演劇ノイズ

@miumiumiumiu


 春



       ※


 三月二十四日、水曜日。

「もう咲いてしまいそうです」

 西の空が見事な茜色に染まりつつある時刻、紺色のブレザー姿の永井ながい雪絵ゆきえは、ジャージ姿の陸上部がまだ練習をつづけているグラウンドを左手に、城我浦じょうがうら高等学校の校舎から最寄りである井伊里いいざと駅に近い南門に向かっていた。下校である。歩を進める度に、胸元にある赤いリボンが小さく揺れた。

「ほら、蕾があんなにもです」

 グラウンド横に伸びる校舎から南門への通路は桜並木となっている。雪絵は耳を覆う髪を大きく前後に揺らしながら両側にある巨木を見上げると、仄かな桜色が顔を覗かせた蕾をいくつも確認できた。

「この分だと、もう週末には咲いてしまいそうです」

「そうだね、ホントにもうすぐ咲いちゃいそうだねー。この前まではあんなに寒かったのに、気がつけばこんなに暖かくなってきて、マフラーに手袋も必要なくなっちゃって、すぐにでも桜が見事な花を咲かせちゃうんだろうねー。そしたらさ、またこの学校には大勢の新入生が入ってくるんだよ。去年のゆきちゃんみたいに。それはね、とっても楽しみなことだよ」

 百六十センチメートルの雪絵より少し背の高い少女が、南門に向かって歩きながら雪絵の頭をぽんっと叩いた。桑原くわばら麻美あさみ。雪絵の先輩である。

「いよいよ雪ちゃんも先輩になるんだね。『雪先輩』かな?」

「えへへー、そうなるんですね。あれからもう一年なんです。あっという間です……どうです? わたし、威厳といいますか、先輩としての貫祿、出てるです? それはもう溢れるばかりにです」

「うーん……」

 麻美は首を大きく傾け、問いかけられた質問の返答に困るみたいに、どこでもない遠くの空を見つめながら頬をぽりぽりっ掻く。

「うーん……」

「……逡巡時間、どうしてそんなに長いんです? しかも結論がまだ出てないです!? もー、さみ先輩、どこまで意地悪なんですか? 嘘でもあるって言ってほしかったです。そういう雰囲気だったです」

「うーん……」

「……ま、まだ出ないです!? いや、それとも、そこまで悩ませてしまった、わたしがいけないんじゃ!? そうか、わたしがいけなかったんです。それはいけないことをしてしまったです。反省しなくちゃいけないです。はい、反省です」

「うん。じゃあ、ここは雪ちゃんが悪いってことで」

「えぇーっ、そこは即答ですぅ!? そんなのいやですぅ。そこは是非とも気遣ってもらいたいですぅ。人生には気を遣わなきゃいけないポイントがたくさんあるんですぅ。この瞬間こそ気遣いポイントです」

 嘆きような苦情のような情けないような辛いような雪絵の大きな声が、春の暖かな風に乗って遠くの空へと飛んでいった。

 二人は校舎からつづく桜並木を通って南門に到着。門を出てすぐ右折し、最寄り駅である井伊里いいざと駅に向かう。二人とも電車通学。

 雪絵の視界、遠くに高架が見えた。たった今、銀色に塗装された電車が左から右へと流れていく。二人が乗るのは今のとは反対方向にいく電車である。

 駅の手前には交差点があり、進行方向の信号機は赤色だった。角には外観に緑色が目立つコンビニエンスストアがあり、雪絵と同じ城我浦高等学校の制服を着た生徒の姿がちらほらと目につく。運動部と思われる体格のいい男子生徒が店の前にしゃがみ込み、大きく口を開いて菓子パンを頬張っている。雪絵もよく学校帰りに利用するが、今日その予定はなかった。

「それにしても、改めてですけど、さみ先輩って凄いです」

「そんなこと、改めて言うことじゃないと思うけど」

 麻美の即答。

「分かってるから、そんなこと。いちいち言わなくてもいいことよ」

「まったくもって凄い自信満々です。自信家さんです。その点も凄いと思うです。でも、それは人としてどうかと思うです……ですけど、やっぱり凄いです。凄いものは凄いんだから凄いんです。あの、いつもお話、どうやって考えてるんですか?」

「ああ、なんだそんなこと? あんなの別に凄いことじゃないと思うけど。だって、なんとなく思ったことを溜め込んでいって、それをうまいことつなぎ合わせたら、はいでき上がり。そうやって、ただ書いてるだけだもん。こうだったら楽しいな、とか、こうだったら苦しいな、とか。登場人物の人数は決まってるからね、それぞれの役目を決めちゃえば、あとは自然とできると思うけど」

 麻美は前方を手で示した。

「まっ、自分が楽しければ、楽しくなると思うよ。自分が切ないと思えば、切ない話になると思うし。そうだなー、例えばだけど、今は赤信号だけど、でも、ずっとあのままじゃないよね?」

「ちょっと待てば青になるです。じゃないと、わたしたち渡れないです。一生家に帰れなくなるです。そんなの困るです。お母さんの夕ご飯は食べたいです。お風呂だって入りたいですし、暖かいお布団が待ってるです」

「うん。信号が赤から青に変わること、それは当たり前のこと。じゃあ、当たり前のことを当たり前にしなかったら、不便になった不思議になったりして、劇としておもしろくなると思わない? うーん、そうだなー……赤の次に青に変わるんじゃなくて、赤がほんのりとした赤色に変色するの。『こらー、そんな迫力のない薄さで、交差点にいる人間みんなを止められると思うなよ!?』ってな感じで。そしたら今度は仄かな桃色になるの。『ここにきて思春期の初恋ですか!?』みたいな感じで」

「……それはよく分からないです」

「……ここは冷たいんだね。さっきまで散々持ち上げておいて」

「でも、なんとなく発想は凄いと思います。色を変化させるとしたら、わたしだったらせいぜい赤の次に七色の虹色にするぐらいの発想しかなかったです。あっ、でも、七色の意味はないです。そうなればきれいだからです」

「二時になったらその色が出るのはありかもね? 深夜二時だけのお楽しみ、ってな感じで。それ、中高生には噂になるだろうね。見たいがために、みんなこっそり家を抜け出してくるんだよ」

「……そういう駄洒落もよく分からないです」

「嘘ぉ!? ここも駄目なのぉ!? 今日は一段と厳しいなー」

 思わず麻美の声が裏返っていた。

「まっ、ああなればいいなー、こうなればおもしろいなー、っていうのを考えてるだけじゃなくて、実際紙に書いちゃえばいいのよ。脚本なんて、頭でああだこうだ考えるより、いざ文章にしちゃえば、結構うまくいくもんだと思うから。そりゃ、行き詰まることだってあるかもしれないけど、でも、あたしの場合は最終地点だけはあらかじめ考えておくから、スタートさえしちゃえば、途中がどうでも、最終的にはゴールに着いちゃうから。あっ、そうか、それが大事なのかもしれないね。理想はね、最終地点から逆算してスタート地点を出すことなんだ」

