月の気配

 市街に秋の気配が訪れた或日のこと。


 M大学図書館第三閲覧室から退室した時、真拆は22歳の風貌をしていた。昨晩の不眠と、漣のような偏頭痛のためにひどく不機嫌そうな眼を、左手頸の水晶時計に向けた。時刻は18時32分だった。外は薄暗かった。正面玄関を出る際、そこに設置された菱形の門燈がきらきらと撒き散らす二等辺三角形の灯を背中に浴びた。するとその風貌は16歳に変わったように見受けられた。あるいは気のせいかもしれなかった。そうして彼は図書館を出、大学正門を抜けて、ポケットに両手を突っ込んだまま、街へと歩いて行った。一陣の突風で吹き飛ばされてしまいそうな体躯の彼は、その歩行に軽やかな♯の靴音が伴うのであった。どうやら彼の靴音は、他の男性よりも半音高いらしい。彼が歩いたあとには♯型の足跡が、薄く残っている。



 青い夕闇が流れる商店街の一角に煌びやかな星型の飾窓を持つ赤煉瓦のベーカリー、そこで立ち止まる。閉店間際に安売りをするこの店に立ち寄るのが真拆の日課である。焼菓子をいくつか買い求め、それを食べながら、自宅のある高台へ続く坂道を上り始めたそのとき――ふと胸騒ぎを感じて振り向いた。月だった。やはりそうかと思った。しばらく凝とその紫青色の夕空に貼りつく、一片の薄い月を坂道の途中で見つめていたが、またしても押し寄せて来た側頭部の疼痛に気づき、そちらに気を取られて彼は眼を閉じ、こめかみに指を圧し当てた後に月へ背を向けて歩き出した。


「気のせいではないらしい」


 真拆は考えた。


 近頃、月が気にかかる。ふと気づいて振り返ると、そこに月が浮かんでいたということは珍しくない。月に対してのこの形容し難い感情は幼いころに持ち合わせていたが、青年期である今になって、それがどうやら再び強まってきたようだ。「恐怖」を水で薄めたような、この不思議な気分。どうやら、自分の意識が月と同期し始めたらしいことは、計器類を見ることなく27日7時間43.1分を正確に計ることが可能になったことからも明白だった。彼の体内時計は深刻な異常をきたしている。月の公転周期と彼の生活リズムとが完全に一致することで、彼の日常にさまざまな影響が出てきているのだった。


 真拆は眉を顰め、響く靴音を意図的に♭にしてゆっくりと帰途に着いた。


 高台の、決して広くはないが美しい裏庭を持つ三角屋根のアパートメントが彼の棲処である。星座早見表の鍵飾りが付いている青いキーを出して、三階の一室の扉を開けると、その中へと入っていった。


 外套を脱ぎ、月に覗かれないように部屋のカーテンを引いて、真拆はすぐさま机に向かうと修理中の懐中時計を抽斗からそっと取り出した。まるで孵化する卵を扱うようにして真拆はそれを机の中央に置く。ランプの灯りの下でそれはきらきらと輝き、彼にひそやかな安堵を与えた。工具箱に手を伸ばす。星月夜、時計を弄る真拆の眼は、暖炉の火を見つめる老犬のように優しい。



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