7.休憩中

とは言っても、正直このクリニックに関しては、業務時間のほとんどが休憩時間とも言えるかもしれない。

「山崎君、お茶菓子頼めるかい?」

「はい」

 スポーツ新聞を読みながらコーヒーを啜る院長の脇を抜けて、僕は読みかけの文庫本を置いて沸騰室へ向かった。給湯室は事務室と直結していて、待合室に数個置いてあるキャンディーなんかもこの部屋においてある。僕はその狭い部屋の、丁度棚からはみ出していた草加せんべいの箱を引っ張り出した。せんべいの在庫を確認すると、ほとんど手つかずの状態だった。

「せんべいでいいですか?」

「草加?」

「草加です」

「じゃあそれお願いね」

 院長の返事を確認して、僕はせんべいの詰まった箱を事務室に持って行った。そして、まず院長の席に数枚せんべいを置く。

「そっか。まだ草加せんべい残ってたんだね。それならコーヒーじゃなくてお茶にするんだった」

「淹れなおしますか?」

「いや、大丈夫。これでもなかなか乙なものなんだよ」

 そう院長はブラックを一口すすり、せんべいの包装を破った。僕が席から離れてしばらくして、「ううむ……」なんていう院長の微妙そうな唸り声が聞こえた。後で茶を淹れよう。そう思った。

 次に桜井さんか加藤さんの席へ持って行こうとして、二人とも席にいないのに気付いた。耳をそば立てると、廊下の方でぱたぱたと軽快な足音が聞こえてくる。加藤さんはきっとお手洗いかなんかで、とりあえず廊下にいるようだ。彼女にも後でお茶を持って行こう。そう思って桜井さんを探して、思わず渋面した。

「……桜井さん、そこ僕の席です。何してるんですか?」

「お前何てシケたもん読んでやがる。もっとマシな読書しろ」

 そう文句言いながら桜井さんが僕へ放り投げてきたのは、さっきまで僕が読んでた本だった。幸い箱は片手で持てるサイズだったので、僕は辛くも文庫本をキャッチ、しかし拍子に栞が落ちたのは手痛かった。箱をとりあえず手元の机に置いて、僕は慌てて栞を拾った。

「な、な、何するんですかー! どこまで読んだか分からくなっちゃったじゃないですか!」

「乱歩の白髪鬼だったか、それ。最後に姦夫が倉庫の天井で圧死する話だ」

「何でいきなりネタバレするんですか! まだ半分あたりまでしか読んでないんですよ!?」

「せんべいはいらん。それより山崎、腹が減った」

 その桜井さんの一言に、僕の生存本能がアラートを鳴らした。ヴァンパイアの言う「腹減った」が、すなわち「血をよこせ」と同義であることを、僕はこの二カ月でその身を以て思い知らされた。慌てて桜井さんからエスケープ、真っ直ぐ加藤さんの方へ向かう。

 せんべいの箱片手に廊下に転がり込んだ僕を見て、加藤さんは目を真ん丸にした。ふさふさのしっぽもくるんとスカートの股の方へしまわれて、犬耳はぺたんと畳まれている。びっくりさせてしまったようだが、そんなことは気にしていられない。

 事務室の引き戸をぴったり閉めながら、僕はとりあえず笑った。

「……加藤さん、せんべい食べます?」

「たべる!」

 加藤さんは単純だった。草加せんべいの箱を見せると、たちまち加藤さんは目を輝かせた。あんなにビクついていたしっぽも、今や千切れんばかりに左右に振られている。

「やまざきくん、やまざきくん、これぜんぶたべていいの?」

「いいですよ。桜井さんせんべい好きじゃないみたいだったし、僕もそんなに好きじゃないんですよ」

「それはもったいない。じんせいのはんぶんくらい、そんをしています」

 そう加藤さんは憐れむように言ってくるが、僕からしてみれば野菜が食べられない加藤さんも、人生の何割かを損していると思う。犬だから仕方ないのかもしれないけど。でも僕も嗜好品全般がダメなんだからしょうがない。

 個別包装を歯で開けて頬張るという、いかにも犬な感じでせんべいに取り掛かった加藤さんを、とりあえず僕は事務室へ連れて行った。

「加藤さん、さすがに廊下でものを食べたらまずいんじゃないですか?」

「せんべいはいつでもどこでもおいしいです」

「いやそういうわけじゃなくて。一応病院でしたよね、ここ」

「やまざきくんはこまかい」

「細かくて結構です」

 加藤さんを所定の席に座らせて、僕はもう一度給湯室に向かった。そこで湯呑を三つ用意し、粉末の緑茶をそれぞれ入れる。正直量は適当だけど、みんなお茶にこだわりもないみたいだし、文句は一回も言われたことがない。お湯を注いで盆に載せ給湯室を出ると、院長の読み物がいつの間にか経済新聞になっていた。

「院長、お茶です」

「ありがとう。やっぱりせんべいにはお茶だったね。あ、もう少しせんべいもらえるかな?」

「すいません、さっき加藤さんが食らい尽くしてました」

「そっか……」

 ちょっと残念そうに肩を落として、院長は再び新聞を読み始めた。それにしてもこの人、いやこの妖怪? とにかく院長は、一日にどれだけの新聞を読んでるんだろう。今朝は読売の朝刊を読んでたし、卓上には読売の夕刊が積んであるし。それだけ暇なのだろうか。

 加藤さんの席に向かうと、すでに草加せんべいの箱は空になっていた。これにはさすがにびっくりである。

「加藤さん! もうせんべい食べちゃったんですか!?」

「やまざきくん、もっと」

「ないですよ。さっき食べちゃったでしょ?」

「けちー」

「けちじゃないです。お茶でも飲んでてください」

「けちんぼー。もっともっとー」

 他にも加藤さんがぐちぐち何か言っていたが、とりあえず無視した。加藤さんの欲求にすべて答えていたら、食料がいくらあっても足らないに違いない。

 そして、意外だったのは、桜井さんが何やら本を読んでいたことだった。それもさっき文句つけていた、そして僕が卓上に放置していたあの文庫本だ。

「……桜井さん?」

「なんだ」

「お茶、いりますか?」

「おいとけ」

 言われた通り、傍のスチール机に湯呑をおいた。

 それからしばらく待ってみたが、文庫本を返してくれる気配はなかった。さすがに焦れて何度か声をかけたがすべて無視。一分か二分か、それくらい我慢して、とうとう僕は声を上げた。

「桜井さん! それ! 僕の本です! そろそろ返してくださいよ!」

「うるさい! 耳元で叫ぶな」

「それは悪かったです。――じゃなく! 人の本を何食わぬ顔で読んでないで返してくださいっ。さっきまでやれシケてるだの何だの言ってたのに夢中になってないで返してくださいっ」

 そこまで言うと、さしもの桜井さんも渋面して本を閉じた。ようやく返してくれるんだ、と思った僕は、甘かった。思っていた以上に桜井さんは面倒臭かったのだ。

「誰が夢中になるか、こんなので!」

 ゴスン、といい音が頭蓋に響く。炸裂したのは文庫本の角。

 桜井さんが本を投げつけてきたのだと分かったその時、鼻に洒落にならない激痛が走った。鼻の奥からぬるっとした液体が流れてきた。悲鳴が上がった。

「ほげ――ッ!?」

「山崎君、うるさいよー」

 そして僕だけ院長に怒られた。



○「白髪鬼」……江戸川乱歩の長編小説で、僕がずいぶん昔に買った文庫本。妖怪の力によってたまに凶器と化すことが判明(山崎のメモより)

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