「今回のも素敵なお話です。あの男の子、ほんの一瞬のためにあんなにも懸命になって頑張れるんですから、素晴らしいです。もう感動したです」

「そう?」

「そうです」

 雪絵と麻美は交差点に辿り着いた。信号機は学校の南門を出てすぐ見たときは赤色だったが、あれから色を変え、今はまた赤色が灯っていた。

 赤は止まれ。それは交通ルールを遵守しなければならない社会では、守らなければならないこと。である以上、二人は交差点手前で立ち止まる。

 そんな二人のすぐ前を流れるように多くの車が通り過ぎていく。

「……さみ先輩って、進学ですか?」

「唐突ね? そんな話題まったくなかったのに……」

「だって、さみ先輩たち、もう来月から三年生です」

「そうね、進路志望も二回書いてるわね。進学にしておいたけど。特に目指してるもんなんてないから、ただ受験するってだけって感じかな。いきたい大学もないしー」

 麻美は通学鞄を手にしたまま自分の前に腕を伸ばす。

「そうか、来年の今頃はもう卒業しちゃってるんだねー。卒業までに将来やりたいこと、ちゃんと見つけられるかなー。でもって、こうして雪ちゃんと一緒に帰れるのも、あと何回あるんだろう? うわー、そんなこと考えたら、ちょっと寂しくなってきたなー……。でさ、雪ちゃん、成績どうだった?」

 今日は三学期の終業式。全員に通知表が配られる。

「ばっちり?」

「……いくらさみ先輩だったとしても、していけない質問があるです。仮に人類が滅亡したとしても、その件だけは明るみに出てはいけないことなんです。そうやって、この世界が形成される以前から決まってるんです」

「いくつあったの?」

「言葉不足です。質問の意味が分からないです。そんなことではお答えするわけにはいかないです」

「赤点」

「ぅ……」

 雪絵の視界の信号機は、まだ赤色。雪絵には思わず目を逸らしたくなる色だった。

「……赤点なんてありません。そんなことあるわけがありません。それは決して、先生に言われたわけでもないのに、自分から進んでやったレポートを無理矢理に押しつけるように受け取ってもらって、どうにかこうにか単位をもらったわけではないです」

「……大変なんだね、進級するってのも。そっかー、今までそんなこと考えたこともないや」

「わ、わたしだって、単位を落としそうになるのをどうにか拾えないものかと、四六時中考えたことなど、そんなにないです」

「少しはあるんだね……」

 額に大粒の汗を浮かべる麻美。ぽんっと隣人の肩を叩く。

「それも含めて青春だ。恋する乙女は挫けちゃだけだよ」

「はい! んっ……? 恋はよく分からないです」

 本人もいまいちよく分かっていない雪絵の元気な返事とともに、進行方向の信号機は青色に変わった。

 瞬間、雪絵は踏み出そうとしていた足元に違和感が。

「あっ、待ってほしいです。紐が解けているみたいです」

「そんなの待ってらんないよー」

「……さみ先輩は意地悪です」

 頬を膨らませ、しゃがみ込んで靴の紐を手にする雪絵。早くしないと麻美がどんどん先にいってしまう。

 そんな雪絵の視界上部には、背を向けた桑原麻美の姿が少しだけ小さくなった。

 急いで解けた紐を縛り直す。

(っ……!?)

 次の瞬間! この空間に大きく響きわたる、路面にタイヤが擦れる音がした。

 ほぼ同時に、大きく鈍い音が。まるで胸の奥底まで圧迫されそうなほど、それは凄まじい衝撃音。

 雪絵の視界には、さっきまでなかった巨大なものが過り、麻美の姿を消し去った。

「っ……」

 顔を上げる。目の前にいたはずの麻美がいない。

「ぇ……」

 麻美は視界の隅、十メートルほど左側に紺色のブレザー。

 横たわっている。

 腰までの黒髪を、アスファルトの地面に放射状に広げながら。

 交差点の真ん中で。

 倒れていた。

「ぁ……」

 さっきまで雪絵の横に並んで楽しくお喋りに興じていた麻美が、今は交差点で横たわっている。

 身動き一つせずに。

 ぐったりと。

「…………」

 今の雪絵では、解けた靴の紐を縛ることができなくなった。そんな意識、とっくに失せたから。

「…………」

 雪絵は、交差点の手前で呆然と目の前の光景を目に映す。やれることが、それだけ。

 麻美に駆け寄ることもなく。

 救急車を呼ぶこともなく。

「…………」

 世界が凍りつくみたいだった。


       ※


 三月二十六日、金曜日。

「だからです、圭くんには手伝ってもらいたいです。是が非でも成功させたいです。それは、これまで以上にです」

 永井雪絵の通う私立城我浦高等学校は春休み。朝十時、ほとんど生徒を見かけない静かな旧校舎三階の一室で、雪絵は一人の男子生徒と向き合っていた。

「さみ先輩のためにもです」

 そう寂しそうな表情を浮かべながら、瞳の端を潤ませる。

「お願いです、けいくん、手伝ってほしいです。この通りです」

「…………」

 旧校舎は四階建てで、三階の一番東側にある教室は演劇部の部室に当てられている。今日初めてこの部室に入った丘ノおかのざき圭一郎けいいちろうは、必死に懇願する少女を前に、小さく吐息。

「そこまで頼まれたら、そりゃ、無理だ、なんて簡単には言えないけどー……」

「手伝ってくれるんです?」

「そりゃ、おれだって鬼じゃないからね……でもな……」

 渋る。

「こんな素人のおれに、何ができるっていうんだよ?」

 疑問だった。

「演劇のことなんて、これっぽっちも分からないんだぞ。でもって、新歓会まで、ほとんど時間が残ってないんだろ。だからさー……知識もない、時間もない。そんなおれにいったい何を期待してるんだ?」

 圭一郎が口にした『新歓会』は『新入生歓迎会』のことで、来月の四月九日に予定されている学校行事。毎年文科系の部活が、新入生のために体育館で発表を行うのだ。

 そこには、少しでも多く新入部員を獲得する狙いが含まれていた。

「あと二週間しかないんだぜ……」

「圭くんだったら、それだけあれば大丈夫です」

 根拠は特にないが、雪絵は自信満々でそう言い切った。そうやって相手に不安を与えることなく、どうあろうと逃がすことなく、これからやることに引きずり込もうという魂胆が隠れていることを、雪絵は無意識に行っている。

