春から夏


 春から夏



       ※


 四月九日、金曜日。

 今日は、桑原麻美が通う城我浦高等学校で、今年度入学の新入生を歓迎する催しが開催される日。

 麻美は演劇部に所属しており、昨年の文化祭後より部長を務めている。である以上、本来なら、新入生に自らが脚本を書いた劇を披露するはずだった。

 しかし、披露することはできない。演技をするどころか、舞台にすら立つことができないのだから。

 今から約二週間前の放課後、麻美は不運な交通事故に巻き込まれ、右脚を骨折するという大怪我を負った。まともに歩くこともできず、暫く入院を余儀なくされたのである。今は退院できているが、松葉杖なしでは歩行できず、とても劇を演じることなど不可能。

 悔しかった。せっかく脚本を書き、今日という本番を目指してみんなで稽古を重ねてきたのに、その劇を披露できなくなったことが、悔しくて悔しくて仕方ない。舞台に立てないこと、もう心が裂けるぐらい辛いものだった。

 入院しているときも、ただただ病室で、現状を嘆くのみ。

 そんな時、入院していた病室に後輩の女の子が現れた。事故に遭ったときに一緒に歩いていた永井雪絵である。麻美の後輩で、同じ演劇部部員。

 雪絵は、準備してきた演劇ができずに落ち込んでいる麻美の気持ちを知ってか知らずか、新入生歓迎会の劇を麻美抜きで行うという。そればかりか、必ず成功してみせると息巻いていた。だからそれまでには絶対に退院してほしいと。

 演劇部は部員が少なく、部長であり劇の主人公であった麻美抜きではとても成功させることなど不可能に思えた。仮にできたとしても、自分抜きではせいぜい小学生の学芸会程度の陳腐なものなるだろうと。だから、鼻息荒く『頑張るです!』と口にする後輩を後押しするように『頑張って』と声をかけておきながらも、まったくもって期待などしていなかった。

 麻美の怪我はそれほど尾を引くものでなく、新入生歓迎会の二日前に退院。退院といってもまだ松葉杖なしでは歩行できないが、それでも出歩くことはできる。

 だから今朝、久し振りに学校の制服に身を包み、登校した。新入生歓迎会で演劇部が披露する劇を見にいくことにしたのだ。

 それが入院中の病室で交わした雪絵との約束でもあったから。そして、その舞台を見守ることは部長としての責任でもあった。自信作だった脚本がどれほど陳腐な舞台になったとしても、決して目を逸らさずに、しっかり受け止めるべく。

 登校。歩くのには支障があったので、同じ学校に教員として勤める兄に車で送ってもらった。

「…………」

 だがしかし、体育館で劇を見つめる麻美の覚悟は、思ってもいない方向に裏切られることとなる。

「…………」

 自ら脚本を書いて、本来であれば劇の主人公を演じるはずだった麻美の目は、自分のいない舞台上にすっかり吸い込まれ、いつの間にか魅了されていた。劇が演じられる体育館の舞台上から目が離せなくなるほどに。他に何も考えることなく、自分ならこうするだろう、などと思考する間もなく。もしかしたら、息をすることも忘れていたかもしれない。

 それほどまでに麻美は、眼前で演じられる劇に釘づけとなったのである。

 部長である麻美抜きの舞台は、麻美には想像もできないほど見事で、とても感動的なものになっていた。

「…………」

 舞台隅にピアノが設置されている。そこに昨年のコンクール優勝者の男子生徒が腰かけていた。演劇部ではない男子生徒。その男子生徒は演劇に合わせて曲を奏でていく。コンクール優勝者が、劇の演技に合わせて演奏を行っていたのだ。

 これまでなら、効果音や曲はあらかじめ録音されたものを使用していたが、ピアノの生演奏によって演劇により臨場感が増し、芝居に深みが出ていた。そんなこと、麻美は考えもしなかったこと。

 その華麗であり心惹くようなピアノ演奏に乗せられる形で、雪絵たちの演者の芝居は実に活き活きとしており、見る者の心に強く訴えかけるような熱い思いを込められていた。舞台に立つ全員が懸命に役に徹し、それぞれの役を成りきって。いや、登場人物そのものといっても過言ではないほど。

 そんな演劇部の舞台に麻美は、初めてプロの演劇を見たときのような、圧倒的であり感動的な思いを得ていた。それは、自分抜きの舞台で。

 気がつくと、膝の上で拳が握られていた。衝撃的なシーンにぐっと息を止め、感情的な場面には心を震わせて、一瞬たりとも舞台から目が離せなくなる。

 脚本を書いた自分の想像を超えた舞台にのめり込み、眼前で展開されていく演劇に、麻美はあらゆるすべての事象を忘れて一喜一憂していた。

「…………」

 劇が終わってすべての照明が消えて真っ暗になったとき、麻美は誰よりも先に拍手していたのである。自然と手が動いていたのだ。

 直後に照明が舞台を照らし、劇をおえた役者を照らしだす。

 その時はもう、盛大な拍手の渦が体育館を覆い尽くしていた。大喝采。体育館中が一体化していたほどに。麻美は、そのような大きな拍手の渦、経験したことがなかった。

 体育館中が感動の坩堝と化す。誰もが舞台の素晴らしさに手を叩き、いつまでもやめることはない。一向に治まることのない周囲の盛り上がりを目の当たりに、麻美は一気に熱が冷めるような奇妙な感覚を得た。

