異世界スクールゾーン1
浅場家で晩御飯も食べ終わり、有り難いことに一番風呂を頂いて、照彦はやっと一息つくことが出来た。陽寄ちゃんは「明日、朝のクラブ活動あるから」と夜の九時前に床へ入り、美景もその後をついて行った。
窓の奥は真っ黒な闇。漏れた光に誘われたのか、名称の分からない虫がべったりと網戸にくっついていた。誰もいない居間で一人、以前住んでた頃は無かった立派なソファーに腰を掛けて、照彦は物思いに耽ってみせる。
つまり現在、この元実家である浅場家で自由に動ける時間帯。
「……気になるなら聞いてみるしかない」
気が乗らなかったが、振り切るようにさっと立ち上がり、居間に置きっぱなしだったボストンバックへと歩み寄って、中からケータイを掘り起こした。電話帳を確認し、次々と名が表示されていく途中、カ行でスキップを緩める。覚悟を決めて決定ボタンを押す。
今の時間帯なら病院で独りきりの残業にふて寝している近藤が居るはずだ、掛からなくても、留守電ぐらいは残しておこうと、照彦がケータイに耳を当てると、
「現在、電波の届かない場所───」
え? と手に持ったケータイ画面を再確認。……驚いた、電波が、立っていない、一本も。そういやこの田舎町じゃ電波もろくに通ってなかったっけ、と歯痒い思い出が蘇る。
思い切って家電を──とは思うが即座に却下する。
あまりこの浅場家で目立つような行動は控えたい。ましてや病院、照彦の両親に繋がっている印象は避けて行きたかった。
過去には未練がなく、もっと過去に執着がある。
そんな気持ち悪い立ち位置で照彦は常時立っていたかった。
「明日、学校へ行く時に……いい場所探すか」
そう算段を付けて、置いていたバックを抱え込む。その時、ガサリ、とバックの中で乾いた音が鳴り響いた。このまちへ訪れた原因である、大量の手紙。宛先は自分、送り手は──忘れることの出来ない名前。
けれど照彦が起き上がる数年前から、ぱたりと手紙は途絶えていた。
手紙の内容も、唐突に途絶える様子は感じられないものだったにも関わらず。
「……ホント、周りに聞けばいい話だろうにさ」
実際に己の目で確かめたい。どうして手紙を送らなくなったのか、その理由を。話せない状況でも、遠くからそっと確認する程度でいい。ただ、あの少女の現在を知りたい。ただ、それだけが知りたくて。
浅場照彦は、周りに嘘をついてでもここへ訪れたかった。
「……なんで知ってんのかな、あの娘」
けれど覚悟を揺るがす、あの少女、柊木まひろと名乗った彼女。
勘違いならそれでいい。でも、照彦がそうまで覚悟を決めてやってきたのに、記憶が無いと嘘をついてまで、この故郷へと舞い戻ってきたと言うのに、
『私は、貴方の『ヒミツ』。知っていますよ』
照彦は否定に首を振る。
あり得ないはずだ、と思い直す。記憶が無いという嘘は、本当に照彦を含めて三人だけだ、どこからか漏れるはずがない。
あの近藤でも患者との約束を反故するタチじゃないのはわかっている。あの柊木まひろが言ったヒミツとは一体なんなのか。
俯いた視界の中で、窓に張り付いた虫が、突然大きく羽ばたいた。
「わっ!」
思わず悲鳴を上げ、まずい、と両手で口を覆う。急に虫が動いたことにではなく、その虫をぱくりと捕食したヤモリに驚いたのだ。いつの間にか気配を殺して、獲物との距離をじりじり測っていたのか。音のない狩りは見事なものだった。
都市部じゃ中々お目にかかれない野生の一部を目にして、感嘆に浸る照彦は、驚きで口を覆った際に、床に落としてしまったバックへ目が止まる。「あーあー……」と衝撃で周囲に散った手紙やら下着やらを拾いはじめて、
「ん? ……なんだコレ?」