「さみ先輩がさ、その……あんなことになったのは知ってるです?」

「あ、ああ、なんとなく誰かが事故に遭ったっていうのは聞いてる……その現場にいたんだろ、お前? 大変だったな、いろいろとさ」

「そうなんです……」

 大きな瞳が、うるうると豪快に潤みだす。

「さみ先輩、わたしの目の前で車に撥ねられたんです。そのまま救急車で病院に運ばれていったです。わたし、何もすることができなくて、ただ呆然と突っ立てることしかできなかったです……」

 雪絵の先輩である桑原麻美は、一昨日の放課後、最寄りの井伊里駅に向かう途中の交差点で交通事故に遭った。信号の変わり目で、赤信号になったのを気づかずに交差点内に突入してきた乗用車に撥ねられたのである。

「右脚を骨折したみたいです。まともに歩けないです」

 雪絵は昨日病院を訪れた。直接の原因は自分にないものの、それでも事故に遭ったときに一緒にいたので、雪絵には後ろめたい思いがある。沈んだ気持ちのまま病院を訪れてみると、脚を吊るした状態でベッドに横たわる麻美の姿。

 乗用車に撥ねられたとはいえ、ブレーキをかけて減速した。そのため、さほど大きな怪我になることはなく、どうにか骨折で済んでいた。

 思ったよりも元気そうな麻美の姿に、雪絵はほっと胸を撫で下ろす。張り詰めるような緊張も和らいでいた。

 とはいえ『命に別状があるわけではなくて、よかったよかった』なんて楽観的に考えることはできない。なんといっても、来月には新入生歓迎会が行われる。演劇部にとっては、秋の文化祭と双璧を成す大イベント。現状では部長である麻美なしでは、公演するなんて無謀に思えた。

 けれど、中止にしたらしたで、また問題が起きる。演劇部は現在部員が五名しかいない。その内新年度に三年生になるのは三名。つまり、秋の文化祭で三年生が引退すると、残りは二年生が二名。定員不足により、このままでは演劇部が廃部に追いやられる由々しき事態。

 だからこその新入生歓迎会。ここでしっかりアピールして、多くの新入部員を獲得し、廃部を免れる努力をしなければならない。そのために演劇部は今日までずっと稽古を進めてきたのである。

 発表する演劇で観客の胸を強く打てるように。より感動的な劇にするために。そうして多くの部員を獲得するために。

 すべては高校生活の青春をぶつけてきた部存続に向けて。

 そういった状況である以上、もし新入生歓迎会をキャンセルすれば、アピールする場を失い、新入部員が入らなくなる危険性が高い。

 だからこそ、なんとしても新入生歓迎会は成功させなければならなかった。

 そのためには、まず入院中の麻美抜きでも演劇を成立させること。

 白羽の矢は、部外者である丘ノ崎圭一郎に立った。

「圭くんにはどうしてもお願いしたいです。引き受けてもらいたいです。昨日、さみ先輩にも『どーんと任せてください!』って言ってきたです。嘘にしたくないです。劇、成功させたいです……」

「…………」

 圭一郎は頭を掻く。目の前で涙ぐまれている少女の姿に、易々と『時間ないし、そんなの無理だね』と言える状況でなかった。少なくとも、圭一郎はそれができるほど鬼ではない。

「…………」

「べ、別に、圭くんにさみ先輩の代役をお願いしてるわけじゃないです。その、大変おこがましいとは思うのですが、わたしが代役をやる予定です。だから、その点については心配しないでほしいです」

「……で、おれは?」

「はい、演奏してほしいです」

 舞台の上、そこで劇に合わせて演奏してほしい。

「効果音とか、その場の雰囲気に合った曲とかです……」

 雪絵は手をもじもじ。

「録音してあるのもいいですけど、やっぱり生演奏の方がぴったりきますし、迫力といいますか臨場感といいますか、劇により深みが出ると思うです。だから、それをお願いしたいです」

「素人のおれに、それができると?」

「できます」

 即答。

「圭くんならできます。だって、圭くんですから」

 まるで向き合っている相手が、あらゆるすべてに関して万能な人間のように言ってのけた。

「だから、大丈夫です。台本はここにあるです。さみ先輩のオリジナルです。凄いです、お話を作れるなんて、さみ先輩を尊敬してしまうです。さすがはさみ先輩です。わたしではとても真似できないです」

「ふーん、台本ね。えーと、『その姿 流星の閃き』なんだ……」

 圭一郎は渡された台本を手にする。雪絵のもので、今日まで相当使い込まれているらしく、表紙の角がなくなっていた。

 ぺらぺらっ捲っていく。鉤括弧の台詞と、場面の設定や登場人物の動きが印刷されており、さらに手書きの文字が追加されている。雪絵が書き足したものだろう。

「これ、どんな話なんだ?」

「とってもとっても切ないお話です。その、男の子が、もう会えなくなった女の子に会いにいくために、懸命に頑張るんです」

 主人公は不慮の事故で死ぬ。

 そんな主人公を失った悲しみに、心を閉ざす女の子。

 そんな女の子のために、主人公は生命にとっての絶対的な摂理に抗い、旅に出ることを決意する。命のかけらを集め、もう一度女の子に前に立つための。

 無限すら有する宇宙規模の大冒険を繰り広げ、数多くの困難にも勇敢に立ち向かっていき、主人公は命のかけらを集めることに成功。これで女の子の前に立つことができる。

 女の子の前、主人公は決死の思いで集めてきた命のかけらを解き放った。

 瞬間、空間に歪みが生じ、生と死のどちらでもない空間ができ上がる。そこでは生ある者と、生ない者が同時に存在することができた。

 もう二度と向き合うことのできなかった二人。それが今、再会を果たす。

 主人公は、驚きと戸惑いに満たされた女の子を力いっぱい抱きしめた。闇に閉ざされた心を解き放つように、強く。強く。力の限り。

 女の子は、自分のために会いにきてくれた主人公の存在に、凍りついた心を溶かしていく。

 そうして女の子の顔に、失われた笑顔が蘇っていた。

 主人公が摂理に逆らい、地獄すら感じる試練に打ち勝った末に集めた命のかけらの効果は、一瞬のこと。それがなくなれば、主人公はもう迫りくる死から抗うことができない。

 けれど、主人公は、女の子の笑顔を見た瞬間、自分の役目をおえたことを悟る。その笑顔を見るために、懸命になって命のかけらを集めてきたのだ。達せられたのであれば、もう思い残すことはない。