 下りつつある舞台の幕を目に、胸に重たいものが伸しかかるような、気持ち悪さ。

 そしてそこには、なぜだかとても苦々しく下唇を強く噛みしめている麻美がいた。自分が所属する演劇部の成功を目の当たりにしたのに、表情は苦悶のものでしかない。

 悔しい。

「…………」

 放課後、麻美は旧校舎三階にある演劇部部室に向かった。部室を訪れるのは、事故に遭った日以来となる。

 部室に雪絵の姿はなかった。聞くと、熱を出して保健室で寝込んでいるという。熱は昨日からずっとつづいていたらしく、さきほども無理して舞台に立っていたらしい。

 後片づけに追われるメンバーに本日の成功を労う言葉を残し、すぐに保健室に向かう。松葉杖の移動は物凄く負担だったが、今はそんなことよりあの劇の主人公を演じた雪絵の顔が見たかった。

「…………」

 新校舎一階にある保健室には、舞台上でピアノ演奏していた男子生徒の姿が。昨年の全国コンクール優勝者である。名前は丘ノ崎圭一郎。幕が下りた直後に倒れた麻美をここまで運んだのも圭一郎だという。

 保健の先生は不在で、保健室にはベッドで眠る雪絵と、麻美、圭一郎の三人になった。

 麻美は、顔を赤くさせて眠っている雪絵を見つめてから、近くの台に腰かけている圭一郎に話しかける。

「丘ノ崎君は、どうして演劇部を手伝ってくれたの? 自分だって新入生の前で演奏したかったんじゃない? ああ、自分の演奏をね、演劇じゃなくて」

「別におれはいいですよ。ピアノは飽き飽きしてたところなんで」

 なんとも言いようのない苦笑いを浮かべる圭一郎。

「突然だったんですよ、こいつが演劇部のピンチだから、手伝ってくれって。劇のことなんてなーにも知らないおれに。もうわけ分かりませんでしたね」

 圭一郎は、赤い顔をしてベッドで横たわっている雪絵を手で示す。

「なんでも、部長さんが事故に遭って入院したから、今は演劇部の存続を大きく左右する大ピンチで、それをどうにかできるのはおれしかいないらしくて、だから手伝ってくれって。はははっ。なんか、あれはほとんど押し売りみたいな感じでしたね。それもかなり強引な。そんなことより、えーと、もう大丈夫なんですか? まだ退院したばっかりだって聞いてますけど」

「その、丘ノ崎君は、雪ちゃんと付き合ってるの?」

「へっ……?」

「あら、違うの? なら、なんで協力なんてしてくれたの? だって、演劇なんて、あなたには関係なかったじゃない。時間だってなかったし、引き受ける方がどうかしてると思うけど」

「えっ、そんなことを言われるとは思わなかったな……勝手なこと、しなかった方がよかったですか?」

「あ、いや、違う違う。そういう意味じゃなくて……その、なんというか、頼まれたからって、すんなり引き受けるのが解せないというか……あたしには不思議に思えて……。まあ、それが愛しい彼女からのたっての願い、っていうなら分かるけど」

「残念ながらそうではないですね。ああ、『残念』っていうのは、付き合ってないのが残念じゃなくて、『それは見当違いです』って意味ですから」

「なら、やっぱり不思議じゃない? どうして引き受けることにしてくれたの? 全然関係ないのに」

「うーん、そうですね、言われてみると、確かに不思議ですねー……」

 ベッドのすぐ横にある台に行儀悪く腰かけたまま、圭一郎はがっちりと腕組み。うーんと首を捻って、どこでもない虚空を見つめる。

「そうか、引き受ける必要なんてなかったんだよな、よく考えてみると。そうなんだよな。うん。なんでだろ?」

「……呆れた。あなたには断るって選択肢がなったの?」

「なかったです」

 きっぱり。

「断るなんてこれっぽっちも考えなかったなー。うーん、どうしてかな? こいつが、その、訴えかけるように頼んでくる姿が、これまた一所懸命で、なんか断ることができなかったってところですかねー。あの状況で断ったら、自分が極悪人のように思えたと思います。うん、おれは極悪人じゃないから」

 頬をぽりぽりっ掻く。

「あのね、部長さん。こいつね、信じられないぐらい頑張ったんですよ。発表まで二週間もなかったのに、あなたの代役になるため、懸命に台詞を覚えて。それは役としても、部員を引っ張る部長代理としても」