見慣れぬ紙切れを拾い上げた。繊細に織り込まれたものは、どうやら手紙らしい。リハビリ施設で出会った女の子たちも、こんな手紙を密かに交換していた気がする。
回収する作業の手を止めて、見覚えのない手紙に爪を立てて解いていく。きっちり織り込まれた折り目は、安易な力じゃ取れそうもない。妙に神経を摩耗させながらようやく解き終わり、酷くシワの寄った紙を指先で伸ばして、内容へと目を凝らす。
『あの坂で待っています。柊木まひろ』
大きなスペースを残したまま、それだけが書いてあった。
「テルテル?」
驚きでまた悲鳴を上げそうになった。咄嗟に振り向くと、急激な動作に眼球がスパークする中、居間と和室を区切る間に美景が立っていた。
大人しめのベージュ色のニットカーディガンをゆるく羽織り、周りに漂うオーラは可視化できそうなほどふわふわで、お風呂上がりの香りが鼻腔をくすぐった。
照彦にとって嗅ぎなれない、美景に対して印象の薄い、ナチュラルな大人の女の匂い。
「どうしたの? なにか考え事ですか?」
静かに引き戸を閉めて美影が此方に近づいてくる。シャンプーの匂いがいっそう強くなり、ひときわ大きく鼓動が跳ねた。「なんでもないです」や「大丈夫です」ぐらいは相槌をうてた気もするが、口以外の自然体がもろもろ外れかかっているのは否めない。
床に縛り付けられた足裏は、美景の声でより強くこの場に引き止める。
「ごめんなさい。すぐに片付けますんで、美景さん」
湧いた不節操な感情を切り裂くように、先制を込めて、敢えていらない名前を付け加えた。美景は悲しそうに笑い、それでも歩みを止めず、照日の眼前までやってきた。
「具合悪いのかしら?」
「いえ、なんとも。ただちょっとヤモリに驚いて」
ヤモリ、あぁ驚くよねヤモリ。とゆるく何度も頷く美景。そしてぱっと花咲くように唐突に微笑んで、
「懐かしいわ。よく昔、テルテルと夜中に一緒に抜け出して、秘密基地に遊びに行ったっけ」
ぐるり、と胃の中が逆流しかける。筆舌に尽くし難い、正体不明な怯えが照彦に身に迫っている、気がする。特に美景が一向に『テルテル』という名称を止めない現実に。照彦のヤモリ発見が、なぜか照彦との思い出話に変換された意味に。
喉を鳴らして、照彦は、俯いたままちらりと横目で盗み見る。失敗した。美景の、常に微笑んでいるかのような薄く伸びる目元から覗く瞳とかちあってしまう。いたずらっぽく光る瞳にアゴが思わず跳ね上がった。
合わさってしまえば逸らせない。今度こそ身体全体がこの場に縛られてしまう。
「ねえ、テルテル」
「っ……はい!」
美景の蠱惑的な声が耳元をなぞり、より顔が近づく。普段の優しい響きが鳴りを潜めた、吐息たっぷりウィスパーボイスが、照彦の齢十代の健全たる身体を理解不能まで高めあげていく。
「この町に、この家に戻ってきてくれて、ありがとうございます。我が家族一同、それはそれはもおう心の底からずっとずぅーっと、心配してたんです。あの日、テルテルが倒れてから」
「あ、ありがとうございます。あと、心配をお掛けして……それに、俺にも個人的に目的があったんで、帰りたかったというか」
何を感謝されているのかわからないが、場から動けないならとにかく返事を返すしかない。さりとて今も勘違いだと己に強く、強く、言い聞かせる。
だって浅場家に到着してすぐ、晩御飯だと美景手作り(トンカツだった)を馳走になった時。何故か理由は不明だが、常にとんかつを「あーん。美味しいですか? ふふっ」と妙な距離感で接してきていた。アレだ、久しぶりの甥っ子に会った感覚に違いないと、照彦は思っている。
「へえ、目的があるんだ」
甘くとろけるような声色に、照彦は腰から砕け落ちそうになった。勘違い勘違い、と寝間着に履いた半ズボンをぎゅっと握りしめた。
