8.まだまだ休憩中

 そういうわけで、僕の機嫌は低迷を極めた。

 案の定僕の鼻穴から出てきた液体は鼻血だった。そりゃ文庫本の角がクリティカルヒットすれば、確かに鼻血の一つや二つは出てくるだろう。幸い文庫本にはカバーがかけてあったので汚れはしなかったが、僕の仕事着が大変だった。

「すまん山崎。やりすぎた」

「まったくです」

「なにより俺ももったいないことをした。投げる前に飲めばよかったな……」

「何をですか! 嫌ですよ!」

 謝ってるのかそうじゃないのか曖昧な桜井さんからティッシュをふんだくって、僕はたまらず声を上げた。さすがに桜井さんも、鼻血に対して食欲はそうそそられないらしい。「鼻じゃなかったらな……」と残念そうに桜井さんが呟いたのを聞いて、本当に鼻でよかったと思った。鼻じゃなかったら僕は何をされるのだろう。

 一方加藤さんは、そんなに鼻血が珍しいのか、僕の鼻孔からティッシュを出したり引っ込めたりしては「まっかっかー」などと喜んでいる。膝にまで乗ってきているので、正直言えば降りてほしい。非常に視界の邪魔なのだ。

「やまざきくん、やまざきくん。おはながまっかっか」

「そうですね降りてください」

「ちりがみをしまうと、ちりがみがまっかっかになる。だすと、やまざきくんがまっかになる。おもしろい」

「だから降りてください。ティッシュ触らないでください」

「もらうー」

「持ってかないでください! ばっちいから!」

 僕から引っこ抜いたティッシュを持ち去ろうとする加藤さんから例の汚物を取り上げ、そのままゴミ箱にスローイン、見事ティッシュはゴミ箱に吸い込まれた。それを見届けて、今度は新しいティッシュで鼻を押さえる。そして今度は何を思ったのか、加藤さんが次々に箱からティッシュを引き抜いた。

「おてつだいするのです」

「しなくていいです! 降りてください!」

「おてつだいー」

「ほげっ!」

 加藤さんは容赦がなかった。その点については、まだ桜井さんの方がマシだったかもしれない。加藤さんはありったけのティッシュで僕の鼻、さらに口までも押さえにかかったのだ。押し付けてきた、と言った方が正しいやり方だった。というか、今口をふさがれたら、もしかしなくても窒息する。

 僕が必死に口を死守する傍ら、加藤さんは非常に楽しそうだった。それはそれは、憎いほどに無邪気だった。創生のアクエリオンを歌いながらの暴挙なのだ。無邪気にも限度というものがあるだろうに。

 とうとう口にまでティッシュを詰め込まれる寸前まで加藤さんの暴挙が及んだところで、ガラッとドアが開いた。

「あれ、山崎君。何されてるの?」

「な、なにじゃ、ほげっ院長助けてー!」

 院長だった。お手洗いにでも行ってきたのか、小脇に産経新聞を抱えている。僕は藁にもすがる思いで院長に手を伸ばした。院長なら助けてくれそうな気がしたのだ。

 そして案の定、院長は慣れた様子で、僕の膝から加藤さんを下ろしてくれた。

「こら、加藤さん。ティッシュがもったいないでしょう?」

「やまざきくんのおてつだいをしてただけだもん」

「おや山崎君。鼻血なんて出してどうしたの? チョコレートでも食べすぎたの?」

「違います! だって桜井さんが、」

 そこまで言いかけて、向かいの席から不自然な咳払いが聞こえた。桜井さんだった。僕は大人しく口をつぐんだ。

 しかしそこはさすが院長。そんな一連のやり取りで全貌を悟ったようだ。ああ、と何か納得したように声を漏らし、しきりに頷いた。

「山崎君がさっき変な声をだしたのは、そのせいだったんだね。なっとく」

「なっとくー」

「なっとく、じゃないですよ! 僕だって散々な目に遭ったんですから! ねえ桜井さん!」

 向かいに座ってパソコンをいじる桜井さんに同意を求めると、返ってきたのは不自然な咳払いだった。俺は関係ない、と暗に伝えているとしか思えない。全面的にこの人が悪いのに。

 加藤さんの興味はいつの間にか鼻血から院長に移ったようで、院長の周りを落ち着きなくうろうろしていた。時折小さな小鼻をすんすんさせ、ぱたぱたとしっぽを振っている。

「いんちょーからあまいにおいがするー」

「あ、分かる? さっき雪子さんが顔を見せてくれてね、これもらってきたんだ」

 そう院長がにこやかにポケットから取り出した人数分の菓子、すなわち、

「……わたし、これたべられない……」

「……また妙なものを持ってきたな」

「……少なくとも鼻血出してる人に出すべきものじゃないと思います」

 チョコレートだった。



○チョコレート……言わずと知れたお菓子。血行をよく成分が含まれている。また犬に食べさせると中毒症状を引き起こすので注意(山崎のメモより)

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