「…………」

「知らないでしょうけど、あなたが入院した時点で、他の部員はほとんど諦めてたんです」

 交通事故による入院のため、主役である麻美が不在となる。主役不在では当然劇が成立せずに、人数の少ない演劇部ではその代役を立てるのだって難しい。

「『頑張ったって、どうせ無理だって』って、みんな最初は冷めた感じだったんです。もうやる気が失せてたっていうか……。でも、それをこいつが奮い立たせたんですよ」

 雪絵は、『もう駄目、無理だ、できっこない、諦めよう』そう口々に発する部員全員を根気よく説得、発奮し、それでも足らない分は自分の努力で補って、今日の成功を果たしていた。

「入院したあなたに合格点がもらえるように、あなたがいなくても自分たちだけで立派な舞台にしてみせるって」

「…………」

「こいつの、そんな姿も見ましたからね、だったら、手を差し伸べない方がどうかしてると思いますが」

「……それで、丘ノ崎君は、手伝ってくれたってわけ」

 演劇部員ではない圭一郎の参加により、劇により深みが出ていたところを麻美はさきほど目の当たりにしたばかり。なんせ録音した音でなく、ピアノの生演奏なのだ、盛り上がりも段違いだった。それも演奏者が、昨年のコンクール優勝とくれば、プラスにならないはずがない。

「部外者の丘ノ崎君すら、この子は巻き込んじゃえたわけね」

 麻美はベッドで眠る雪絵を見つめる。まるで姉のように、ずっと自分のことを慕ってくれていた後輩が、いつの間か自分の考えもつかないことをやってのけた。麻美にはそれが誇らしくもあるが、けれど、その胸にはどうにも治まらないもやもやした気持ちがある。

 それは、言葉にすれば『苛立ち』に似ていたかもしれない。

 素直には、褒め言葉を口にできなかった。

「…………」

「あの、どうでしたか?」

「はい……?」

「劇ですよ? 部長さんにはどう映りましたか?」

「ああ……もちろんよかったわよ。丘ノ崎君の演奏があって、みんなの頑張りがあって、もう感動しちゃった。素晴らしかったわ。よく短期間でこれだけのことをやってくれたと思う」

 そう言いながらも、胸の奥ではもやもやした気持ちが拡大していくばかり。

「本当によかったわよ。お世辞じゃなくてね」

「あの、できればですけど……」

 圭一郎はベッドで眠る赤い顔を見つめながら、つづける。

「今のその言葉、直接こいつに言ってやってもらえませんか? こいつ、あなたにその言葉を言ってもらいたいがために、今日まで頑張ってきましたから。目が覚めたとき、お願いします」

「…………」

 麻美はベッドの上の赤い顔を見つめる。劇の成功させてくれたことに抱きしめたい感情もあるが、それを意味するものとは正反対の感情がどうしても頭から離れていってくれない。

 胸が苦しかった。

「…………」

「あ、さみー、こんな所にー」

 保健室の扉が開く。紺色のブレザー姿の麻生愛羅が立っていた。さきほどの劇ではヒロインを演じきった小柄な三年生。

「あのねー、さみーのこと、くわしー先生が呼んでたよ。車で送ってもらうんでしょー? だったらー、早く職員室にいった方がいいと思うけどー」

「ええ、そうね」

 麻美はもう一度ベッドで眠る雪絵のことを見つめると、やはり気色悪く蠢くものが自分の胸にあることを自覚した。

 麻美は圭一郎にもう一度お礼を言ってから、松葉杖を使って保健室を後に。

「…………」

 その日、どうにも煮え切れない思いに駆られながら、麻美は帰宅することとなる。

 自身を包んでいるのは、とても言葉にすることのできない、とてもいやな気分でしかなかった。

「…………」

 この胸のもやもやがいずれ爆発的に増殖し、取り返しもつかない悲劇を呼ぶなどと、この時の麻美には知る由もないこと。


       ※


 五月六日、木曜日。

「…………」

 視界にあるプレートには『演劇部』とある。旧校舎三階の一番東側に位置する演劇部部室の前。現在、桑原麻美が部長を務めている演劇部の部室。

「…………」

 放課後、麻美は当番である教室掃除を済ませ、日直業務をこなし、部活の集合時間から少しだけ遅れてここにやって来た。

 ようやく旧校舎にやって来て、部室の前に立って、そのまま扉を開けることができない。

 閉ざされた扉の前、ただただ立ち尽くすばかり

「…………」

 三月に交通事故に遭った。右脚を骨折。四月上旬まで入院。退院後も暫くは松葉杖なしでは歩けない。だから、麻美はずっと部活動を休んでいた。

 演劇部の主な活動としては、四月の新入生歓迎会と十月の文化祭に体育館で劇を披露すること。四月の新入生歓迎会が終わったばかりで、取り立てて部活動に専念する必要はない。

 だから麻美は、静養ということで、ゴールデンウイークが明ける今日までずっと部活を休んでいた。

 本当は、四月といえば新入部員を迎えるとても大事な時期。部長としての責務もあったが、なんとなく、休みたい気分……いや、正確には、部活に顔を出したくなかった、というのが正しいだろう。