「教えてほしいな、私にはきちんと」
背筋に痺れる。脳が凝固していく。
「なに、を」
「全部です。目的もだし、それにテルテルは本当に何も覚えていないのでしょうか? 両親のことも、過去のことも、クラスメイト達のことも……私のことも」
ひぇっと口の端から悲鳴が漏れた。当たって、いる。なにがとは、美景の質問がではなく、それはもう二つの果実が。それは偶然だ。例え、驚きに漏れた照彦の声を聞いて、美景はクスリと笑っていたとしても。
「覚えて、ません」
辛うじてそれだけを絞り出す。これ以上接近されれば、今まで必死こいて嘘をつき埋めてきた空白が、想いが、また違ったもので埋没されてしまう。ある意味、現実的な話でも。
ふと、窓の外で、身体半分までをヤモリにもりもり捕食された虫が居た。
「私と過ごしたあの日々もですか?」
「ありません!」
きっぱりと断言する。その照彦の勢いに、調子が乗ったのか更なる深みへ身が沈んでいく。もうダメだ、ぎゅっと両目を閉じ最後の抵抗だと、両手を握りしめて決して離さない。
「……そっかー」
残念そうに照彦から身を離す美景。それを尻目に床に散った手紙を急いで回収し終わる。その時、つけたままの腕時計に目が止まる。九時半。もうとっくに太陽は沈み、外は暗闇の中だ。虫だってヤモリだって這い出てくる時間帯。
けれど、人は出歩いたら駄目な時間帯。
「美景さん」
「なあに?」
怖い予感がぞわぞわと背筋を撫でる。今度は種類の違った怯え。あり得ない、けど信じきれない、と。照彦の焦りを加速させていく。
まさか、本当に可能性として?
現にこの手紙に何時だとかの情報は皆無だ。短文でただ一文、あの坂で待っています。とだけ。スキップして加速を極める想像が、腹立たしさを原動力に決定ボタンが押し込まれる。
「ちょっと出かけてきます!」
「ええっ? でもこんな暗い時間に…」
「すみません! すぐに戻ってきますんで! ……出来れば両親には内密に!」
さり際にみじめな言い訳をこぼして、もー、これからなのに。なんて不満そうに腕を組む美景を背に、照彦は玄関へと急ぐ。新品気味のスニーカーの踵を躊躇いなく踏み潰し、肩で押してドアを開け放ち、真っ暗な闇が佇む外へと駆け出した。とにかく身体が凍りそうな予感だけが、脳内で渦巻いていた。
おっぱいがどうの、とか。もう照彦の頭からは消え去っていた。
※※※
随分と走ってきたような気さえする、遠く果てしない夜道を、放たれた矢のように疾走を続けてきた照彦の呼吸は、荒いを通り越してもう雑だった。過呼吸気味にコヒュッと空咳じみた息を吐いて、それでも歩みは止まらない。一度でも足を止めれば「何をこうも焦っているのだろう」と我に返りそうだったからだ。
荒い呼吸を続ける口内に、よりいっそう湿った空気を舌が感じ取った。
もうすぐだ、あの坂が、目の前に迫っている。何度も何度も照彦の夢には現れて、過去の光景を映し出した───そのスクールゾーンが。何も考えず入り組んだ小道へとひた走り、段々と傾斜が傾いてく。明かりなんて、空に浮かぶ月明かりだけ。
もともと街灯が少ない田舎町に期待などしてなかったが、それでも怖い。鬱蒼と栄えた森を横目に照彦は、涙が出そうになる。幽霊なんて信じてないが、今は死にたくない。まだ彼女を確認せずに、死にたくはない。
空を覆っていた背の高い木々が晴れて、一層周囲が明るくなった。照彦は駆ける速度を緩め、息を整えるように歩行へとゆるやかに移行する。忙しなく視線を迷わせ、記憶に合致する形を探し出す。……いない、ここじゃないのかも、と一抹の不安が過ぎった時、
「ああ!」
「……あ」
