第2話

 それでもついてきてしまったのは、幼いかの日の彼が抱いた、彼女への憧憬のせいだろうか。

 珈琲倶楽部なる恐ろしげな名のついた部活の根城は、キャンパスの隅にあるサークル棟の一番端っこにあった。

 初夏とはいえ延々と日差しの下を歩けば疲れもする。汗で貼りつきそうなシャツの襟首を引っ張りながら、翔は目の前でひょこひょこと歩く小さなハルを追いかけた。ハルの足取りは軽く、確実に夏に近づきつつある気候をものともしない様子だ。足が地面を踏むたびに揺れる水色のワンピースの裾がまぶしい。

 たどり着いたその部屋の扉には、「珈琲倶楽部」とへたくそな字で書かれた紙が貼りつけてあった。よく見れば紙から白く固まったものがはみ出しており、木工用ボンドで四隅を接着してあるのが分かる。

 ハルはその貧弱な扉を指差し、「ここが部室だよ」と見て分かることを言う。可憐なハルとこのオンボロ部室を見ていると、なんだか幽霊の出ると噂の廃墟と、そこにビデオカメラを片手に侵入するユーチューバーを連想させる。僕が悪い幽霊から守ってやらなきゃ、と翔は内心決意を固めた。

 こんこん、と二度ドアを叩き、ハルは躊躇なくノブを回した。

「ちわーす、湊でーす! お客さん連れてきちゃいましたー!」

「はあーい、どうぞー」

 返ってきた声はともすれば女性と間違えてしまいそうな、存外に穏やかなものだった。あれ、もしかして悪いところじゃないのかも――と翔が心を許しかけたところで、その男は姿を現した。

 その巨躯に、まず翔は圧倒された。

 男は縦にも横にも大きかった。背は翔より頭ひとつ分大きく、横幅はハルふたり分ありそうだ。逆光で顔はよく見えないが、鋭い眼光が翔を値踏みしているかのように見下ろしているように見える。縦横無尽にのびた、ベートーヴェンの恐ろしい顔が描かれたTシャツがさらに彼を異様に見せていた。

 勝てない、と本能で察した。

 巨漢は巨体に似合わぬ可愛らしい声で、ははあ、と唸った。

「今回のお客さんは男の人なんだね。最近部長目当ての女性客が多かったから、今回もなのかなって思っちゃったよ」

「えへへー。こないだは大勢で押しかけてごめんなさーい。あ、この子はですね、私の元中の玉置君です! 玉置君、こちらは先輩の安心院さん」

「あ、はい。玉置です」

「よろしくね、玉置君。ハルちゃん、こう見えて癖のある子だから、結構苦労してるんじゃない?」

「えっ、いや、そんなことないです」

「もーっ、安心院さん! 私そんなに変な子じゃないです!」

「とにかく入ってよ。ちょっととっちらかってるけど」

 安心院と言うらしい大男に促されるがまま、翔はずるずると部室に入った。途端に鼻孔を突くカフェインの匂いにたじろいでしまう。

 室内は、見たこともない器具でとっちらかっていた。

 簡易コンロにはやかんがしゅんしゅんと火にかけられていて、傍らにはなぜかアルコールランプがちょこんと置いてある。他には理科室においてあるのとは少し形の違うフラスコ、そして大振りのティープレスがスチール机に並んでいる。コーヒーを淹れるものらしい、名前は知らないがよく見かけるプラスティックの器具もコーヒーサーバーのそばにおいてある。部屋の端の棚には、たくさんのカップが行儀よく収まっていて、隣にはホテルに置いてあるような小さな冷蔵庫がちょこんと居座っている。まるで家庭科室と理科室を足して二で割ったような空間だ。

