珈琲倶楽部へようこそ
たけのこ
第1話
玉置翔は、コーヒーが苦手だ。
まがまがしいほどに黒い見た目にも抵抗があるが、なによりその苦さと酸っぱさが駄目だった。一口飲めばきゅっと舌が縮こまり、無意識に喉がすぼまる。食道から胃に落ちる間じゅうずっと苦いし、落ち切ったら落ち切ったで胃がひっくり返るような気持ち悪さを覚える。さらに飲んでしばらくすればお腹が痛くなり、トイレに駆け込むこととなる。とどめとばかりに、夜眠れなくなる。
コーヒーというのは試験前や受験前、勉強に集中するため嫌々飲むもの、という認識だった。
しかし中学生で友達がコーヒーの味を知り始め、高校生になって周りが喫茶店に通うようになると、翔はなんだか孤立したような気になった。友達とスタバに行っても、翔がいつも頼むのは甘いココアやミルクだった。一方友達はそれぞれコーヒーをオーダーし、やれ酸味がやれ苦味がとは言って盛り上がっていた。翔は味覚が子供だな、などとも言われた。
僕もいつかコーヒー飲めるようにならなきゃだめかな、と思い出したのが、高校一年生の春。
幾度か夏が過ぎ、秋が訪れ、冬になっても翔のコーヒー嫌いは治ることはなかった。この時期になると友達からも、無理しなくていいんじゃない、と言われるようになってきた。友達に気を使われるのは居心地が悪いが、このままコーヒーが飲めなくていいかな、なんて思い出した。高校三年生の春だった。
そう思うようになってから、翔の生活はめっきりコーヒーから離れて行った。友達も次第に翔を喫茶店に誘わなくなってきた。大学受験はAO入試で合格したので、かつてのように勉強のためにコーヒーを飲むこともしなくなった。
そうして無事に大学に入学して数か月、サークルには入らずだらだらとキャンパスライフを過ごしていた。
そんな翔に転機が訪れたのは、長雨の明けたばかりの初夏のことだった。
「あれー、玉置君じゃない?」
喧噪に包まれたカフェテリアにて、翔は不意に少女に声をかけられた。
食べかけのサンドウィッチを包装紙の上に置き、翔は声をかけてきた少女の姿をまじまじと見た。大きな目とウェーブかかったショートヘアの、小柄な少女だった。全体的にかわいらしいが、とくにやわらかそうな頬が魅力的だ。どこかで見たことのある顔だ。もしかして授業で一緒だったかもしれない、なんて思っていると、少女がぐっと顔を近づけてきた。
「私のこと覚えてないかな? 小、中学と一緒だった湊ハルだよー。ほら、クラスも一緒だったでしょ?」
「ああ、湊さん!」
名前を聞いてようやく思い出した。何度か委員長も務めたこともある、クラスの中でも目立つ少女だった。さらに言えば、翔の初恋の相手だった。もっとも、その想いは少しも彼女に伝わることはなかったが。
もともと派手な少女だったが、目の前の少女はそれよりも垢抜けていて、ぐっと大人びている。うっすら化粧もしていて、中学生だったときよりも一段と可愛らしくなっている。初恋の甘酸っぱい気持ちが戻ってきて、翔はどきまぎしながら顔をそむけた。
「湊さん、ずいぶん変わったね。なんていうか、大人っぽくなった」
「玉置君もずいぶん男っぽくなったねー。いやあ、それにしてもようやく昔の知り合いに会えてよかった。ほら、この学校でウチからずいぶん遠いでしょ? だからさ、このまま私、友達もできないままキャンパスライフを送ることになるのかなーって思って」
「はは、またまた」
一人で寂しくサンドウィッチをぱくついていた翔への慰めだろうが、まさか本当に彼女に友達が出来ていないはずがない。こんなに快活で可愛らしい少女を、どうして周りが放っておこうか。
一方の翔といえば、入学して数か月が経過しようとしているが、一向に友達というものができる気配がない。サークルに入っていないことも大きな原因の一つに違いないが、それにもともと翔は外向的な性格ではないので、軽々しく他人に話しかけることができないのだ。