居た。照彦の悲鳴じみた声に、脳天気に反応するアホが居た。電車で出会った正体不明な少女。のたくった坂道の中腹で、闇の中で一人、佇むようにぽつんと立っていた。
柊木まひろ、がちゃんとそこには居た。
「浅場照彦さん。やっと来てくれた、待ちくたびれましたよわた───」
「馬鹿かお前は!」
「んにゃっ!」
照彦の怒号に肩を跳ね上げてビビる、柊木まひろ。出会ったばかりの相手にそんな言い分はどうなのか、しかし今の照彦にとってそんなの関係ないとズカズカ歩み寄って、その細い両肩へ手を乗せた。ここまでの焦りは吹き飛んだ。闇の怖さも、とっくに消え去った。
今の照彦を駆り立てるのは彼女に対する怒りだけ。息を荒げる照彦に、怯えた表情を浮かべる彼女へ正しく伝わるようゆっくりと告げる。
「……もう一度いう、君は馬鹿だ。何故、時間と日程を指定しない手紙を入れたんだ」
「え、だって、それは、だって、絶対来てくれるって、思ったから……」
しどろもどろな返答に、照彦は頭を抱えそうになる。なんだ、一体、絶対来てくれると思ったって。
「なんの根拠があってそんな自信が湧くんだ……」
「根拠なんて、ありません。でも、一つだけ言うなら」
貴方は来てくれた、今、来てくれたと。
柊木まひろは俯いて、視線だけは照彦から外さずに、しっかりと此方を見据えてそう答えた。そしてむっすりと黙り込む。意味の分からない言い分に、何故か照彦も押し黙ってしまう。でも、と、照彦も食い下がってみせる。
「なにもこんな夜中に待たなくたって良いだろ? 家の人が心配するじゃないか」
「……しません」
微かに呟いた、いません、なのか、しません、なのか分かりづらい。照彦も深くは追求できずに、視線を迷わせる。微妙な空気が互いに流れて、一際派手に、森の木々たちがざわめきたった。どこかで甲高い野鳥の声が響いている。
夜に鳴くと天敵に見つかって食われてしまうかもしれないのに。
「浅場照彦さん」
「……なんだ」
憮然とした態度で照彦は返答。柊木はびくりとまた、肩を震わせて、威圧感のある照彦の視線に負けじと面を上げた。
ぶつかり合う視線。やはり、見覚えがあると、思い出の残滓が反応を示した。
「私は、貴方を、知っています」
「……そりゃそうだ、この町で俺はある意味有名人だから」
思い至った一つの理由を放り出す。柊木まひろが知るというヒミツ、つまり、それは浅場照彦がこの町で患ったビョーキこそが鍵ではないかと。
照彦の罹ったビョーキについては、この町において、すなわち老若男女問わず知れ渡っているほど知名度が高い。照彦や医者の近藤は信じてないが、両親や親族、または地元住人は根っから信じ込んでいる。
その『まやかしめいた』噂話。
「知っているだろうけども、この坂は、俺が初めてビョーキに罹って倒れていた場所だ。つまり、君がここに居るとわかったのも、君が俺の過去を知っていて、好奇心で呼びつけたと予測したからだよ」
「『カミカクシ』、ですよね」
「そう、だ」
久しぶりに面と向かって言われると、反応が遅れてしまう。カミカクシ、神、隠し。照彦にとって呪いの言葉に違いなく、本来の意味でも間違ってはない。
神隠し。それが町全体住人が信じてやまない───浅場照彦の難病だと。
「そんな馬鹿げた噂話を信じないほうが良い、と言っても、」
「ええ、私はそんな馬鹿なことは信じません」
「君は信じないだろうが、本人がそう言うんだから、……え?」
アホの子のように「ふえ?」と聞き返す照彦。
見返した先には、盛り返した柊木まひろの活気のある笑みがあった。
「私は、この世界の庶民とは違います。貴方というヒーローに選ばれた、由緒ある正しき破滅主義者なのですから」
一歩、後退。照彦は肩から両手を手放す。けれどすぐさま柊木から一歩詰め寄られた。
「うおっ!」