 主人公は、満点の笑顔を浮かべる女の子を目に焼きつけ、死者の世界へと旅立っていった。

 女の子に明るい未来を約束して。

 生命ある者としての、最後の使命を全うして。

「女の子と会えるのは、本当にほんの一瞬です。でも、その一瞬のために、主人公はいくつもの障害に立ち向かっていくんです。そして幾度となく挫けそうになりながらも、すべてに打ち勝っていくんです。ほんの一瞬、女の子に会うためだけにです。すべては女の子のことを思ってです」

 すべては、女の子の閉ざされた心を解放するために。

「稲妻に打たれたり、洪水に呑み込まれたり、呪われた城の化物を倒したりもするです…………そりゃもう物凄い大冒険なんです。次々に主人公が直面するのは、すぐにでも投げ出したくなる苦難ばかりなのに、主人公はすべてを成し遂げていくんです」

 女の子との一瞬という時間を手に入れるために。

「もう感動です。こんな素敵なお話、涙なしでは読めないですぅ」

 そう口にしている雪絵は、目の端に涙を溜めていた。

「っすん……凄いですぅ、さみ先輩。こんなにも素敵なお話を考えられるですぅ。っすん……とてもわたしなんかじゃ無理ですぅ」

「あの、力説して、感動してるっていうのか、泣いてるところ申し訳ないんだけど……その、水を差すようで」

「っすん……なんですぅ?」

「おれ、何すんの?」

 台本には台詞や場面の設定、登場人物の動きしか書かれておらず、圭一郎が頼まれた演奏に関したものは何も書かれていなかった。一言すらも。

「劇に合わせて演奏するってのはいいんだけど、えーと……楽譜は?」

「っすん……それは、圭くんが、っすん……劇に、合わせるんですぅ」

「はいぃ……?」

 巨大なクェスチョンマークが頭上に浮かぶ。それから暫く、圭一郎は口を開けっ放しの状態で固まった。惚けていたかもしれない。

「……合わせるって? だから楽譜は?」

「っすん……圭くんが、わたしたちの劇を見て、『この場面にはこんな曲が合うだろうな』って頭に浮かんだものをそのまま演奏するんです」

「即興でぇ!?」

 目が点。

「いや、いやいや、いやいやいやいや、無理。無理無理。そんなの無理。絶対無理。演奏は、楽譜があってなんぼだぜ」

「大丈夫です」

 もう何度目かは分からない、雪絵の『大丈夫です』が炸裂。

「わたしたちは新歓会までほぼ毎日お芝居の稽古です。毎日猛特訓です。新歓会までお休みなど一日もないです。圭くんはそれを見ながら、劇のイメージを固めて、あとは雰囲気で演奏すればいいだけです」

「いやいや、『雰囲気で演奏すればいいだけです』って、そんな簡単に」

「できるです。圭くんならできるです。わたしの知ってる圭くんなら大丈夫です。もうばっちりです」

「何を知ってるんだ、何を? おれのいったい何を?」

「大丈夫です」

 さっきまで泣いていた雪絵の顔が、輝きに満ちていく。

 にっこり。

「だって、圭くんです。なら、大丈夫です」

 他人には決して理解できない自信に満ちた表情を浮かべていた。

「今日はさっそくお昼から練習です。びしっと見学していってほしいです。そうしたら、圭くんの心には次々と多くの音符が溢れてくるはずです。それはもう温泉のように次から次に湧いてくるんです」

「湧いてくるかは知らないけど……それで、劇を見学して、その雰囲気で、なんとなく演奏しろってこと?」

「そうです。できれば明日からでも練習に曲を合わせてくれれば御の字です。ですので、今日の練習ですべてを掴んでもらえたら助かるです」

「今日の練習だけで!?」

「はい」

「そ、そう……」

 圭一郎は表情を強張らせながら、小さく嘆息。

「……結局のところ、とにかくおれには頑張れってことなのね……」

 吐息とともに、ほとんど降参するような感じで『仕方がない』と処理した。圭一郎は窓の外に目を向ける。

 窓の外、第二グラウンドの上空は、今日という日を天が祝福しているのか、気持ちいいほどの真っ青な空が広がっていた。


       ※


 四月七日、水曜日。

「もうばっちりです、圭くん」

「どうにか、な」

「またまた謙遜です? こっちが感動しちゃうぐらい、ばっちりです」

 城我浦高等学校の制服である紺色のブレザー姿の永井雪絵が、耳を覆う髪を元気に揺らしながらピアノまで駆け寄る。

「なんとか明後日の本番までに間に合いました。全部圭くんのおかげです。さすがは圭くんです。わたしの見込みに間違いはなったです。ありがとです」

「それ、まるで本番が終わったみたいな台詞だな」

「何言ってるんです? 本番は明後日です。その前に、明日は予行演習です。忘れたんですぅ?」

「……知ってるよ」

 ピアノの前、ゆっくりと鍵盤に蓋をして、丘ノ崎圭一郎は腕を天井に向けて大きく伸びをする。

「おれには劇のことはよく分からないけどさ、それでもお前の演技もなかなかよかったと思うよ。ちょっとだけ引き込まれたっていうか、見取れちゃった」

「えへへっ。でも、わたしなんかの演技に見取れていては駄目です。圭くんにはちゃんと演奏してもらいたいです」

「あ、はいはい。気をつけますよ。じゃあ、戻るか? あんまりお邪魔してもいけないから」

 圭一郎は窓側を見てみると、ちょうど目が合った。そこにはにこやかな笑顔を携えた少年が座っている。

椎名しいな、悪かったな、邪魔しちゃって」

「ううん、そんなことないよ。いいもん見させてもらったから。いやー、よかった。素晴らしかった」

 椅子に座ってこちらの様子を見ていた椎名しいな星流せいりゅうは、ゆっくりとした足取りでピアノまで近づいていく。その際、鼻まで達する長い前髪は小さく揺れた。

「こんな間近で演技見たの、初めてだったから、最初は圧倒されちゃったけど、その内どんどん入り込んでいって、うん、楽しかったよ。でもって、永井さんは演技上手なんだね。去年は一緒のクラスだったけど、知らなかったなー」

「えへへー」

 頭を書きながら頬を赤らめ、本格的な照れ笑い。

「それじゃ、わたしたち、片して部室に戻るです。今日はありがとです。圭くん、また後でです」

「ああ」

 圭一郎の視界、雪絵を含む演劇部員四人がそれぞれ荷物を持ってこの教室を後にする。

「どうなるかと思ったけど、まっ、どうにか形にはなったな」

「また変なことに巻き込まれたもんだな、お前?」

「うん、まあ……」

 言葉に濁る。

 圭一郎が演劇部を手伝ってくれと依頼されたのが三月二十六日、今から約二週間前のこと。それから穴が空くほど台本を読み、何度も演劇部の稽古を見学して、実際に曲をつけていった。

