6.ニートな犬飼さん
「働きたく、ない、んだッ!」
んだッ! と妙にそこを強調して繰り返す目の前の大柄の男性が、このクリニックの数日ぶりの患者さんだった。
僕こと山崎がアルバイトとして勤めている「ちょっと変わったメンタルクリニック」こと依内メンタルクリニックにやってきた「ちょっと変わった患者さん」は、まるで同意を求めるように、円らな瞳を僕の方に向けてきた。僕は思わず目を逸らした。働きたくない――まあ、甘美な響きだとは思う。僕も仕事せずにいられるなら、それに越したことはないと思う。ただ、それを明らかに三十路半ばのオッサンが言っちゃいけない台詞だと思うんだけどなあ……滔々。
とはいえ、目の前のオッサンこと患者さんを「変わってる」とだけしか思わなかった僕も、この病院に慣れたものだと思う。肝っ玉が据わったとでも言うのだろうか。ううむ。
その、僕の肝が据わった主な原因が、カルテをめくりながらにこやかに笑った。
「そうですよねえ、分かりますよ」
患者さんの犬面を見つめながら、元凶――じゃなかった。額に角栓みたいな角を生やした院長がさらっと流した。
院長の後ろには、暇そうにボールペンをカチカチしてる赤目の美男子ヴァンパイアこと桜井さん、さらにその後ろにはやっぱり暇そうに鼻歌を歌う、犬耳犬しっぽの犬神・加藤さんがそれぞれに控えている。驚くことなかれ、このクリニックは僕以外全員妖怪というトンデモ病院なのだ。そんな病院に二月くらい働けば、誰でも犬面オッサンくらいじゃ驚かなくなるに違いない。
首から上がオオカミ、首から下が人間という絵に描いたような狼男のオッサン(ただし妙に恰幅がいい)は、やけに深刻そうな顔で頷いた。
「そうなんだ。オレは働きたくない。どこの職場に行ってもこの顔じゃ笑われる! オレは! そんなオレの才能を少しも鑑みずただ腐り歪みきった混沌の社会に身を投じたくないんだッ!」
「そうなんですか。狼男も大変ですねぇ」
「働け」
あまりに痛烈、そして辛辣なひと言を放ったのは、普段より二割増しで不機嫌な桜井さんだった。ちょっとあけすけすぎる言い方だったけれど、でも、それは僕ももっともだと思う。
しかしそんな分かりきったことを、ニート……じゃなかった、この狼男がすんなり受け入れるわけがない。案の定狼男は逆上した。
「だから働きたくないと言ってるだろうが! 爛れた資本主義社会の片棒を担いでオレに何のメリットがあるんだ!」
「まあまあ犬飼さんも落ち着いてください」
さすが院長だ。その一言で患者さん、もとい犬飼さんを黙らせてしまった。それにしても狼男の「犬飼さん」って、雪女の雪子さんに次ぐ安易なネーミングじゃないか。
「犬飼さん、あなたの言うことも分かりますよ。このご時世、僕ら妖怪が就活するのも大変ですもんねえ。ねえ、山崎君」
「え? 何でこの流れで僕に話を振るんですか?」
「だって山崎君、就活生でしょ?」
そうは言うけれど、生憎、まだ僕は就活を始めていない。まだ入学して日が浅いのだ。もう少し新入生気分を堪能していたいじゃないか。
できればこのまま沈黙して場をやり過ごしたいところだが、院長のにこやかな視線、犬飼さんの期待に満ちた視線、そんで桜井さんの不機嫌な視線、加藤さんの興味なさそうな視線に、僕はここから逃げられないということを悟った。室内に響くのは加藤さんの鼻歌「創生のアクエリオン」くらいで、まさに静謐といった感じ――うん?