 それは、あの新入生歓迎会で行われた、自分抜きの演劇部の感動的な劇を見て以来、ずっと。なんとなく、この部室を敬遠していた。

「…………」

 不安で、怖くて……入っていくことができない。

 また、新入生歓迎会で自分の代役として主人公を演じていた後輩の顔を思い浮かべると、いいようのない悲痛な思いが湧き上がってくる。

 顔を合わせたくなかった。合わせたら、悪いことが起きる気がして。

「…………」

 演劇部の部室の前。ゴールデンウイーク明けが関係しているかは定かでないが、この旧校舎の廊下はしーんっ……と静まり返っている。この旧校舎は主に文科系の部室となっているのだが、他の部活は活動していないのかもしれない。

「…………」

 手を胸に当てなくても、心臓の鼓動が激しくなっているのが分かる。麻美は大きく息を吸い込んで落ち着けるようにしたいが、荒れ狂う脈動はなかなか正常な周期を取り戻してくれない。いや、それどころかその勢いはどんどん増すばかりで収拾がつかなくなる。

「…………」

「……あれ? 部長さん、でしたよね?」

 それは、城我浦高等学校の夏服の制服である白シャツに身を包んだ男子生徒の声。扉の前に立つ麻美に話しかけていく。

「どうしたんです、そんなところで?」

「……えーと、確か、新歓会で、ピアノ弾いててくれた……」

「丘ノ崎です」

「そうそう、丘ノ崎君ね。そうだったそうだった」

 いきなり声をかけられたとき、鼓動の激しかった心臓が破裂するかと思うほど全身がびくりっ! と痙攣したが、麻美は動揺を相手に悟られることなくうまく隠せたという自負はあった。

「どうしたの、こんな所で?」

「おれですか?」

 目を大きく丸くして、圭一郎は自分を指差している。そこには驚きの表情が浮かべられていた。

「そうか、そうですよね……」

 質問された内容に関して、圭一郎はなぜ自分がそのようなことを訊かれなければならないのかと、最初はぴんっとこなった。けれど、冷静に考えてみると、演劇部部員ではない自分がここに立っているのは確かにおかしい。

「その、なんといいますか……惰性というやつですね」

「惰性?」

「はい」

 先月の新入生歓迎会で演劇部の演奏を手伝って以来、圭一郎は放課後によく演劇部部室に顔を出すようになっていた。なんとなく、それまでのつづきのように。特に毛嫌いされることもなかったため。

「そうか、そうですね、部外者ですもんね……迷惑ですか?」

「いえ、迷惑っていうか、そういうわけでは、なくて……ただ、知らなかったものだから、不思議に思っただけで。あなただったら、いつでも顔を出してもらって構いませんよ。随分お世話になったみたいですから、歓迎します」

「なーんだ、よかった。そう言ってもらえると助かります。まっ、そんなに邪魔するつもりもないですけどね」

 緊張の色を帯びていた圭一郎は、安堵の息を漏らした。瞬間的に強張っていた表情が緩んでいく。

「それで、部長さんはここで何をしていたんですか?」

「えっ……」

 麻美は、問われた質問に戸惑った。どう返答すればいいか分からないから。

「それは……」

 答えは頭にある。しかし、それを正直に答えるわけにはいかない。部長という立場でありながら、交通事故とはいえ肝心なときに不在となった責任と、ずっと休んでいたから部室に入ることに躊躇していたなどと、とても口にできるものでない。

 それに、自分が所属している部活の部室なのに、なんとなく入りづらかった。入ってしまったら、とてもいやな思いをしそうな気がして。

 それは、四月の自分不在の劇を見たときから、ずっと。

 みんなの顔を見たくなくて……いや、ある一人の後輩に会いたくなくて。

 だから、ここで立ち往生。

「…………」

「みんな部長さんが戻ってくるのを待ってたんですよ。さあ、入ってください。って、おれが『入ってください』なんて言うのは変ですが」

 麻美のおかしな様子を察してか、はたまたただ単に自分が早く入りたかっただけか、圭一郎は閉ざされていた部室の扉を開けていく。開ける動作に、部外者であるという遠慮はまったくなかった。まるで我が家のように、そうすることが当たり前のように演劇部部室の扉を開ける。ノックすらすることなく。

「おーい、雪絵。部長さん来てるぞー」

「っ! さみ先輩がですぅ!」

 大きな声が部室に響いていた。声を出した人物は、胸に赤いリボンをした夏服の制服である白いシャツに身を包む永井雪絵。顔を廊下に向けたかと思うと、跳ねるようにして扉まで駆けていく。

「さみ先輩、お帰りなさいです!」

「あ、う、うん……ただいま」

 小走りで近づいてきて、目を爛々と輝かせながら勢いよく声をかけてきた後輩に対して、すっかり気圧けおされたというか、なんともぎこちない笑顔になってしまった麻美。その視線は相手ではなく、部室奥の窓に向けた。なんとなく、目を合わせることができなくて。