「おめでとうございます! 見事、此方の世界に帰還成されたようで……こうやって直に二人でまた出会えたこと、私は心から嬉しいです!」
夜空に浮かぶ田舎の綺羅びやかな星空に、負けじ劣らず、と、光り輝く両目の光。また一歩後退。即座に詰め寄られる距離感。……照彦の中に恐怖がぶり返してきた。
「なにを、いってるんだ、君は」
「私は貴方を知っているんです!」
「お、俺は君のことを知らない!」
「それは世界軸を超えた後遺症です! 時間が経てば時期に思い出すはずです!」
まいった。なにも話が通じない。
電車で出会ったときから何も発展してない。この子は一体誰だ、話を進める度に柊木まひろという人間がわからなくなっていく。読み解こうとすればするほど、見失っていく。まるであの彼女のようだ、と照彦が密かに思いったった瞬間だった。
また一歩詰め寄られ、また一歩後退した照彦だったが、
「───……あれ?」
唐突に、それはもう一瞬で、目の前に居たはずの少女が掻き消えた。
「なん、だ。急に、……え、柊木、さん? 何処にいったんだっ?」
切迫した緊張が身体に走り、照彦は絶句して周囲を見渡す。今、確かに喜々として近寄ってきた柊木の姿があった。ほんの数秒、いやコンマレベルで見届けていた。なのに、今は手を伸ばす範囲どころか、視界内にすら存在しない。現在進行形で見失ったままだ。
何のマジックだ、何の悪いイタズラだ。こんな真夜中で、こんな薄気味悪い、……こんな悪い記憶しかない場所で。
「……ここ、どこだ?」
照彦の脳が、そこでやっと理解に至った。絞り出された常識という括りから、今、照彦自身が呆然と立ち尽くす場所こそが───そもそも、さっきの場所じゃないと、認識する。
柊木まひろが消えたのではない。
浅場照彦が他の何処かへ来てしまったのだ。
それも瞬き一回程度のもので、見知らぬ土地へと。
「──………」
ゆっくりと照彦は振り返る。そこに引き占めあった木々が並ぶ森があるはず。ない、いや、あった。照彦が記憶する木、という常識を遥かに超えていたが。
「……でっか……」
都市部で見た、コンクリートジャングルに聳え立つビル群が脳裏をよぎる。目の前にある木々も、軽くビル並の幹の太さを湛えた巨木が、ずらりと視界いっぱいに生え渡っていた。どれもてんっぺんなど空高く伸びて見えやせず、坂道に沿って遠く遠く続いていた。本物のジャングル。いや、地球上にあるジャングルだってこんな森はあり得ない。
ぽっかりと口を開きっぱなしだった照彦は、唖然としたまま、もう一度振り返る。
そこには危険極まりない断崖絶壁があったはずだ。スクールゾーンという括りで見れば、確かに危険度は高い。振り返った先には、確かに崖があった。
でもその先がおかしかった。
思うにそれは『巣』なのだろうと、照彦は思った。
崖下の大きくくぼんだ地面は底が遠く、暗く先が見えにくい。しかし微かに月明かりが照らす範囲で視認すれば、乾いた藁のような、細長い骨のようなものが地面全体を覆うほど広がっていた。鳥の巣みたい、と照彦は真っ白な思考で簡素な感想を漏らす。崖下の大きさを考慮するに、もはや理解の範囲を超えた巨大生物が住んでいることになるのだが。
そして鼻孔を蹂躙する強烈な『獣臭』。乾いた大量の血の匂い。
過去、病院内で嗅ぎ慣れてしまった忘れがたい『死の匂い』。
「、ごくり……」
急に身体の震えが巻き起こる。これ以上、見回る好奇心など湧くはずなどない。とんでもないことになったと、脇汗がじわりと滲む。ご丁寧に月明かりが移ろいで照らしあげた崖の下。そこに見てはいけない、しかしどう見ても人骨っぽいものが視界に入り───
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」