ここにきてようやく僕は、犬飼さんと決定的にキャラの被った妖怪が目の前にいることに気が付いた。
「……ちょっと関係ないかもしれないんですけど、犬神と狼男ってどう違うんですか?」
「豆腐と肉くらい違うモンだ、馬鹿野郎」
「まあどっちかって言うと、人狼は犬神よりヴァンパイアに近いかもね」
「なっ、よりによって俺とこんなのを一緒にするな! 反吐が出る!」
「誰がこんなのだ血吸い野郎! 快楽堕落者め! こっちから願い下げだ!」
「けんかはだめー」
急に殺伐とした空気に加藤さんが割って入るも、犬飼さんと桜井さんの気はピリピリしたままだ。二人の間には未だに見えないが分厚い壁がある、ように見える。一方二人の地雷を踏んだ張本人の院長はのほほんとしたもので、柔和な微笑みを口元に浮かべていた。
「あのね、山崎君。犬神はもともと憑き物で、本質的には犬なんだ。犬」
「はあ」
「で、狼男は狼が四割人間が六割の妖怪。だからどっちかっていうと犬寄りの人間。分かった?」
「わたしがいぬなんだよー」
「ううむ……」
ますます分からなくなってきた。とりあえず加藤さんのベースが犬、犬飼さんのベースが人間、ということでいいのだろうか。しかし犬の加藤さんが(一応)働いていて、やや人間の犬飼さんがニートとは、なんだかややこしい社会なもんだ。しかし文字通り犬面な犬飼さんを見ると、やっぱりこの世界は顔なんだなあと思ってしまう。僕も美形な方ではないけれど、それでも犬飼さんよりはマシじゃないかな。
なんて滔々と考えていると、犬飼さんの円らな瞳がぎょろんとこちらを向いた。牙の剥き具合からなかなかのご立腹らしい。
「おいそこの人間野郎! なんかオレを侮辱しただろ! そんな顔だぞ!」
「してません誤解です! ただ、やっぱりこの社会は顔重視だよなあと思っただけで」
「ふざけんなそれで十分無礼じゃねーか! 喰うぞ人間野郎!」
「院内での暴力行為はご法度だバカ野郎。ぶっとばすぞ」
全力で矛盾した桜井さんの言葉は、しかし妙な説得力はあった。ぐぬっと犬飼さんも喉を詰まらせ、何とか大人しくなった。
そして「我関せず」なんていう姿勢を一貫して通しきった院長は、すっかり冷めた茶をのほほんと啜った。
「お気持ちはわかりますが、就職についてはこちらでは何とも言えませんねえ。就活頑張って、としか」
「いやだから、働きたくないんだっって言ってるだろ! なんとかしてくれ!」
それこそ無茶な、とは思うけど、また面倒な目に遭うといけないので黙っておいた。
「それでも労働の義務は僕ら妖怪にもついて回るんですよ。そうそう。最近便利な施設ができたんですよ。ハローワークって言って、色んな職場を紹介してくれるそうですよ」
国民の三大義務って妖怪にも適用なんだ。初めて知った。それにしてもハローワークが「最近できた便利な施設」とは、院長の禁断の年齢が垣間見えるものだ。
ハローワークについては犬飼さんも前々から考えていたのか、それとも考えないようにしていたのか、その単語が出てきた途端苦い顔になった。気持ちは分かる。院長も暗に「働け」と言っているのが見え透いているのだ。なんだか世知辛い。
その証拠に、院長ののんびりした説教はまだまだ続く。
「もちろん最終的に働くかどうかを決めるのは犬飼さんですよ。でもねえ、狼男特有の豊かな身体能力をむざむざ腐らせておくのはもったいないと思うんですよねえ。いやいや、強制はしてないですよ。いやでも、ねえ? 僕なんか血筋たどれば天狗に行きつくわけですが、ほら、そこまでの筋力はないわけですし。いや羨ましいとかじゃないんですけど、そういう腕自慢の妖怪が一人職場にいるだけで結構便利なんですよ。うちでもね、男手が二人いて十分助かってますし。加藤さん、あちらの犬神さんもね、結構ちょこちょこ動ける子なんですよ。犬飼さんもきっと、そういう風に重宝される存在になれると思うんですよね。あ、強制してるわけじゃないですけど、」
「――分かった分かった! つかうるせえ! 要するにお前も働けって言ってるんだろ! くそったれ!」
院長の婉曲すぎる説教は、結局犬飼さんがキレることによって打ちとめられた。
足音も騒々しくカウンセリング・ルームを出た犬飼さんを、「おかいけいー」なんて言いながら加藤さんがついて行った。それを見送りながら、僕は思わずため息をついた。なんというか、嵐のような患者さんだったなあ。
「……なんだったんだ、あれは」
くるくるとペン回しをしながら、桜井さんがそう呟いた。僕も全力で頷いた。
○犬飼さん……狼男で、いい年して働かないニートの患者さん。少し短気のきらいがあるようだ(山崎のメモより)
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