとともに水がおしゃれな縦長のコップに注がれて四つ運ばれる。随所におしゃれがちりばめられているのは彼女の趣味なのだろうか。

 男二人に囲まれ、翔は恐る恐るメニューに首を伸ばした。喫茶店というのだからてっきり軽食が中心かと思ったが、定食やカレーなど、がっつりした食事ものも多い。それに値段もそこらのファミレスと変わらない。これでコーヒーが飲み放題なら確かに珈琲倶楽部の面々が通うのもうなずける。

「玉置君はごはん何にするー? 私はいつもの!」

「翔君、ゆっくり見ていいからね。僕もいつものかな」

「俺もいつもの」

 三人はろくにメニューも見ずにそう口を揃えた。それがなんだか急かされている感じがして、翔は慌てて和風ハンバーグ定食に決めた。決めてから、そういえばキノコも苦手だったことを思い出した。

「決まったな。じゃ、次は何にする?」

 名児耶がそう言ってメニューをひっくり返した。その欄を見て、翔は叫び声を上げそうになった。

 そこには、ずらりとコーヒー種類が並んでいた。「お値段一律一杯六百円」の文字とともに、アジアや南アメリカなどの地名などが名前を連ねている。その中の一点、キリマンジャロがコーヒーの名前であるということくらい、コーヒー嫌いの翔でさえわかっている。

「あの、何って」

「俺何にしよっかな。前はコロンビア飲んだんだっけか」

「名児耶さん、そう言っていつもコロンビア飲んでますよね」

「ほっとけ」

「ちょっと、待ってください」

「私は何にしようかなー。グアテマラもおいしいんだよねー」

「僕はいつものニカラグアで」

 倶楽部の面々はすっかりコーヒーのことで盛り上がってしまっていて、翔の入る隙などない。まさかコーヒーがこんなに種類があるとは知らず、翔はめまいを覚えて背もたれに背中を押し付けた。不安でどうにかなってしまいそうだ。

 妙に喉が渇いて水を飲み干すと、すかさず新しいものが注がれた。少し目を上げると、えりこの愛嬌のある目と目があった。

「新入り君は何にするか決まった?」

 そう聞かれ、翔は正直に首を横に振った。ここで適当なことを言うと、ハルや先輩たちに深い話をされそうで怖かった。

 えりこは穏やかに目を細めた。

「決まっていないならハウスブレンドをおすすめするわ」

「ハウスブレンド?」

「そう。うちは基本的にシングルオリジンを扱っているんだけど、一個だけブレンドを作ってるの。うちの顔みたいなものだから、是非味わってみて」

 えりこの口からも、また翔の知らない単語が飛び出してくる。翔はとりあえず笑っておこうとしたが、その矢先、ちなみに、と名児耶が口をはさんできた。

「シングルオリジンっていうのは、要するにストレート。単一の国や地域の豆から作られたコーヒーだな。対してブレンドはさまざまな産地の豆を混ぜたコーヒー」

「へえ、そうなんですか」

「名児耶くん、またかしこくなったわね」

「えりこさんのおかげっすよ」

 えりこに褒められて名児耶はまんざらでもなさそうだ。なるほど、ハルの知識は安心院や名児耶の受け売りで、名児耶の知識はこのえりこからの受け売りらしい。もしかしたら、こうやって珈琲倶楽部のコーヒー知識は受け売りで成り立っているのかもしれない。

 ブレンドは紅茶でも聞いたことがあるが、あいにく翔は紅茶もあまり飲まない。思えば緑茶もウーロン茶もあまり好きではないので、カフェインそのものが苦手なのだろうと思っている。そういえばコーヒーも紅茶も両方出すカフェも珍しくないので、根っこのところでは両者は似ているのだろう。

 結局、ハルはグアテマラ、安心院はニカラグア、名児耶はコロンビアをオーダーした。翔も嫌々ながらもハウスブレンドを注文する。店の顔というのだから、きっと相当の自信作なのだろう。しかしそれを翔は味わって飲むことができないのだから、なんだかえりこや店主に申し訳ない。

 注文を受けて、ようやく無口な店主が動き出した。新聞を放り投げ、己の禿げ頭をなぜかぺしんと一発叩き、椅子からすっくと立ち上がる。おおむねの抽出の流れは先に名児耶が見せたのと似ているが、やかんから湯をケトルに移したあと、温度計で温度を確認していることがプロの仕事っぽい。

 一方えりこも店の奥へと移動した。小窓から、彼女が厨房内をちょこちょことせわしなく動いているのが覗ける。どうやら店主がコーヒー担当で、えりこが料理担当なのだろう。修行中ということなので、ゆくゆくはえりこがコーヒーも担当することになるのかもしれない。

 注文したものが届くまでの間、三人はすっかりコーヒートークでわいわいしていた。知らない単語が次から次へと翔の目の前を行き交い、翔はすっかり目を回してしまった。ハルと親しくなりたい一心でついてきた歓迎会が、このままでは彼女との仲は進展しなさそうだ。自分のふがいなさと、コーヒーの飲めない味覚が恨めしかった。それでもたまに不意に話を振られるときがあったが、とりあえずなんとなく笑ってその場をやりすごした。