「……雪ちゃんは、随分と、元気そうね」

「はい!」

 輝くような満面の笑み。

「待ってたです。みんな、さみ先輩が帰ってくるの、待ってたです。ずっとずっと待ってたです」

「そう……」

 室内に向けられた雪絵の視線に釣られるように麻美も目を向けると、何人もの女子生徒が麻美のことを見ていた。

「…………」

 麻美と同じ三年生の藤谷由花は、片手にポテトチップスの袋を持ったまま、反対の手を小さく振っている。

 小柄な麻生愛羅は、椅子に座った状態で忙しなく手足をばたばたっさせながら、無邪気な笑顔。

 二年生の山下真知子は、部室の隅の方で座っており、視線を向けると小さくお辞儀した。

 他に、部室には麻美の知らない女の子の姿がちらほらとある。

「……っ?」

 首を傾ける。ここは麻美が部長を務める演劇部部室なのに、麻美の知らない人物が五人もいる。

「えーと……」

「聞いてくださいです、さみ先輩。なんとですね、今年は新入部員が五人も入ってくれたです!」

 麻美の疑問を察したようで、その報告を興奮気味に話す雪絵。

「みんな、さみ先輩が準備してくれた新歓会の劇に感動して、入部してくれたんです。さすがはさみ先輩です!」

「あ、いや、あたしは、別に……」

 元気な声を自分に向ける雪絵を前に、麻美は申し訳なさそうに胸の前で小さく手を振る。確かに脚本を書いたかもしれないが、しかし、新入生歓迎会で演じられた劇に麻美は関与していない。あの時は骨折していて、とても舞台に上がることはできなかった。

 あれを完成させたのは、麻美以外の部員の力で、決して麻美ではない。

「あれは、みんなが……」

「やっぱりさみ先輩は凄いです!」

 言うが早いか、雪絵は元気に髪を揺らしながら、部室の中央部分で一列になって立っている一年生五名の元へ。

 五人ともはじめて見る麻美のことに戸惑っているようで、表情を固くしているが、そんなことお構いなしに雪絵は満面の笑みを浮かべて近寄っていく。その顔は、まるでこれから楽しいことしか待っていないと示しているみたいに。

「みんな、ずっと話していたさみ先輩が、演劇部に帰ってきてくれたです。今日は記念すべき日です。ほら、ちゃんと挨拶するです」

 そう言って、後輩五人を引き連れるようにして、雪絵は演劇部部長である麻美の元へと戻っていくのだった。


 部室では演劇部が活動をしている。

「…………」

 そんな演劇部の部長を務めている麻美は、ソフトボール部の練習風景がよく見える窓際に椅子を設置し、まだ赤くはならない日差しに照らされながら、頬杖をして静かに部員の様子を眺めていた。

「…………」

 放課後、麻美はこうして久し振りに部室にやって来たものの、今日はリハビリというか、久し振りに見るみんなの様子を見学することが目的。だからこうして椅子に座っているだけで、活動に口出しすることはなかった。

「…………」

 麻美の視線の先、そこには麻美のいない演劇部の日常が繰り広げられている。ストレッチだったり、発声練習をしたり、体力をつけるために腕立て伏せをしたり……それは麻美にとって久し振りに見る光景だったが、久し振りなのにもかかわらず、そこに懐かしさを覚えることができなかった。そればかりか、みんなの様子にどこか違和感すら得たのである。

「…………」

 昨年の十月に行われた文化祭で一学年上の先輩たちが引退して、麻美は部長の任に就く。それからは、残された部員五人で次の大きな舞台である四月の新入生歓迎会に向けて部活動をつづけてきた。拙い部長だったかもしれないが、同級生の由花も愛羅も文句を言わずについてきてくれたことは、ただただ感謝。後輩の雪絵も真知子も懸命に頑張ってくれた。そうして上級生が引退してからも、演劇部は一致団結して活動を継続することができたのである。

 それはすべて、新部長となった麻美を中心として。

 だというのに、違った。今はもう、麻美は中心にいない。麻美は蚊帳の外で、こうして部室の隅に座っている。けれど、部室では演劇部の活動が恙なく行われていた。

 そして、そんな部員の真ん中にいるのは、部長である麻美ではなく、二年生の永井雪絵。

「…………」

 新入生五人を指導しているのは二年生の雪絵で、その指導に新入生は全員少しの不満もあるわけではなさそうで、真面目に聞き入っている。

 三年生の愛羅と由花は、雪絵にときどき茶々を入れるように突っかかっていくこともあるが、単に後輩をからかっているだけで、雪絵を非難も否定もしているわけではない。

 二年生の真知子は、相変わらずマイペースに隅の方で演劇の資料を目に通している。しかし、雪絵の話にもしっかりと耳を傾けているようで、要所で顔を向けては小さく頷いていた。

