フトウコウのムチコク、ムケッセキ


 窓の外は仄かに夕暮れ時を表し始めていた。茜色に染まる山々。永遠に続くと錯覚しそうになる田園畑。時折、人気など全くない建付けのバス停が視界に入り、懐かしさに笑ってしまう。


 タタン、タタン、と一定のテンポで響く振動。


 急速に景色は流れ去っていく。懐かしい思い出だけが次々に浮ついては、泡のように弾けて消滅していく。


 もう二度と戻ってこないようにと、願いながら息を吹きかけた。生息で曇った窓ガラスを指先で拭って、カチリと気持ちを切り替える。


 よし、と立ち上がった照彦は持っていた握力グリップをボストンバックにねじり込み、一回大きく背伸び。バキバキィ、なんて気持ちよく響かせ、背骨のブラッシュアップを図る。


 勢い余って腰をくねらせた照彦は、某昭和アイドルのイントロダンスを披露。そして後悔。脳内で流れていた、ちゃ~らぁ~ちゃ~らぁ~ら~~~…からの、ブッ! と、突如湧いたSEで思考が止まる。微かだが、体内の余分エネルギーが小さく漏れ出したようなプッ! が、切れの良いプス! が、静まり返る車内でなった、かも知れない。


「……すみませんでした」


 誰も居ないのは分かっていたが精神が謝罪を要求する。それにせっかくの切り替えが屁こき程度に吹き飛んだことも悔やまれた。


 いや、嘘だ、屁などこいてない。


 あと数十分で目的地の照彦に、緊張感を欠く生理現象など以ての外なのだ。故にげっぷもあくびも許されない。唯一許されるのは握力増強グリップのカチャカチャだけ。


「してないしてない、全然してないから、うん」


 そうやって誤魔化してみるが、実際、自分の本心を騙す嘘は得だと思う。羞恥に染まる前に、考えが滞ってしまう前に、自ら行動を促せる嘘はれっきとした力だ。まあ、屁程度で語られてもアレなのだが。


 もう二度とそんなヘマはせんぞ、と確固たる意思を胸に、照彦はバックを抱え、逃げるようにその場を後にする。呑気に座っていては二の舞いだと踏んだからだ。到着し、ドアが開くまで黙って立って待とうと、車内を断行する。


 両開きのドアの前に立ち、腕時計を見て、そして胸ポケットからケータイも取り出し時間を再確認。これは照彦の癖。一機での時間確認ではどうにも不安になるのだ。今更なおしようもないもの。元より治す気もサラサラない。


 ふと、顔を上げて、ドアにはめ込まれたガラスを通し壮大な山々をぼうっと眺めた。


 これからお世話になる居宿先の責任者、美景さんには電話を既に済ませておいた。


『おなかすいてる? すぐご飯にしよっか?』


 はい、大丈夫です。でも楽しみにしてます。と答えた電話先で、変わって変わって! あたしにかーわーってーよー! ……なんて側から騒がしい声も。美景の一人娘の陽寄だ。今年で小学校高学年になる彼女は、運動センスが同年代の中では良いようで、勉強より運動だと照彦は聞かされていた。リハビリ中の照彦によく電話をかけてきては、


『テル兄さ、あのね、コッチ来れたらさ、一緒泳ぎいこ?』


 切り際に、そう何度も嬉しい誘いをしてくれた。照彦にとって辛いリハビリの後押しになっていたと、今でははっきり言える。


 だから、今から会えるのが楽しみなのは、照彦の本心だった。


 例え陽寄の母親──浅場美景に対し、引け目を感じていたとしても。


「よく笑うんですね、そんな境遇なのに」


「……え、何? どぅあッ! んごォ!」


 驚きすぎて飛び跳ねた照彦は、したたか頭を壁に打ち付ける。


 あまりに勢いの乗った衝撃に、首がもげたかと思うほどだった。苦悶の表情に歪め蹲りそうになるのを辛うじて照彦は堪え切り、痛みの涙目で滲んだ視界で捉えたのは、


 全然しならい女の子だった。


 ───全く記憶にない、のに、何処か見覚えがある少女だった。


「あ、あの、誰なんですか貴女?」


「懐かしいですか、あの山が」


(えっ!)