 効果音は演劇部所有のシンセサイザーに登録されていたが、どれも圭一郎にぴんっとくるものはなく、結局すべて自分で作曲する羽目に。

 本番ではピアノで演奏する予定だが、旧校舎三階にある演劇部の部室にはピアノがなく、今日までずっとピアノで合わせられなかった。本番は明後日で、前日の体育館で行われる予行演習で初めて合わせるというのは、かなり無謀なこと。思案してみた結果、音楽準備室にあるピアノを借りることにしたのである。

 旧校舎四階の音楽準備室は、三年前に新校舎ができるまでは音楽室として使用されていた教室。今は新校舎に移動できなかった楽器と、古くなった楽器を保管されている。ちょうど演劇部の部室の真上に位置する。

「なかなかなもんだったろ?」

「ああ」

「最初はどうなるかと思ったけど、やってやれないものじゃないんだな。勉強になったよ」

 ついさっきまで、この音楽準備室で演劇部の予行演習をしていた。初めてピアノの音を合わせた練習である。まずまずの感触。

「にしても、そっちの邪魔しちまったな」

「いいっていいって。おもしろかったから。また来てもいいんだぜ。是非とも見学させてもらいたいね」

 この音楽準備室はもう、授業や行事といったことで使用されることはない。けれど、それでも毎日使用される教室だった。それは、軽音楽部の星流が毎日、ここでギターの練習をしているから。部活動自体は新校舎の音楽室で活動をしているが、星流は他の音が気になるようで、一年生のときからずっとここで一人練習している。

 学校があるときは毎日、朝の就業前と放課後と。

「もう練習しないのか? 明後日が本番なんだろ?」

「よく知らないけど、ここではもうしないみたい。まだ明日体育館での予行演習もあるだろうしさ。それに、お前の邪魔もしちゃ悪いし」

「そうか、そりゃ残念」

 星流はさっきまで座っていたパイプ椅子まで戻り、ギターを手にする。曲を出す度に、鼻の頭まである前髪が揺れた。

「なあ、お前さ、もうコンクールとか、出ないの?」

「んっ……」

 雪絵たちが待っているだろうから、三階にある演劇部の部室に移動しようと、すぐ横に木琴が置かれている扉の前まできていた圭一郎だが、かけられた声に振り返る。

「うーん、コンクールか……」

「去年までは出てたんじゃなかったっけ? よく朝礼で表彰されてたけど。その度に、あいつほんとに凄いんだな、って思ったもんだ」

「うーん……」

 圭一郎は首を小さく傾ける。

「なんかさ、おもしろくないんだよね。ああいうのって」

 返事をする相手でなく、今まで自分が弾いていたピアノを目にする。

「コンクールでさ、優勝するの、どうすればいいか分かる?」

「さあ? お前と違って、縁がないから。才能もあるわけじゃないし……まあ、単純に考えればさ、誰よりもうまく弾けばいいんじゃない?」

「残念。外れ」

 ピアノを見つめながらも、そこではないどこか遠い時間を見つめる圭一郎。

「コンクールで優勝しようと思えば、審査員の気に入るように弾けばいいんだよ」

 優勝するためには、傾向を分析し、細かい調整をたくさんして、審査員に気に入られる曲を弾くこと。

「そうすれば審査員の採点が高くなって、優勝できるってわけ。言い換えるとさ、誰かに気に入られるように弾かなきゃいけないんだよね」

 肩を波打ちながら、小さく吐息。

「誰かの言われた通りとかさ、聴く人間に気に入られるように弾いたって、おもしろくないだろ。お前はどうだよ? いつも朝と放課後にここで弾いてるみたいだけど、誰かに言われて練習してるのか? 違うだろ?」

「まあな。だってよ、僕のは趣味だから。大会とかそんなのじゃなくて、ただ好きだから弾いてるだけ。そりゃ、もちろんうまくはなりたいけど」

「コンクールとか、先生のレッスンとかさ……なんか、おもしろくなくなっちまったんだよね、ピアノがさ」

 だから、昨年の秋以降、コンクールに出るのをやめた。惰性的にというか、個人で練習はつづけているものの、それまでみたいにコンクール優勝という明確な目標はない。

「やっぱ好きに弾きたいじゃん。自分が楽しくさ。こう表現しろとか、作曲者の意図をしっかり汲めとか、そんなんじゃなくて」

「そりゃ、そうだろうな」

「なんかピアノ、弾くのもいやになっちゃってさ、実をいうと、やめようとしてたんだよ。もうどうでもいいやって」

 直後に、少しだけ声のトーンが上がる。

「その点でいくと、今回のは結構楽しかったなー。久々っていうか、一番最初に鍵盤触ったときみたいに、どきどきした」

 演劇部のために圭一郎がしてきたことは、忘れていた胸のときめきを思い出すものがあった。

「今までは楽譜通り弾いてるだけで、こんなのしたことないじゃん? 自分で作曲したりとかさ、演技に合う効果音とか、ムード作りとかって。演技に合わせて弾くってのは難しくはあるけど、でも、おもしろかったなー。って、本番はこれからなんだけどね」

「そっか。よかったな、そういうのが見つかって」

「ああ。雪絵にいきなり頼まれたときは、どうなるかと思ったけど。じゃあな、もういくわ」

 にっこりと微笑んで、圭一郎は別れを告げるために右手を上げる。そのままこの音楽準備室を後にした。

「……あれ?」

 廊下に出た直後、視界に一人の少女の姿が。

「どうしたんだよ、雪絵?」

「あ、う、うん……」

 雪絵は意味なく胸の前で手を忙しなく動かして、『挙動不審』という言葉を絵に描いた動作をしていた。圭一郎のことを見ることなく、不自然なほど頬を強張らせ、胸の前で組んだ手をもじもじさせる。

「け、圭くん、遅いです、から……む、迎えにきたです」

「ふーん、それはご苦労さまで……で、もしかして、今の話、聞いてたとか?」

「…………」

「立ち聞き?」

「……そ、そんなつもりは、まったく、なかったです。誓って、そんなつもり、なかったです」

「でも、結果的には」

「……ちょっとだけ、立ち聞きしちゃいました、です」

 気まずそうに下を向く雪絵。

「……圭くん、の、ピアノ、聴きたいです。ずっとずっと聴きたいです。やめてほしくないです」

「……お前、結構聞いてたんだな」

「……ごめんなさいです」

 頭を下げる。

「でも、やっぱり圭くんのピアノは素晴らしくて、それがなくなっちゃうのは、残念というか、寂しいです。だからやめないでほしいです」

「…………」

「ずっとずっと聴いていたいです」

「…………」

 圭一郎は雪絵の隣に移動し、その頭にぽんっと手を載せた。

「馬鹿だな、やめはしないよ」

 圭一郎は足を前に出す。

「おもしろかったもん、お前らの演技に合わせるの。これまでみたいに楽譜追ってるのと違って、こういうのもあるんだなって。いつもは一人で弾いてるから、大勢で一つのものを作り上げるの、こんなに楽しいことだったんだな」