 そんなみんなの中心にいる雪絵は、はきはきと指示を出したり、意見したり、少し大げさに体を使って表現したりと、とてもはつらつとしている。そんな姿、麻美には見たことがなかった。麻美の知らない雪絵が、そこにはいたのである。それは、新入生歓迎会で主人公を演じた雪絵を見たときと同じ衝撃だったかもしれない。

「…………」

 部員であり部長であるのに、客観的に見ることしかできない部室の練習風景。気がつくと、そこに麻美の場所がなくなっていた。本来麻美のいるべき場所には雪絵が立っている。先月の新入生歓迎会の劇の主人公を、麻美ではなく雪絵が演じたように。

 麻美がいなくても、問題はなかった。

 何一つとして。

「…………」

 麻美は後悔していたかもしれない、今日この部室を訪れたことを。自分を必要としていない部活の様子に、胸にぽっかりと大きな穴が空いた寂しい気持ちがして、けれど、その奥の方では普段生活している分には絶対に必要ではない激情が蠢いていて、それが大きく麻美の心を刺激していた。

 その感情は、雪絵の顔を見る度に強くなっていく。

「…………」

「どうしたんですか、部長さん? 元気ありません? まだ調子が悪かったりするんですか?」

 圭一郎が窓側で椅子に座っている麻美の隣に立った。今までずっと黒板近くのシンセサイザーの前に立ち、雪絵たちの練習に合わせてテンポの遅い曲を奏でたり、勢いよく鍵盤を叩いて雪絵たちを驚かしたりしておもしろがっていたが、これまで何度も『圭くん、邪魔しないでほしいです。そんなテンポでは、とても合わせられないです』と注意され、少し退屈そうに唇を尖らせていたところ。

「まだ怪我がよくならないとか?」

「あ、ううん、そんなことないわ。怪我はもう大丈夫たから。じゃなきゃ、歩けないって。ほら、もう杖持ってないでしょ。全然平気よ」

 自分は大丈夫だと微笑みかける。

「だから、怪我はもう大丈夫なのよ……ただね」

「ただ?」

「その……」

 麻美は息を吐き出す。

「なんか、ちょっとした浦島太郎な気分がして」

「浦島太郎? それって、孤島で独自の文化を築いて平和に暮らしていた鬼たちを、問答無用で壊滅に追い込んでいったという、あの極悪非道の?」

「……随分と、鬼の味方するのね。もしかして丘ノ崎君、節分なんて行事、大嫌いなんじゃない?」

「えっ、好きなだけ豆を食べられる日を、嫌う理由があるんですか?」

「豆が嫌いな人なら、嫌う理由には充分でしょうね。でも、今の場合は鬼の味方してるわけだから、鬼が忌み嫌われている行事は、苦痛を感じるんじゃないのってことで……って、好きなだけじゃないわよ。食べていいのは年の数でしょ。まったく……」

 嘆息。麻美は静かに物思いに耽るように遠い目をして……不意に思い当たることが。

「……って、桃太郎じゃないわよ」

まさかり担いだ?」

「金太郎……じゃなくて、浦島太郎よ。浦島の太郎」

 最初に指摘する箇所を間違えたことに眉間に皺を寄せるも、麻美は言葉をつづける。

「知ってると思うけど、あたしは部活を一か月ちょっと休んでたわけよ。それまでは毎日来てたのに。まあ、そりゃ部長だから当たり前のことなんだろうけど」

 苦笑。

「なのにさ、たかだかそんな短い期間いなかっただけで、部活があたしの知らないものになってるような気がしてね」

 麻美の視界には、部室の真ん中で腕を大きく動かしながら、なにやら懸命に説明している雪絵の姿。その額には汗が滲んでいる。

「ちょっとの間に、なんだか変わっちゃったなー、ってさ」

「ふーん、そんなもんですかね? おれにはいつも通りに見えますけど」

「……えーと、あなたはあたしが入院する前の演劇部を知らないでしょうが」

「ああ、そうでした。はははっ」

「まったく……」

 歯を出して愉快そうに笑いながら黒板近くのシンセサイザーの前に戻っていく圭一郎を目に、麻美はまた吐息を漏らす。

「…………」

 椅子に座ったまま、ゆっくりと壁にもたれかかっていく。窓の外を見ると、ソフトボール部がグラウンド整備を行っているところだった。

 麻美は静かに目を閉じて、リラックスするように全身から力を抜いていく。

「…………」

 少しだけ、目の裏が重たいような気がした。


 奪われる。

 奪われてしまう。

 自分が築き上げてきたもの。

 確立してきたもの。

 なにもかもが奪われてしまう。

 このままでは、あらゆることが奪われてしまう。

 そうして、自分には何も残ることがない。

 残るものが、ない。

 自分を慕っていたと思っていた人間に、奪われてしまう。

 自分は、もう、いらない、人間。

 自分なんか、もう。


 倒れている。

 麻美は倒れている。

 信号の変わり目、交差点で車に激突され、衝撃で吹き飛ばされて、今は地面に倒れている。

 脳天が狂いそうなほど強烈な激痛が全身を駆け抜ける。呼吸困難となって喘ぐばかりで、全身は燃えるような高熱を有していく。けれど、ぶつかった衝撃で今は体を動かすことすら叶わず、ただそうしてそこで倒れていることしかできなかった。