───叫んだ、渾身の絶叫が喉元から迸る。
照彦は無我夢中でその場から走り去る。なにがなんでも逃げなければ、酷い、なぜだ、どうしてこうなった、得意の本心を騙す嘘はなぜ発揮できない! 考えだしたら止まらない。あの巣は、突如現れた巨大な巣はなんだ、どうやったらあんなのが出来上がる! もうもうもうと、照彦はもつれ倒れるように駆け出していく。
ぬちゃりと、苔生した地面で足元が掬われないよう踏ん張りを効かせる。
その時、ハラに力が入り力んでいたことも相成ってぷっ! となった。
「あぁもうごめんなさいって!」
そして、全力疾走を見せる照彦の慌てっぷりに森が呼応するようにざわめき。
同時に、我が巣に忍び込まんとする侵入者に気づいた生物も現れた。
「ゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
死んだと思う。その耳にする者全てを萎縮させ、寿命すらも奪わい兼ねない重圧な声。死んだ、はい、今死んだ。照彦は毎秒事に事が尽きた未来を幻視する。
駆けた足裏の感覚がまるでありゃしない。生きた心地がしないとは、まさにこういうことだ。
確実に、走る照彦の後方から、なにかが追ってきている。
隠れるヒマなどない。避けるヒマなどもっとない。
殺意がありありと満ちた一撃が、その禍々しく湾曲した鈎爪が、
「ひぃっ!」
空を切り、照彦の身体を一閃しようとし、
「───……ごはぁ!」
こけっ、と転けた。
信じられない。こんな瞬間で転けるか普通! 照彦は己の間抜けさを呪い、降りかからんとする死に覚悟する。
ああ、なぜこうも自分はわけのわからない事情に縁があるのか、もう一度あの子に会いたかった、ああ、おっぱい──と数秒と、数十秒と身構えて、じっと堪えてから、はっと気づく。
「……あれ?」
何も起こらなかった。蹲ったまま身体を確認するも、大ゴケしたさいの擦り傷程度で、背中には何一つ傷は残っていない。生きている。あんな死に満ちた空気の中、照彦は無事に逃げおおせたのか、と遅れて理解する。
「よかっ……」
「やはり、貴方は行けるのですね。あちらのイセカイに」
反射的に振り向こうとして、未だ恐怖を引きずっていた手元が狂って頭を地面に打ち付ける照彦。ドガン! とここに来て最高の一撃。頬に硬い感触。
そうして乱雑に舗装されてた地面だと気づく。ここは、照彦が知っている坂道で、急斜の鋭い山道だ。
過去に照彦が『カミカクシ』に遭遇した、スクールゾーンできっと間違いない。
「今のは、どういうことだ、一体」
「私も驚いています。この時間帯にイセカイが繋がれることは珍しいですので」
なおも噛み合わない会話に、今更と突っ込み入れる元気などない。気怠そうに地面に伏したまま照彦は、暗闇から滲み出すように現れた柊木を見上げる。
差し出された手。どうするか一瞬悩み、その手を取った。
「ようこそ。此方側へ、そして頑張りましょう。破壊者様」
無言で柊木まひろの笑みを見つめる。ずっと最初から気づいていた、そんな気はしていた。彼女の笑顔、横顔、言動、そして───その二つの瞳。似ているなんて話じゃない。思わず笑ってしまうぐらいに、そっくりだ。だからこそ、なんて変な話だが。できるだけ自然と要られる自分がそこにいることに、気づいてしまう。
「それにまた屁をこきました?」
「………こいてない」
笑って互いに見つめ合った、その一瞬。
少なくとも、今の彼女の笑顔を見れたことは、屁をこいてでも死ぬ気で走ってよかったと思える照彦だった。
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