2011年【疾風】06
②
コーヒーショップ香の店内に、疾風は戻ってきた。
ひと仕事を終えた男に対する出迎えはなかった。
むしろ、暗い。
いまは閉店作業中で、厨房とレジのあたりだけしか明るくない。
必要最低限の電気しか点灯していないので、馴染みの店なのに初めて訪れたような印象を受ける。
化粧をする前後の女性みたいで、雰囲気がガラリと変わっている。
高校生のお遊びに、最後まで付き合うつもりはなかった。
なのに、迷いが生じている。
この雰囲気は怪談の夜に適している。
疾風が店内に隠れていて、高校生たちを驚かせてみたら忘れられない夜になるのではないか。
面白さを追求したい。
その思いを阻むのは、明日の予定。
つまりは、仕事。
この体が夜更かしに耐えられるかどうかを誰よりも把握しているのは、疾風自身だ。
大きなあくびが出た。
こらえようとしたのに、我慢できなかった。身体が眠たいと訴えている。
守田兄妹の喧嘩の仲介役となったことで、疲れが限界に達したようだ。
帰ろう。
可能な限り最速で。
こういう時も、自分の趣味を最大限にいかせる。
今夜もMR2のポテンシャルを引き出すのだ。
ただし、いつもと走るための意味合いはちがう。
『速さを求めて』ではなく『はやく家に戻って眠るため』だ。
「あ、そうだ。最後のひとくちを堪能しとかねぇと」
帰宅前に、疾風はカウンター席に戻っていく。
厨房からの光とノートパソコンの光源で、カウンター席は他の場所よりも明るい。
だからこそ、疾風が頼んだアイスコーヒーのグラスがないのは、遠目から見ても明らかだった。
ちょっと待て。
凍ったコーヒーがとけだしたことで、時間差でうみだされる最後のひとくちを味わえないなんて、最悪だ。
あれがないのは、きつねうどんを頼んで、揚げを食べないのと同じだ。
「なに探してんだ?」
話しかけられたので、疾風は振り返る。
テーブル席の下から、勇次が這い出てきた。
いや、なにこれ。
わけがわからん!
驚きはしたものの、勇次だから仕方ないという謎の理屈で納得する。
「コーヒー残してたんだけど、なくなってんだよ」
「ああ、それなら片付けた。文句いうなよ、兄貴が遅いせいだ」
「あ? 遅いってなんだ。車を転がさせたら、そこそこの実力だぞ」
「そこそこっつーか、人外じゃねぇか。兄貴なら、モスマンからでも逃げられるって信じてるぜ」
モスマンというのはUMAの名前だろうか。
軽々しくたずねて、勇次が熱く語り出したら面倒だ。わからないことはスルーする。
それになにより、運転技術を安っぽく褒められたせいで心が揺れている。
勇次には、そこそこの走りしか見せたことがないはずだ。
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