ハルは翔の隣に腰かけると、小鳥の餌のように小さい弁当箱とスタバのタンブラーを鞄から取り出した。彼女の手のひらにすっぽり収まるおにぎりに、卵焼きとプチトマト、あとは冷凍食品のグラタンとから揚げが一つずつ、行儀よく箱の中に収まっている。翔はそれほど大食漢ではないが、それで本当に体が持つのだろうか、と心配になってしまう。
翔の視線に気づいたのか、おにぎりを咥えようとしたハルの口が止まった。
「ん? 玉置君、どうしたの?」
「え、いや、何も?」
「あっ、さてはこの中身が気になるんだね?」
そうハルが手に取ったのは、あの有名な人魚のイラストが描かれたタンブラーだった。
「これねー、さっき大学の近くのカフェに寄って買ってきたんだ。ほら、タンブラー持参するとちょっと割り引いてくれるお店あるでしょ?」
「へえ、そうなんだ」
「えへ、中身はねー。じゃーん!」
タンブラーのフタを開けて見せられたその中は、クリーム色の泡で覆われていた。
正体不明の液体を見せつけられ、さしもの翔もまじまじと観察してしまう。匂いはコーヒーのものらしく、つんと焦げ臭い。ハルが軽く容器を振ると、泡の下からうす茶色の液体が顔を出した。おにぎりや玉子焼きとの相性は疑問だが、ここでようやく、この液体の正体が掴めた。
「あっ、カフェオレ?」
「ざんねん! カフェラテでした!」
「えー、そんなのありかよ」
なんだかいじわるななぞなぞに引っかかった気分だ。なんだか釈然としない気持ちでいると、隣でくすくすとハルが笑った。
「さては玉置君、あまりコーヒー飲まないね?」
「え、あ、たまに飲むくらい、かな」
まさか初恋の相手に「コーヒーがまったく飲めない」などとは言えず、咄嗟に翔は嘘をついた。
「じゃあ聞いたことあるかな。カフェオレとカフェラテの違い」
「うっ、それは。ない、かな」
「ざっくり言うと、カフェオレはコーヒーに牛乳を混ぜたもの。カフェラテはエスプレッソに牛乳を混ぜたものだよ。で、カフェラテのミルクはこうやって泡立てたりもするんだよ」
「えっ、エスプレッソって、あの苦いやつ?」
「あはは、確かに苦いね。でも、美味しいやつは本当に美味しいんだよ? 今度いいお店紹介するよ」
「う、うん。今度ね」
翔は曖昧に笑った。
そこでハルも黙ってしまったので、ちょっとした沈黙が流れた。ハルはおいしそうに弁当を食べているが、翔の方はこの沈黙が耐えられなくて、必死に脳内で話題を探した。
「湊さん、コーヒー好きなんだね」
結果、翔は無難なところへ話題を落とした。
「大学入るまではそうでもなかったんだけどね。飲みだしたのもサークル先輩の影響だし、さっきのも先輩の受け売りだし。私、大学に入るまでインスタントしか飲んだことなかったの」
「そうなんだ」
まさかその「先輩」とやらは男で、コーヒーをダシにハルと親密になりたいだけなのではなかろうか、という邪推が脳裏を過る。まさかヤりサー、という深いところまで思考がたどり着こうとしていたところで、そうだ、とハルがぽんと手を叩いた。
「玉置君はサークル入ってるの? 何部?」
「え、僕? えっと、僕は特に、何も入ってないよ」
「えー、意外。なんだか茶道部とか入ってそうだったのに」
それは一体どんな意味なのか、それを問いただす勇気は翔にはなかった。
ちょうどいいや、とハルはもう一度手を叩いた。
「玉置君、コーヒーとか飲むならちょっとうちのサークルに顔を出してみなよ。大丈夫、怪しいところじゃないから」
「そんな心配はしてないよ。それで、何のサークルなの?」
「コーヒーを飲むだけのサークルだよ」
翔は絶望した。
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