 まさかの、会話主導権が奪われたことに絶句する照彦。


 わざとじゃないが派手な照彦の驚き様も、恥ずかしい「ンゴォッ」なんて悲鳴も、起伏のない冷静な少女の返しに全てがすべり芸みたいになって、わしゃっと心が荒む。でも話しかけらた事を無下にはできず、照彦は辛うじて復帰してみせた。


「えっと、はい、まあ、懐かしいと言えば……」


「へえ」


 此方を全く見ない無道っぷりが凄く怖い。何なんだ、この娘。


 照彦が、よくよく観察すればざっくばらんにぱっつん切り揃えられた前髪から、チラチラと覗く灰色めいた色素の少ない瞳。既視感によって脳がガクガクと揺れんばかりで、照彦は動機をどうにも収めきれない。


 誰なんだ、この娘は。


「ねえ、浅場照彦さん」


「…え? どうして、俺の名前を…」


「私は、貴方の『ヒミツ』。知っていますよ」


 ワタシハ、アナタノヒミツ、シッテイマスヨ。


 言葉が耳元を聞きなれない外来語のように移ろいだ。照彦の困惑をよそに、彼女のは何処かむっすりした顔で斜め下に視線を落としている。


「秘密って言ってる意味がよく」


「明日から上野高校ですよね」


「そうですけど…」


「? なぜ敬語なんです?」


「よく知らないので、貴女のことを」


 正直に打ち明けると「貴方とタメです」なんてフランクなのかわかりづらいぶっきらぼうな自己紹介を戴く。しかし認めにくい。百五十にも満たなそうな身長は、どうみたって中学生にしか見えない。


「そう、なんだ。初めまして、でいいよね?」


「冗談言わないで下さい。貴方はなんだって知っているはずでしょう、私のことも、このまちのことも、住人たちのことも」


「え? えっと、以前にあったことあったっけ?」


「貴方がよく知っている人間ですよ」


 いや、全く知らない。けれど、…どこか見覚えはあるような気がしないでもない。

 いや、待てよと改めて心をなんとか落ち着かせる。テメエは慣れてるだろ、と心を殺してみせる。


 こういった胡散臭い手合は無視か、取り敢えず謝罪する、のが最善であり、まずは自分がリード権を握るのが得策だろう。なぜだが単純にこの少女を放っていくのは駄目な気がした。確証を得られない、謎の不安。


 逃げては何か、自分を失う。そんな途方も無い予感。


「正直に言いましょう。私は、隣の駅から乗り込みずっと貴方を観察していました。というか、後ろの席にいました、ずっと」


「えぇ……ずっと? 俺の、後ろの席───待って、じゃあさっきのアレも?」


「聞こえてましたよ」


 ぎゃー! と羞恥の悲鳴を心のなかで上げる。彼女の気配のなさ加減に怯える場合じゃない、さっきの、屁を、ぶっ! をまさか、聞かれていたとは。


 そりゃ放っておけないわ、と照彦は言い訳を捲し立てる。


「違う! あれはね? そう、たまたま……たまたま! 服が擦れてそう聞こえただけで、」


「私はずっとずっと待ちわびていたんです。貴方が起き上がることを、貴方がこの町に帰ってきてくれることを」


「……は?」


 だが照彦の慌てぶりを放って、彼女は未だ動じず、断固とした物言いで聞き逃せないことをいった。


 貴女が起き上がることを、この町に帰ってきてくれることを。


 照彦の中でやっと意味が合致する。この電車の終点、照彦の元実家、己が抱えるビョーキの発祥地、ヒミツを知る、起き上がることをずっと待ってたと告げた少女。


 照彦を知る限りの人間関係が、全員総じて「あそこに帰るのはやめとけ」といった理由が頭をよぎる。あの町には、お前をよく思わない連中がわんさかいる。だから、やめとけと。


 『カミカクシ』。

 その単語が脳裏をよぎる。


 しかし、それはいい、そういった連中に対して覚悟は当に決まっている。


 でも、ヒミツを知っているという単語はどうにも解せない。その事実を知るのは照彦と担当医の近藤と、あと一人だけ。全員他人に口を滑らせるようなヘマをする人たちじゃない。


 この子は、一体誰だ?