「はい、玉置君。ここに座って」

「あ、はい……」

 こわごわ、翔は指定された椅子に腰かけた。ふかふかの座布団が尻をすっぽりと包む。座り心地のよさがかえって緊張を促す。隣にハルが座ってくれたことがせめての救いだ。

「もうすぐ部長も戻るから、それまでお喋りでもして待ってようか」

 そう安心院は言うが、知らない大男と初恋の相手に挟まれ、リラックスしてお喋りなどできやしない。翔はあわあわと両者を見、結局視線を下に落とした。

 そんな翔をよそに、安心院は実に饒舌に喋った。

「玉置君、いや、翔君って呼んでいい? えへへ、僕男の子の後輩ってずいぶん久しぶりだから、ちょっと緊張しちゃうな。あ、馴れ馴れしかったらごめんね」

「いえ、えっと」

「ところで、翔君ってコーヒー飲む? あ、飲むからここに来たんだと思うけど。でも僕もね、この部に入るまでほとんどコーヒーなんて飲んだことなかったんだ。飲んでも温めたミルクにインスタントコーヒーを小さじ一杯入れたもの、とかさ。でも湊さんもそんな感じって聞いて、僕すっかり安心しちゃって」

「は、はあ」

「あ、翔君ってどんな喫茶店が好き? 僕昔ながらの、気難しいおじさんが経営してるようなところが好きだな。ほら、コーヒーと一緒におつまみとして柿ピーがでてくるようなところ。湊さんは純喫茶が好きなんだっけ?」

「はい! 純喫茶のソーダが好きです! ねえねえ、玉置君は?」

「ぼ、僕は、その、スタバ、とか」

「ああ、シアトル系が好きなんだね! 僕も好きだよ! いろんなフレーバーがあって美味しいよね!」

 安心院の口から、次々翔の知らない単語が飛び出してくる。隣を見るとハルはふんふんと熱心に聞いていて、よく分かっていないのは自分だけらしい。翔はとりあえず、得意の曖昧な笑顔でなんとなく分かっている風を装った。

 部室の扉が開かれたのは、ちょうどそんな時だった。

 ばたんと粗雑な動作で開かれた扉の方を思わず見やる。安心院もハルもそちらに目を向けた。

 そこには王子様が立っていた。

 いや、よく見ると実際に王子様が立っていたわけではない。着ているのはフリルのついたシルクのシャツや、まして長くて大きなマントではなく、ユニクロの発色のよい丸首シャツとチノパンだ。頭には当然王冠もない。しかしその姿は、お忍びでユニクロに身を包んでいる王子様そのものだった。

 勝てない、と翔は人知れずショックを受ける。ハルを守ると決めたはずなのに、次々と攻略不可能な強敵ばかりが現れる。無理ゲーもびっくりな難易度だ。

 謎の美男子は後ろ手で戸を閉めると、ぱちぱちと翔の方を見、そしてぱあっと笑顔を弾けさせた。

「ああ! あんた新入部員か!?」

「えっ、いや、僕は」

「待ってろ、今とびっきりのコーヒー淹れてやるからな。自分で言うのもあれだが、俺、結構淹れるの得意だぜ。えっと、今のストックは……グアテマラとブラジルN‐S‐19、ケニアAAだな。どれがいい?」

「え、えっと」

「部長、そんなこと言って玉置君困らせないでくださいよー」

 ハルの話しぶりから、この王子様風の男が部長なのだろう。部長は卓上に並べた三つのキャニスターと翔の顔を交互に見、困ったように眉根をよせた。

「そんなこと言ったって、好みっつーモンがあるだろ。そら、好みの味を言ってみろよ。それっぽい味のやつ調合してやる」

「えっ、僕、そんなこと言われても……」

「翔君、甘いのとなめらかなのと酸っぱいの、どれがいい?」

 安心院に助け舟を出されたが、甘いのとなめらかなもの違いが翔にはよく分からない。散々悩んだ挙句、一番飲みやすそうな、なめらかなものを選んだ。

 部長がミルで豆を挽くと、焦げっぽい独特の香りが漂ってくる。明らかにインスタントのものとは異なるということくらい、コーヒー嫌いの翔にもなんとなくわかった。

「それにしてもあんた、運がいいな。今回あるストック、全部高級品だぜ。普段はもうワンランク低い豆を買うんだが、多めに給料が入ったから買っちまったんだ。安心院、湊、あんたらも飲むだろ?」