「…………」

「ありがとな、誘ってくれて」

「あ、い、いや、そんな、お礼を言うのはこちらの方です。圭くんのおかげで、お芝居、うまくいきそうです。さみ先輩が入院しちゃって、もう駄目かと思ってたから、圭くんに手伝ってもらえて、とてもよかったです」

「馬鹿だな、本番は明後日だぞ。気抜いてるんじゃねーぞ」

 口元を緩め、階段へ。四階から三階に移動する。

「にしてもさ、雪絵は頑張ったよな。今回は特に」

「そ、そんなこと、ないです。わたしの頑張りなんて、そんなの圭くんに比べればあってないようなものです」

「頑張ったよ」

 現在演劇部は五名しかいない。三年生三名に、二年生二名。その内、三年生の部長が交通事故で離脱。新入生歓迎会まで二週間しかない。そんな絶望的な状況で、雪絵は他の部員を鼓舞し、音響の足りない人数を生演奏というアイデアで乗り越えて、毎日遅くまで練習を繰り返し、いよいよ明後日の本番を迎えるのだ。

「他の先輩、もうほとんど諦めてたもんな。険悪なムードになってたし。そこをどうにかして立て直したんだから、立派だよ。頑張った雪絵だからこそできたことなんだろうな。お前がそんなに頑張り屋だったなんて、全然知らなかった。感心したな。ちょっと尊敬しちゃったかも」

「えへへっ。そんなことないです。みんなが頑張ってくれたからです。もちろん、圭くんもです」

 台詞とは裏腹に、満更でもない表情。

 雪絵が下っていた階段で、残り二段を小さくジャンプして三階に到着。体操選手のように両腕を広げた。スカートがふわりと浮かぶ。

「絶対さみ先輩に、いいお芝居見せてあげなくちゃです。わたしたち、さみ先輩の分まで一所懸命頑張りましたって、胸を張って言いたいです」

「部長さん、来れそうなのか?」

「はい!」

 今日一番の元気な返事。

「そのためにも、まだまだ練習です。早く部室に戻るです。時間がもったいないです。急ぐです」

「へいへい、そうですか。こうなったらとことん付き合うしかないみたいだな」

 半分投げ槍のようで、けれどもう半分は心の底から真剣に言い放ち、圭一郎は部室に戻ってきた。

 旧校舎三階の一番東に位置する演劇部部室。さきほどまでいた音楽準備室の真下に位置する。中には多くの段ボールや机や椅子が乱雑していて、床には今度使う衣装や大きな布が散乱する、潔癖症の人間からすれば見るに耐えない状態だろう。それは圭一郎が初めてこの部屋を訪れたときから変わることはない。

 窓の外に目を向けると、この旧校舎からは新校舎から南門へとつづく桜並木が遠くてよく見えないが、すぐ前に広がる第二グラウンドは特等席で眺められる。大勢の紺色のユニホームを着たソフトボール部が練習していて、隅に二面あるハンドボールコートはもう練習が終わったのか、誰の姿も見当たらなかった。

 空は、そろそろ茜色に染まりつつある。

 空気は、春という季節そのものを表しているかのように暖かいもの。

 包まれる空気に触れていると、それだけのことを頬が少し緩んでいた。

「で、雪絵さ、今日はあとどれぐらい練習するつもりなんだ?」

「そんなの決まってるです。みんなが納得するまでです」

 即答だった。まるで返答が決まっていたように。

「さみ先輩に胸を張って見せられるようになるまで、徹底的に練習です。少しのやり残しのないようにしたいです。もう練習して練習して、それでもまた練習です」

「……お前、どこまでいっても納得してくれそうにない気がするけど」

「明日は体育館で合同の予行演習がありますから、あまり練習はできないです。ですから、もう今日しかないです。ここから気合入れていくです」

「あ、そうなんだ。今までも充分気合入ってたと思うけどな、おれは……」

 圭一郎は右隣に立つ雪絵とは反対側に顔を向け、少しだけ渋い表情。

「しかし、あれだな……これはきっとお前に感化されてるんだろうな、先輩たちも、随分とやる気になってるみたいで。おれが最初見たときは、ほとんど諦めかけてたっていうのに」

 現在部室には、雪絵以外の演劇部部員三名いる。

 今度の劇でヒロイン役をする三年生の麻生あそう愛羅あいら。小柄で、立って並ぶと圭一郎の胸ぐらいまでしかなく、圭一郎が抱きしめたら、すっぽり腕に収まりそう。肩まで髪を左だけピンでとめていて、演技のとき以外は、印象のいい言い方をすると活発的に動き回り、そうでない言い方をすると物凄く落ち着きがない。まるで忙しなく動き回る小動物を思わせる高校三年生。

 もう一人の三年生が、藤谷ふじたに由花ゆか。百六十センチの雪絵とほとんど身長は変わらないが、横幅が広いというか、耳障りのいい言い方をするぽっちゃりしている。容姿からその行動が想像つくぐらい、だいたい気がつくといつもお菓子の袋を開けているという、お茶目な一面があった。今も口には棒つきの飴を銜えている。明後日の劇では主人公を導く異世界人役。主人公とヒロインをつなぐ役で、その演技によって劇の善し悪しが決定する重要なポジション。

 そして窓側で台本を入念にチェックしているのが、山下やました真知子まちこ。圭一郎と同じ二年生。後ろで縛った髪は肩まで達していて、目がおっとりと横に垂れている特徴。同じ学年ということで雪絵とは仲がよく、同じクラスでいつも弁当を一緒に食べている間柄。今度の劇では裏方の照明を担当しており、演劇そのものに登場しない。本人は引っ込み思案の性格であるらしく、率先して裏方を引き受けているのだった。

「みなさん、さっきの練習はどうでしたか? おれ、初めてピアノで合わせてみましたから。うまくいったような、うまくいかなかったような、ですかね? やっぱり演劇について、おれにはよく分からないですが。どうでしたか?」

「あ、圭しーだ。あっしーの演技どうだった? そりゃもう感動もんだったでしょ。泣きたかったら、お姉さんの胸で泣いてもいいんだよ? きゃははは。おっと、圭しー、本気になったら火傷するぜ」

「ああ、圭一郎君! 私の登場する場面、最初の場面ね。あそこ、もうちょっと音を強くして迫力出してちょうだい。こう、ばばーんっ! と。突然きたーっ! みたいな感じでお願いね」