「私は貴方の秘密を知っています。今はまだ認められないかもしれない、けれどその野望はいつの日か日の目を見ること間違い無しなんです!」


 一人冷めていく照彦を置いて、少女はなぜか勝手に一人鼻息を荒げて盛り上がっていく。未だに此方を見ないまま、興奮気味に頬を紅潮させている。


 なんなんだ、この娘は。


「ムフッ、とうとう言っちゃった……」


 初めて見せた、ここにきての笑顔。少女らしからぬちょっと気持ち悪い笑みは、どうするか、と堅くざらついていた照彦の感情にヒビを入れた。


 知らぬふりな言葉はスラスラと出た。


「ごめん。俺としては君が言っていることが大方理解不能なんだけれど……」


「そうですか、やはり此方側へ来るのに多大な負荷が脳に……」


 なにやら独自の解釈で受け取られた様子。残念そうに眉をハの字にする。意外と表情豊かだな、と照彦は想いながら、ならば無下にする必要なしと、照彦は寛容な態度を演じて、うん、うん、と頷いてみせた。


「たぶんそうだね。そうなんだろうと思う」


「では、今日はここまでにしましょう。私は貴方を信頼しています、心から信用しています。第一信奉者です。そんな私を……」


 その瞬間、照彦はぎくりと身を固くした。たった今まで、それに唐突に出会うまで。少女のことを何処か見覚えある程度、で捉えていた。そして照彦の考えは間違って無く、きっと街角でひと目見たぐらいだと、今でもそう思っている。


 名前を聞くべきだった。まず最初にくらいついてでも。

 少女の視線が照彦とぶつかる。

 互いに肩がぶつかりそうになるぐらい狭い空間で、夕日で染まった少女の顔を眺める。

 照彦の記憶媒体のほぼ中央を占めていた、あの思い出が蘇った。


 あの夕日に照らされた険しい山道を、一緒に肩を並べて下校した、とある少女の横顔。


 いつの日か手紙をくれなくなった、今、照彦が一番会いたい彼女。


「どうか、私を、見捨てないで下さい」


 そして、無茶をしてでもこの町にやって来た最大の理由。

 そっと持ち直した際に、肩に担いだバックの中で、かさりと手紙が擦れた音が鳴る。


「取り敢えず名前を聞かせてくれる?」


 彼女はもう此方を見ては居なかった。でも手の届く範囲には居る。彼女をじっと見つめ、過去の自分ならきっと出来なかった一歩を、照彦は難なく踏み入れた。


「柊木まひろです」


 やはり何処か、懐かしい響きを感じた。




 ※※※




「テルテル兄おかえりぃー!!」


「久しぶり陽寄ちゃん」


 駅のホームに足をつけた瞬間、元気な声が照彦に掛かる。


腰に飛びついてきた陽寄を受け止めて、勢いのまま数回ぐるぐると回してみせる。たん、と地に降り立った彼女は、にかり、とまるで太陽のように笑った。相変わらずすごい笑顔だ。田舎町でのびのびと暮らした子供が出来る、陽寄ならではの特技だろう。


「数カ月ぶりだね。そういや美景さんは?」


「お母さんは車を止めに行ってるよ。あんまり運転慣れてないから来るの遅くなるかも、もしかしするとあたし達が迎えに行ったほうが早かもしれないね」


 そっかと、呟きながら陽寄の頭を撫でる。嬉しそうに目尻が伸びる彼女は子猫のよう。しかし身長がまた伸びたな、と照彦は撫でながら思う。子供の成長は本当に早い。


 すると、立ち止まっていた二人の横をこれまた小さい人影が通り過ぎていく。


「………」

「……あ」


 先程の少女だった。足音もさせない足さばきは、あの年で、何故ああまで技能を高める必要があるのか。急に真後ろに立たれても気配を察知出来ないと思う。実際に車内で数時間と気づかなったのも事実。


 しかしながら、何故だろうと照彦は疑問を浮かべる。


 何故、あの娘は一人なのだろう。どういった私用からの帰り道だったのだろう。その背中がひどく、孤独にめいていて、さきほど、一瞬だけだが、子犬の尻尾のように揺れていたおさげが悲しく垂れ下がっているようにみえる。