 先に出来上がったのはコーヒーだった。

 コーヒーを持ってきたのは意外にも店主の方だった。てっきり裏方仕事に徹しているのかとばかり思ったが、コーヒーを運ぶ姿は危なげがない。

「今度の新しいのは男か」

 椀田だろう店主の声は若々しく、張りのあるいい声だった。椀田はコーヒーを配り翔の顔を一瞥すると、「つまらん」となぜか嘆いて早々と奥へ引っ込んだ。

「椀田さん、昔は声優目指してたらしいぜ」

「へえ……」

 またどうでもいい知識が増えた。

 三人は料理の到着を待たず、さっそく各々のコーヒーに口を付けた。お代わり自由というのは本当のようで、名児耶なんかは料理が届く前に早々と飲み干して二杯目を貰っていた。翔はお開きぎりぎりまで手をつけるものかと心に決めていたので、決して手を伸ばさなかった。

 対角線の向こう、コーヒーを二割ほど口に含んだハルが、おや、と片眉をひそめた。

 見れば彼女の隣でも、安心院が微妙な顔つきでカップをにらんでいる。カップを揺すっては不審げに水面を眺め、ハルと顔を見合わせた。

「どうしたんですか?」

「えっ、いや、何もないよ。ねえ、湊さん」

「はい、何でもないです。ほら、玉置君も飲んで」

 ハルと安心院は唇だけで作った笑顔を浮かべ、翔にコーヒーを飲むよう手のひらを向けて催促してきた。翔はたじろいで、助けを求めて名児耶を見た。しかし隣の名児耶はこちらのことを一瞥もせず、カウンターに行って小窓越しにえりこと親し気に談笑していた。見れば名児耶は涼し気な目元をだらしなくゆるませて、でれでれと鼻の下を伸ばしているではないか。後輩になるかもしれない男がこんなに危機に瀕しているのに、なんという体たらく。えりこのようにふくよかな女性が好みというのには驚いたが、それ以上に名児耶という男に失望した。

 残る頼みの綱は椀田だけだと思ってそちらに目をやったが、椀田は椀田で「新聞に夢中で興味の「き」の字も示してはくれない。いよいよ追い詰められ、翔は震える手でカップの取っ手を掴んだ。まがまがしく黒い液体がその拍子に揺れてソーサーに一滴落ちる。

 カップを持ち上げると、コーヒーの刺激的な匂いがもわっと鼻孔を通り抜けていった。それだけで胸糞が悪くなり、吐き気をもよおすほど気持ち悪くなる。なぜ部室では一杯飲み干せたのか、自分でも分からないほど脇の下に汗をかいている。果たして自分はこの得体も知れない液体を嚥下することができるのだろうか、それは神のみぞ知る。

 腹をくくって、カップに口を付けた。

 うぐっ、と喉がひきつった。

 先手をかけたのはとんでもない泥臭さだった。雨上がりの湿った泥を煮詰めて濃縮したらこんな味になるだろうか。それに続いてやってくるコーヒーの強烈な苦さと相まって、すっかり口内はカオスの魔窟と化した。吐いても吸ってもコーヒーの匂いがする。どこを見ても手詰まり。背水の陣とはことのことか、と翔は趙軍に追い詰められた漢軍のことを思った。

 これはとても飲み干せるものではない。部室で自分が淹れたものの方がはるかにましだ。翔は冷や汗でぐっしょりした手でカップをソーサーに戻した。体の末端の体温が奪われていく。胃が絞られるようにきゅっと痛む。

「どうだった?」

 ハルにそう聞かれ、翔は必死に笑みを張り付けてがくがくとうなずいた。

「うん、とっても、おいしいよ」

「そっか」

 ハルの返事はそっけないものだった。もしかしたら、翔の「まずい」という思いが顔に出ていたのかもしれない。まさか椀田の目に入っていないかとひやっとして彼を見やったが、彼は相変わらず新聞を読んでいた。無関心もここまで徹底すれば感心するレベルだ。

 ハルと安心院はもう一度顔を見合わせ、次に相変わらず談笑している名児耶の方を見た。名児耶はちょうどえりこからコーヒーのお代わりをもらっている。料理はもうできているらしく、今から運ぶところらしかった。

 名児耶は三人の視線に気づくと、ようやくこちらを向いた。

「ん? どうした?」

 その手には何事もなかったようにコーヒーがあって、それを名児耶はうまそうにすすった。

「何でもないです、名児耶さん」

「もー、部長ったらすぐえりこ先輩とイチャイチャするー」

「イチャイチャなんかしてないわよ。はい、お待たせしました」

 えりこが困ったように眉根を寄せながら料理を運んできた。ハルはカルボナーラ、名児耶はビーフシチュー、安心院は意外にもクラブサンドだけだった。翔の目の前にどんとハンバーグ定食がおかれ、写真より二割増しに見えるボリュームに圧倒された。

 名児耶もテーブル席に戻ってきてさっそくスプーンに手を伸ばした。えりこが安心院のコーヒーのおかわりをつごうとしたのを、他でもない安心院が制した。

「おかわりはあとでいいですから、少し、席をはずしていただけませんか? 部員だけの秘密の話がしたいので」

「あら、じゃあ新入り君は入部決定なのね」

「はい」

 勝手に入部が決められたのは心外だ。

 えりこは素直に安心院の話を信じたようで、「じゃあ水入らずで」と椀田を引きずって奥へ引っ込んだ。店を完全に放っておいてもいいのかいささか不安だが、他の三人は気にしていないようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る