 あまりの痛みに精神がのたうちまわる凄絶な状況下で、麻美は視界にあるものを見つめる。そこには、一人の少女の姿。

 視界にいる少女、そこでこちらを見つめていた。

 少女は、麻美がこれほどまでに苦しい状況なのに、そこから一歩たりとも動くことなく、ただその場に立ち、まるでこちらの様子を観察でもしているようにじっと見つめている。

 今の麻美では、指一本すら自由に動かすことができない。そこで横たわることしかできない体である以上、自分の力では現状をどうすることもできない。立つこともできなければ、起き上がることも不可能。助けを呼ぼうにもうまく声が出てくれなかった。

 だというのに、麻美がこれほど絶望的なほど重傷を負っているのに、視界に映る少女はこちらを見つめるばかり。手を差し伸べてくることもなく、こちらに駆け寄ってきてくることもなく、ただその場で立ってこちらを見つめている。

 と次の瞬間、少女の表情が次第に変化する。

 最初は何の感情も持ち合わせていない無表情だったのに、頬がゆっくりと溶けていくこととなる。口元は小さく吊り上がっていき、大きな双眸は糸のように細くなる。

 視界にいる少女は、笑みを零していた。

 麻美がここでこうして倒れていることが、少女には至上の快楽のように、歯を出して笑っていたのだ。

 それはまるで、麻美がそうなったことを喜んでいるように。

 麻美の不幸こそが、愉快であるみたいに。


「……い……」

「…………」

 体が小さく揺れていた。電車に乗っているときのように、心地のいい振動が麻美の体を揺らしている。

「…………」

「い……さみ先輩、起きてほしいです」

「……っ」

 麻美の重たかった瞼が開く。瞬間、飛び込んできた眩しさに目を細めた。次の瞬間、全身に汗を掻いているのが分かる。その体は、ずっしりと鉛のように重たく感じられた。もたれかかっていた壁からゆっくりと体を起こす。少しだけ頭の左の方が痛い。壁につけていた方である。

「……雪ちゃん……?」

「おはようございます。さみ先輩、ようやく起きてくれたです」

「ああ……」

 霧がかかっているように頭がぼんやりとしているが、それでも少しずつ意識がはっきりしてきた。

 目の前には、こちらを覗き込んでいる雪絵の顔がある。今日もその瞳はとても大きなもの。その雪絵が夏服の制服である白いシャツを着ているので、ここが学校であることを思い出した。

「……ああ、寝ちゃったんだ」

 周囲を見渡す。隅の方に積まれた段ボールや、ハンガーにかけられた衣装の数々、黒板近くのシンセサイザーがカバーもかけられることなく放置されていて、すでに部屋の照明は点けられていた。窓の外は暗く、もちろんソフトボール部は練習をやってはいない。黒板の上にある時計は午後六時三十分。

「……もうこんな時間?」

 見渡すと、部室には雪絵の姿しかなかった。さっきまでは麻美を除く演劇部員九人と、そこにプラスして、演劇部のシンセサイザーを我が物顔で扱う圭一郎の姿があったはずなのに。

 今この部室には目の前にいる雪絵のみ。

「……みんなは?」

「さっき解散したところです。さみ先輩は気持ちよさそうに寝てたから、どうしようかと思って、その、そっとしておいたです……ですけど、もう時間も時間です」

「そうね……」

 麻美は状況を理解した。連休明けの初日で疲れたのかもしれない。しかし、部活中に部室で眠ってしまった事実は、少し恥ずかしい思いがした。それ以前に、部長という立場である以上、そんな姿後輩に見せていいはずがない。

「早く、しないと」

 もう下校時間。早く帰らなければならない。

「……なんか、ちょっとだるい」

「えへへっ。本格的に寝てたです。寝顔、ちょっとかわいらしかったです。さすがにさみ先輩です」

「……変な褒め方しないでくれる。あと意味が分からないわよ。あと、部活してたんだから、起こしてね。なんかみんなに申し訳ないわ」

 麻美の胸には、理由のよく分からない苛立ちがあった。今はむしゃくしゃして仕方ない。

「……もう、帰る」

「はい、帰るです」

 椅子に腰かけている麻美に、雪絵は手を差し伸べた。

「さみ先輩」

「っ」

 笑顔を浮かべながら自分向けて出していた雪絵の手を、麻美は払いのけた。そう考えてやったのではなく、反射的に払ったのである。

 それは、自分にたかる虫のように。

「っ!?」

 やってしまったことに、麻美は目を大きく見開いていることを自覚した。自分としてはとても信じられる行動ではない。それが影響して、心臓の鼓動は早鐘のように激しく脈動している。