 誰も居ないプラットホームをそそくさと歩き去っていく背中を見送っていると、それに気づいた陽寄が、ボソリと、無視できない言葉を漏らした。


「あ。フトウコウの、ムチコク、ムケッセキだ」


「え?」


 並べただけの平坦な物言いに理解が遅れる。もしや──不登校の、無遅刻、無欠席。なのだろうか、いや、それよりも、


「…知ってるの?」


 隣に立つ陽寄が、曲がりようのない純粋な瞳で、去っていくお下げ髪を見ている。


「ウチ、中学と小学が一緒の校舎だから。あの人、中学の時は超有名だったよ。無遅刻無欠席なのに、学校には出ないって」


 到着してそうそうに、あまり雰囲気の悪くなる事を聞くのはあれだったが、先程のこともあって、どうにも気になり質問を続けてしまう。


「つまり、保健室登校ってこと?」


「ホケンシツトウコウ?」


「あー、えっと。つまり、教室には来ないで別の部屋で勉強するのかなって」


「んーん、違うの。学校には来て、それからまた家に帰る感じ? 先生や校長先生に説得されても絶対に途中から出ていっちゃうんだって。でも、ちゃんと授業始まる前にはちゃんと居て、先生が来たら、帰っちゃうの」


 それで無遅刻無欠席……すると先の方から見覚えのある姿が見えた。

 陽寄の母親である、美景だった。


「わ~~! 良かったあ、間に合ったあ~」


 妙に間延びした声でホームに続く階段を降りてくる美景。過去の映像が重なって、少しセンチメンタルな気分になりかけるが、即座にその思いは打ち砕かれた。


 ばるんばるん、ぼるるるん、と。

 二つの豊満な果実が臨場感たっぷりに撥ねていた。


「お母さんまたこけちゃうよ! あんまり急いでると!」


 そんな空きの多い母親に、陽寄はまっとうな苦言を申し上げる。聞こえていないのか、ある意味目に悪い状況を胸元に展開しつつ、美景は此方に向かって「おーい!」と手を降ってやってくる。


 その道中、意外にも美景はバッタリ出会った少女に声をかけた。


「あら。まひろちゃん」


「……ども」


 知り合いだったのか、と。無愛想だが返事は返す様子に、何故か照彦は安堵する。なぜだろう、あの娘を見てるとひどく落ち着かない。彼女が行う一挙動向が気になってたまらない。


 しかもあの小さい体はなんだ。本当に照彦と同じ学年なのか?


 年下の陽寄よりも発育が伸びていない気がする。意図せず人形のような小柄な彼女の背中を食い入るように見つめていると、


「テル兄、やらしー」


「えっ?」


「きてそうそうお母さんのこと、そんな目で見るんだ」


「そ、そんな目って?」


「だってずっとおっぱい見てるし」


「見てないよ! 全然見てない! 違うトコロ見てたから!」


「じゃあ何を見てたの?」


 どっちにしろ変質的なのは変わりないので口ごもってしまう。それが更に陽寄の疑惑の色を深めてしまう。どう説明したものか迷っていれば、


「お待たせえ、いやあ久しぶりに走ったら疲れちゃったよ~」


「もー、遅いよお母さん」


「どうも。お久しぶりです」


「うんうん。お久しぶり、テルテル」


 自然と投げかけられた懐かしい呼び名に、照彦は困ったように伏せてしまう。それに敏感に察した陽寄は、


「もう忘れてる! ちょっと、お母さんがそう呼ばない約束だったでしょ? なんでそうすぐに忘れちゃうかなあ」


「え、お母さん呼んじゃってた?」


 びっくり、と美景が口元へお上品に手を当てて若干ズレ気味に驚く。ぷんすかと頬を膨らませる陽寄。しっかりしてるなあ、と照彦は感嘆。


「気をつけてよね、今日から三年間一緒に住むんだから、絶対に混乱させるようなこと言っちゃダメだよ?」


「ま、まあ気を使ってもらうのは有り難いけれど、陽寄ちゃん。もう行こうか、お腹ペコペコだよ」


 持ち上げる。きゃーえっちー、と叫ばれるがやけくそ気味に肩車し、美景へと振り返る。のほほんと照彦と陽寄のなりゆきを眺めていた瞳とかちあって、


「取り敢えず、ただいまです。浅場美景さん」


「うん。おかえりなさい、照彦さん」


 今度は自然に切り替えたと思う。きっと、多分だが。

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