5.院長と僕

 僕と加藤さんが病院に戻るころには、院長も桜井さんも白衣を脱いで私服姿に戻っていた。といっても院長はカッターシャツに黒の綿パンと、相変わらずぱっとしない衣装なのだけれど。桜井さんもシャツとジーンズとシンプルなんだけど、その立ち姿はモデルのように見える。院長と並んでいるから余計にそう見えるのかもしれない。

「おかえり、二人とも。もう着替えても大丈夫だよ」

「はーい」

 院長の言葉に加藤さんは大きなカバンを片手に事務所を出て行った。普段女性らしさを微塵も見せないのに、着替えを見られるのは恥ずかしいのだろうか。それとも本人は気にしていないけれど、生物学的に女性のスタッフは別室で着替え、という決まりでもあるのだろうか。でも加藤さんが自ら進んで別室で着替えるとは思えないので、きっと後者なのだろう。

 加藤さんが退出してすぐ、桜井さんもショルダーバッグを提げて踵を返した。

「俺も帰る」

「お疲れ様です。……なんかいつもより元気ですね」

「美味い飯も食えたしな」

「当分いらないくらいですよね」

 個人的にはそうであって欲しいのだけど、桜井さんに鋭く睨まれた。きっと次に僕が出勤する時も噛まれるのだろう。もう溜息しか出てこなかった。

 桜井さんが事務所を出た後に、僕は白衣を脱いだ。前に着替えの最中に吸血されたことがあって以来、もう桜井さんの目の前で着替えしないように誓ったのだ。

 僕もシャツとジーンズの格好に着替え終わると、わあ、となぜか院長が声をあげた。一体何事だろうか。

「やっぱり本場の人間がそういう格好すると全然違うね。すっごく人間界に馴染めてるよ」

「一応言っておきますけど、僕だってちゃんとした人間ですからね」

「知ってるよ。でもね、やっぱり僕らみたいに浮いたりしないんだねってこと」

 なんてことないような院長の言い方だったけれど、そして僕も分かっていたはずのことだけれど、はっとなった。

 確かに院長がいくら人間の格好をしたって、でっかい角栓みたいな角が消えるわけではない。加藤さんも犬耳と犬しっぽがある限り、少なくとも普通の人間には見えない。桜井さんが一番人間っぽいような気もするけど、でも虎視眈々と生き血を狙う姿は常軌を遺脱している。

 この一週間で人間界にはたくさんの妖怪が紛れているのを知ったけど、人間の僕から言わせてみると隠れて切れていないと思う。完璧に馴染んでいたらそもそも都市伝説や怪談なんて生まれないわけだし。

 そう思うと、やっぱり妖怪たちはそれなりの苦労をしているのだろう。

 ――なんてしんみり思っていると、院長の意外そうな声がかかった。

「そんなに思いつめた顔しなくていいんだよ。僕らも完璧に馴染もうとは思ってないんだし」

「そうですか。――そういえば、院長は何で病院なんか始めたりしたんです?」

 本当に深い意味なんかない質問だったけれど、口にした途端に、何だか聞いてはいけないことだった気がしてきた。鬼である院長が病院を開業するに至ったのだから、きっと相当の理由があったのだろう。

 しかし、僕の予想に反して、院長はあっさりと教えてくれた。

「そうだねえ。そりゃあ医者になりたかったからだよ」

「え? それだけ?」

「そうだけど? というより、みんなそんなものだと思うよ。じゃあ君はどうしてこの病院でアルバイトを続けてるんだい?」

 院長らしからぬ質問だった。けれど、僕は僕が思っていたよりあっさりと返事を出した。

「そりゃ、生活費がほしいからですよ。ここ時給もいいし、家も大学も近いし」

「ほら、君だってそんなものじゃないか」

「ううむ……」

病院を立ち上げた男にそう言われても、逆に納得がいかなかった。

ふと窓の外を見ると、空にはすでにアークトウルスとスピカとデボネラが輝いていた。その三点を結ぶと春の大三角形の完成だ。ほかにレグルスとアルファルドも輝いている。今日も快晴、もうすっかり五月の星空だった。

「何を見ているんだい?」

「空ですよ。もう真っ暗だなって」

「そうだねえ」

今日の帰りもこんなもんだ。



○院長……依内メンタルクリニックの院長。鬼の子なんだけれど、他の妖怪と比べたらとってもいい人(山崎のメモより)

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