「わーい! いっただきまーす!」

「名児耶さん、ありがとうございます」

 どうやら部長の名前は名児耶と言うらしい。安心院といいナゴヤといい、この部の男性の名前は地名が多いようだ。ずいぶん歯切れのいい話し方をする人だな、と翔は名児耶を見て思った。

 名児耶は豆を挽き終わると陶器製の器具に茶色い紙をセットし、そこに四人分のコーヒーの粉を手早く入れた。軽くならし、サーバーの上にセットする。

「お、お湯はもう沸いてんだな」

「はい。名児耶さんがコーヒー淹れると思って、僕が沸かしておきました」

「でかしたぞ安心院」

 そう言うが、名児耶はすぐにお湯を使わなかった。火を止め一呼吸置いてから、ようやくヤカンを持ち上げる。そして銀色の、口が細くて長いケトルに移し替えた。

 翔の視線に気づいたのか、名児耶がプラスティックの器具を軽くゆすって見せた。

「これか? これはドリッパー。まあ見たことはあるだろうが、ペーパーフィルターを使ってコーヒーを淹れる道具だ。俺はカリタ式が好きで使ってるが、これ以外にも型があるんだぞ」

「そうなんですか」

「やってみるか? 案外楽しいぞ」

「いや、でも、うまく淹れられる自信がないです」

「何事も経験だって。そら、貸してやるから」

 名児耶に半ば強引にケトルを押し付けられ、翔はしぶしぶドリッパーの前に立った。立ち込めるコーヒーの匂いにくらくらしてしまいそうだ。お湯がたんまり入っていることもあろうが、それを抜きにしてもケトルが異様に重たい。隣で名児耶に指導を受けながら、翔はそろそろとお湯を垂らした。

「そうだな、お湯はもう少し細めにゆっくり、まず全体に注ぐ。こう、『の』の字を描くのがポイントだな。そうそう、いい感じだぞ。あんた筋あるな。名前は?」

「た、玉置です」

「そうか、覚えとくぜ。あ、ストップ! ここで一旦蒸らすぞ」

 ぶわあっと粉がハンバーグ状に膨らむのを、翔は何ともいえない心持で眺めていた。きっとこのコーヒーは己の口に入ることになるのだろう。今更まったくコーヒーが飲めないなんて告白し辛く、翔はここまでついて来てしまったことを後悔した。わくわくした目でこちらを見ているハルの視線も今は切実に痛い。

「よし! さっきみたいに注いでみろ」

「えっと、その、こう、ですか?」

「そうそう! いいぞ玉置、そんな感じだ。はいストップ! 中心がへこむまで少し待つ!」

「あ、はい」

「玉置君、意外と上手だねー。私なんて最初部長に怒られっぱなしだったんだもん」

「そ、そうなのかなぁ」

「三回目のお湯を注ぐぞ。さっきよりお湯は太めで注ぐのがコツだ。ほら、早くしねえとアクが落ちちまう」

「は、はい」

 名児耶にせっつかれ、あわあわと翔はケトルを傾ける。ちょっとでも手を休めると名児耶から何か言われそうな気配だ。あまりに「の」の字のことを考えすぎて、もはやこれを飲む運命にあるということは頭になかった。もう今夜は「の」の字の夢を見るかもしれない。

 言われるまま四度目の湯も注ぎ、あれよあれよという間にコーヒーが完成されてしまった。抽出液の量を確認すると、名児耶はあっさりとサーバーからドリッパーをはずし、中に残ったお湯ごとペーパーフィルターをシンクの三角コーナーに入れた。コーヒー好きらしからぬその行動に、もったいないと思わないのかな、と翔は疑問に思ってしまう。それを見た名児耶が、そっと耳打ちをしてきた。