「ぁ……」

 慌てて顔を上げた。そこには何が起きたのか理解できていないような、惚けた雪絵の顔があり、麻美はすぐにそこから視線を逸らす。

「ごめん、今日はちょっと予定があって、一緒には帰れない。先に帰っててくれていいから」

「……あ、ああ、はい……」

「……鍵はあたしがちゃんと職員室に戻しておくから……」

 麻美の視界の隅には、小さくこちらに頭を下げて、寂しそうに背中を丸めながら部室を後にする雪絵の姿がある。

 麻美は、こちらに差し伸べていた雪絵の手を払いのけた左手を、まるで信じられない怪奇なものを目の当たりにしたように見つめていた。

「…………」

 自分がやったことなのに、麻美にはとても理解できない。

 なぜあのような行動に至ったのだろう?

 同じ電車通学で、部活後はいつも二人で一緒に帰っていた。だから雪絵は、みんなが帰っていっても部室に残り、麻美が起きるのを待っていたはず。なのに、麻美はその手を払いのけた。

 意識は関係なく、麻美という存在自体が、雪絵のことを拒んで。

「…………」

 今日だって一緒に帰ればいいはずだった。同じ電車通学で、乗る電車だって同じなのに。用事なんて何もないというのに、なぜ嘘をついてまで雪絵を遠ざけたのだろうか? 麻美自身にも納得できる理由が思いつかなかった。

「…………」

 窓の外は、すっかり暗くなっている。

 麻美は、まるで足が地についていない危なっかしい足取りで立ち上がり、部室の照明を消して力の壁にかけられた鍵を手に取って扉を施錠する。鍵を職員室に返すために新校舎へと足を向けた。

 意味も分からずにおかしくなった自分の感情の乱れが、静かな校舎に自分の足音が響くたびに、より荒々しいものに変貌していくような気がしてならなかった。


       ※


 目に見えるものではない、自身へと迫りくる漠然とした脅威によって、桑原麻美の心は落ち着きをなくしていた。それは何の重圧もない、日常という当たり前の時間を過ごしているときでさえ変わることなく。

 気がつくと拳を握りしめ、思い返すだけで苦々しい気持ちが胸の表面を覆っていく。

 体の中心は毒々しい不気味なものを巣くっているみたいで、日常的に吐き気すら感じるようになっていた。

 だから。

 だから、麻美は自分の気持ち悪さを、心地の悪さを、心を覆う闇の部分を取り除くために、行動に出た。

 なぜ自分がこうも苦しんでいるのか? すべては四月から。

 四月にあった新入生歓迎会の演劇部の劇を見てから、麻美は変わった。

 あの劇の、本来自分が演じる予定だった主人公の代役をした少女の姿を見たから。

 永井雪絵を見てしまったから。

 あれを見たから、自分のすべてが失われたような気がした。

 自分の居場所を取られてしまったような気がした。

 存在そのものを否定されているような気さえした。

 だから。

 だから、その不安を、葛藤を、焦りを、不満を、何もかもを、麻美は取り除くことにした。

 自分の世界から、排除するために。

 それは、麻美の奥底から湧き上がった本能からくるもの。

 どうしたところで、抗うことはできなかった。


 その夏、桑原麻美は、社会に生きる人間として絶対に抱いてはいけない残酷な心を持つ。

 そして、この世界に、あろうことか決して取り返しのつくものではない大罪を残した。

 覆われる闇から自らの心を解放されるために。

 麻美は、その手を、汚した。


       ※


 立っている。

 桑原麻美は階段の上に立っている。

 そこでそうして下方にある踊り場を見下ろして。

 踊り場には、一人の少女が倒れていた。

 少女はそこでぐったりと横たわり、意識がない。

 麻美は、すっかり緩みきった表情をさらに歪め、そこでそうして少女のことを見下ろしている。

 少しも動くことのない少女を見下ろし、ただただじっくりと観察するように見つめてから、視線を横に逸らした。

 その場でずっと止めていた足を前へ踏み出す。

 今まで見たものについて、何一つとして関わり合いを持つつもりなどさらさらなかった。ただ下校するため、真っ直ぐ前だけを向いて歩いていく。

 その緩んだ頬は、なかなか元に戻すことができなかった。

 それは暑い夏の日のこと。


       ※


『事故に遭って、暫く入院を余儀なくされた。不在の際に、後輩に自分の座を奪われた。憎しみが生まれ、自分の座を奪った後輩をいじめることにした。執拗にいじめを繰り返すも、後輩がめげることはない。だから実力行使に出た。それにより後輩は大怪我を負った。後輩の怪我があまりにもひどく、自殺を考えるようになる。自分のせいで後輩が自殺を決行した。気が動転する。自分が悪魔にでも憑かれていたような気分だった。悪魔は人を不幸にすることしかしない。だから、生きていてはいけない。自らその命を絶つことにした。抱いてしまった憎しみを悔い改めながら』

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