「はあ……」

 部室に戻ったばかりの圭一郎に対し、ヒロイン役の愛羅と異世界人役の由花が、ほぼ同時に声を返してきた。どうしても顔を見たらまず最初に言っておきたかったのだろう。

 照明係を担当する真知子はまだ窓側で台本と格闘している。真知子だけは体育館で行われる合同練習の明日まで練習することができない。そのために今からイメージトレーニング。表情に余裕の色はなかった。

「とにかく、みなさん! 明日が体育館での予行演習で、明後日はいよいよ本番ですからね。悔いが残らないように、しっかり練習しましょうね、って隣の部長代理が言ってます」

「わ、わたしですぅ!?」

 雪絵が双眸を大きくさせたびっくりした表情で自分を指差す。不意に振られて、おろおろと所在なさそうに顔をあらぬ方向に振っていた。

「あ……あ、は、はい。そうです。圭くんの言う通りです。明後日はさみ先輩が見に来てくれるです。さみ先輩がいなくても、わたしたちがしっかりできるとこ、見せてあげたいです」

 胸の前、両の拳を力いっぱい握りしめて、自分で自分に気合を入れる。

「みなさん、頑張るです!」

 興奮したように顔を赤らめ、握った拳を天井目がけて振り上げた。物凄い力の入れようで。

「えへへっ」

「随分と気合が入ってるんだな。まっ、飛び入りのおれなんか失敗したってどってことないけど。演劇部じゃないし。その分はプレッシャーないんだよね」

「あーっ! 圭くん、そんな無責任さは困るです。ちゃんと責任を持って、舞台に立ってもらいたいです」

 雪絵の頬がぷぅーと膨らんでいる。その目は鋭くなった。

「もう圭くんは演劇部の一員、みたいなものです。というより、今からでも入部届を書いてほしいです。ほんと、しっかりしてほしいです」

「はは、冗談だよ。冗談だってば。あはは……いや、だから、そんな真剣に睨むのやめてくれ。入部届は書かないけど」

 目が血走っている雪絵に、苦笑するしかない圭一郎。

「で、今日はまた一通り練習するのか? さすがに最初から通すってのは、もういいんじゃないか?」

「いえ、最初からです。確認すべきところはたくさんあるです」

「……さすがに鬼だね」

 その呟きは、相手には決して聞こえないように制御されたもの。

「じゃあ、いつでもいいから。どーんとこい、どーんと」

 半ばやけくそのように言い放ち、圭一郎は黒板近くにあるシンセサイザーの前へ。今日までずっとそれで演技に音を合わせてきた。

「じゃあ、オープニング、いくぞ」

 圭一郎の指が鍵盤に走ると、重低音が部室全体に轟く。まるで地の底から徐々に見えない何か不気味なものが湧き上がってくるような、まがまがしい曲。

「…………」

 圭一郎の目の前、最初の主人公のシーンがはじまると、鍵盤から手を離して雪絵のことを見つめる。

 圭一郎の視線の先、雪絵は天に向かって自らの死を嘆く演技。それが、劇のはじまりだった。


       ※


 四月九日、金曜日。

「やっぱり、無理じゃない?」

 午後二時。旧校舎三階の一番東側にある演劇部部室に、丘ノ崎圭一郎は制服の紺色ブレザー姿。体育館ではすでに新入生歓迎会がはじまっており、演劇部はもうすぐ本番。圭一郎は演者ではないので衣装は用意されていない。制服姿のまま舞台に立つ予定である。

「無理しない方がいいんじゃない?」

「そ、そんなこと、ない、です……」

 衣装である全身をすっぽりと覆う黒いローブに包まれた永井雪絵。その顔はほんのりと赤みがかかっていた。

「昨日と比べると、だいぶ、熱は引いてるです。だから、大丈夫です。やれるです。できるです」

 雪絵は赤い顔で、ぎこちなく微笑む。

 雪絵は、昨日の予行演習のときから熱っぽかった。部長不在を補うためと、劇を成功させるため、ずっと気を張り詰めてきた影響が出たのかもしれない。体温が上昇し、それは薬を飲んでも下がらなかった。

 そんな雪絵の体調を考慮し、昨日は体育館での予行演習以後、予定していた練習を回避してすぐに解散した。

 けれど、本番当日になっても、雪絵の熱が下がることはなく、顔は赤いまま。

「もう、ばっちり、演じ上げてみせるです。見ててくださいです。えへへっ」

「えへへっじゃなくて、無理するんじゃないっての」

「無理、じゃないです。本当に大丈夫なんです。昨日よりは調子いいんです」

「でもよ……」

「みんなで一所懸命頑張ってきたんです。圭くんにだってお手伝いしてもらってるです。それなのに、わたしのせいで劇ができないなんて、そんなの駄目です。今日はさみ先輩に、わたしたちのこと、見てもらうんです」

「…………」

 圭一郎には、無理して笑顔を作りつづける雪絵の表情が、昨日より悪化しているように見えて仕方なかった。

「…………」

 けれど、雪絵の症状が悪化しているように見えたところで、圭一郎には止めることはできない。それは今日までの頑張りを間近で目の当たりにしてきたから。

 やるしかない。

「……まっ、中止しろって方が無理か。お前はそんなやつじゃないだろうから」

「はい」

「なら、できるだけ頑張れ。最後まで、頑張れ。絶対最後までやり切って、幕が下りてきたらさ、おれが担いででも保健室に運んでやるから。だから、これでもかってぐらい気を張って、舞台の上では役を演じきるんだぞ」

「はい」

「絶対に舞台上で倒れるんじゃないぞ」

「はい」

「よし」

 熱のせいか顔を赤らめ、普段よりもどこか惚けている感のある雪絵に気合を入れたいが、相手の頬を叩くわけにはいかない。だから圭一郎は自分の頬をぱんぱんっ! と両手で二回叩き、二人分の気合を注入した。

「…………」

「おーい、圭しー、そろそろ時間みたいだよー。体育館に移動しないとー。雪しーも急いでねー。いよいよ本番だよー。張り切っちゃおうねー」

「あ、分かりました。すぐ移動します」

 ヒロイン役の麻生愛顧は、衣装である白いワンピース姿で部室から廊下へと出ていった。そこに右手を上げて応え、圭一郎はもう一度雪絵の顔を見つめる。

「時間だ。いくぞ、雪絵」

「はい」

「頑張れよ!」

 椅子に座っていた雪絵に手を差し出し、全身を包む黒いローブから出ている白い手を引っ張り上げる。

 そうして手をつないだまま旧校舎三階の部室を後にした。

 新入生歓迎会が行われている体育館に向かうために。

 これまで積み重ねてきた稽古を披露すべく。

 光が舞うあの舞台へ。


 午後六時。

「…………」

 城我浦高等学校の新校舎である南棟一階には、保健室がある。棚には薬品の入ったビンがたくさん並べられており、健康診断で使用する身長と体重を同時に計測できる装置や、カーテンで仕切られたベッドがあった。