「アクが落ちちまったら味まで落ちるんだよ」

「はあ」

「だから、アクが落ちる前に抽出を止めるんだ。覚えておけ」

 そう言われても、この知識を果たして活用する日がくるのか、翔にははなはだ疑問だった。

「そら、できたぞ! 上手くできてるといいな!」

「あ、はい。僕も飲むんですか?」

「何言ってるんだ。あんたのために淹れたみたいなモンだろ」

 棚からマグを四個出すと、名児耶はそれぞれ均等にコーヒーを注いだ。黒い焼き物の渋いマグが名児耶のもの、ベートーヴェンが印刷されたポップなデザインのマグが安心院のもの、可愛らしいサバトラ猫が描かれたマグがハルのものらしい。翔には真っ白の来客用のものがあてがわれた。

 テーブルの中央に粉状のミルクと角砂糖が用意される。ハルはミルクをティースプーン一杯と角砂糖二個、安心院はミルクだけそれぞれ入れていた。名児耶はブラック派らしく、席について早々口づけていた。

「どうしたの、翔君。ぼんやりして。飲まないの?」

 安心院に言われ、翔も慌ててマグに口をつけた。

 えらく苦かった。

 飲んで初めて、ミルクも砂糖も入れていなかったことに気づいた。コーヒーの苦味と酸味が過激に舌蕾を刺激する。それがあまりに強烈で思わずえづきそうになるが、ハルが隣で美味しそうにコーヒーを啜っていることもあり、ぐっとこらえて飲みこんだ。

「はー、おいしい。すごいね、玉置君。ブラックで飲めるんだねー」

「えっ、あ、いや。まあ」

「私甘党だから絶対無理だなぁ。あ、コーヒーとっても美味しいよ! これが玉置君の味なんだね!」

「僕の味?」

「ペーパードリップは淹れる人の個性が出るからね。うん、翔君はちょっと苦めかな。でも、僕この味も好きだよ」

「へえ、そうなんですか」

「お湯を注ぐスピードで濃さが変わるモンなんだよ。正直のところ、俺なんかせっかちだから薄くなりがちなんだよな」

 ということは、翔がとろとろしていたからコーヒーが濃くなったのだろう。それきしのことで味が変わるのなら、最初からせっかち気味に淹れればよかった、と今更ながら後悔する。

 どう? とハルが上目づかいに翔を見やった。

「来てよかった? 楽しい?」

 少し心配そうにそう聞くものだから、翔はドキマギしてつい大げさに頷いた。

「えっ、うん! 楽しいよ。先輩たちもいい人たちだし、貴重な体験もできたし。僕、コーヒーをこうして淹れたの初めてだし」

「本当? よかった! さっき難しい顔でコーヒー飲んでたから、ちょっと心配になっちゃって。もしかしてこういうところ連れてこられるのって嫌だったかなあって」

「そんなこと! 何度も言うけど、とっても楽しいよ」

 コーヒーは相変わらず苦手だが、楽しいのは事実だ。先輩たちは少なくとも悪い人たちではなさそうだし、なによりハルが隣にいるだけで心がうきうきしてくる。それだけで、この苦い飲み物もなんとか飲めそうな気になってくる。

 楽しそうでなにより、と先輩二人も頷いた。

「その飲みっぷりなら、歓迎会でも期待できそうだな。俺のライバルになるかもしれん」

「そんな心配しなくても、誰も部長には勝てませんよ」

「そそ、私も歓迎会のときつぶれちゃいましたからー」

「あのときは本当にごめんね、湊さん」

「いいですよお。今となってはいい思い出です!」

 歓迎会とやらの話で三人でわいわいと盛り上がりを見せる中、経緯の分からない翔だけが取り残された。おずおずと手を挙げて、そっと会話に滑り込む。

「あの……歓迎会って?」

「ここに客が来ると、決まって名児耶さん行きつけのお店で飲み会するんだ。あ、飲み会って言っても飲むのはコーヒーだけなんだけどね。しかもお店の人のご厚意でおかわり自由なんだ!」

「大丈夫! 無茶はさせないから!」

「いや、それもあるんだけど……」

 助けを求めて翔は名児耶の方を見た。この悲痛な想いがテレパシーで伝わればよかったのだが、世は無常、そうは問屋が卸さない。

「安心しろ、ちゃんと玉置の歓迎会も開くから」

 ああやっぱり。翔は内心頭を抱えた。

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