「……っ」

 目覚めたとき、雪絵はそのベッドの上。

「……圭くん」

 目を開けたとき、まず碁盤状に筋がある白い天井が見えた。小さな染みが所々にある。と思ったら、そこに、こちらの顔を覗き込む圭一郎の顔。それもかなりの至近距離。

「……あっ、今、わたしにキスしようとしてたです」

「まったくしてないけど」

 即答。その返事を口にするのに微塵の照れも動揺もなく、問われた内容の発想など最初からまるでかけらもなかったみたいに。

「まったくさ、ほんとに倒れることないだろ? 覚えてる、本番終わった直後に、お前倒れたんだぜ? 焦ったよ。糸が切れた人形みたいにさ、膝から崩れていくようにして、ばたんっ! だもんなー。びっくりしたー」

「……えへへっ。そう、なんです? わたし、あそこで倒れちゃったんです? おかしいです、最後までしっかりしてる予定だったです」

「大丈夫だ、劇は最後までばっちりだった。で、幕が下がって、どうせ気を抜いたんだろ、お前。その辺が甘いよなー。おかげでお前のこと、ここまで担いでこないといけなかったんだから。おれが。おれがな。おれがだぞ」

「えへへっ……それは、約束通りです。よかったです。見捨てられたら、圭くんのこと、一生恨むところだったです。よかったです」

「よくないっての」

 呆れるようにぼやいていた。

「だから無理するなってあれほど言ったのによ、まったく、お前ときたら……」

「……ごめんなさいです」

「でも、まっ、ちゃんと演じきったな。立派だったよ。雪絵ってさ、結構根性あるんだな。見直した」

「見直すの、遅いです。この風格から、もっと前に気づいていてほしかったです」

 一瞬だけ胸を張り……雪絵の視線が暗くなった窓の外へ。

「それで、圭くん。あの、その……わ、わたし、の……その、えっと……」

 赤い顔がさらに色を増す。

「その……演技、どうだったです?」

「よかったよ」

 これまた即答だった。それ以外の返事は存在しないみたいに。

「最後にさ、みんなで手つないで歌ってたとき、おれまで感動して涙流しそうになったぐらいだ。おれがそうだったんだから、きっと見てくれた人には感激の嵐だったに違いない。拍手なんて凄かったもん。体育館が揺れてるのかと思った」

「その……さ、さみ先輩は? 来てくれてたです?」

「ああ。まだ松葉杖ついてたけど、結構元気そうだったな。あの人、きれいな人だな。あんな先輩がいたなんて、知らなかった。高校生活を損してたかもしれないな」

「はい、さみ先輩はとってもきれいです。それでそれで、その、さみ先輩は、その……わたしたちの、その……」

「んっ? ああ、劇もよかったって。感動したってさ」

「あー、よかったですぅ」

 横たわっているのに、さらに力が抜けてそのまま上半身がベッドに沈んでいくほど、雪絵は気の抜ける大きな安堵の息を漏らす。

 雪絵は入院している桑原麻美のために今日まで頑張ってきた。部長である麻美に合格点をもらうために。それを麻美に認めてもらえたのだ。褒めてもらえたのだ。もう最高の気持ち。大げさにいえば、死んでもよかった。

 だから今は、自分の体調が優れないことも、自分が劇を演じきった達成感も頭になく、ただ一言、麻美に『よかった』と言ってもらえたことが嬉しくて仕方がない。歓喜が胸の奥底で花火のように爆発している。

「よかったですよかったです。本当によかったです。これも全部、圭くんのおかげです。ありがとうです」

「礼なんていいって。おれも結構楽しかったからさ。あんな風にピアノ弾いたの、新鮮だったから」

 真っ直ぐな視線で礼を入れたことになんだか妙な照れが生じて、圭一郎の顔も赤らんできた。誤魔化すように頬をぽりぽりっ掻き、どうすればいいか分からずに視線を窓に移す。

 窓の外は暗かった。壁にかけられている時計を目にすると、午後六時十五分を少し回ったところ。

「うわ、もうこんな時間か。そろそろ帰らないといけないな。あ、そうだ、先生も呼んでこないといけないんだった」

「みんなはもう帰ったです?」

「んっ? ああ、さっきまではいたんだけど、帰ったよ。あんまり大勢でいるのもなんだからって」

「……圭くんは帰らなかったです?」

「んっ!?」

 目が点になる。

「ああ、えーとだな、それは、だな、なんというか、お前のこと、を、その、押しつけられたんだよ。そう、押しつけられたんだ。うんうん」

「それはご苦労さまです」

「ああ。ご苦労しました」

 圭一郎は、決して相手に見えない角度で吐息を漏らした。

「先生、呼んでくるよ。まだ寝てていいぞ。車で送ってもらえるそうだから。ラッキーだな」

「はい、ラッキーです」

「でさ、その……」

 圭一郎は視線を逸らしたまま。雪絵の顔を直視できない。

「その、お願いがあるんだけど……」

 さっきまではっきりとしていた口調がここにきて急に鈍くなり、語尾は萎んでいくよう。

「あのさ、その……よ、よければ、なんだけど、さ……」

「圭くんは命の恩人です。命の恩人のお願いだったら、聞かないわけにはいかないです。何です?」

「随分と大げさな……」

 緊張のあまり、圭一郎の額に大粒の汗が浮かぶ。

「まだここで寝てていいんだぞ。無理するなよ」

「はい」

「でさ、その……寝ちゃう前にさ、その、キスしていいか?」

「んっ……?」

「キスしてもいいか?」

「…………」

 雪絵の瞳が大きくなり、ぱちぱちぱちぱちっと瞬きを繰り返す。

「キ、ス、です?」

「ああ、そうだよ。何度も言わせるな。恥ずかしいやつだな」

 さらに赤面。

「……どうなんだよ?」

「キス、です……」

 雪絵は、体温の上昇を感じながら、反射的にかけ布団を口元まで引き上げた。それにより、口元は布団に隠れる。

 雪絵は視線を暗くなった窓の外へ。

「……圭くんは命の恩人です。今のは命の恩人のお願いです。だったら、聞かないわけにはいかないです。さっきそう口にしちゃったです。口にしちゃったものはもう撤回できないです」

「べ、別に、恩人とかって、そんな恩着せがましいことは言わないけど……お前がさっきキスがどうしたって言ってただろ? 目が覚めたときに。そう思ったら、だな、なんとなくだな、その……」

「してもいいです」

「……いやならいいぞ」

「してほしいです」

「……文句言うなよ」

「言わないです」

「そう」

 暗闇に閉ざされた世界に煌々と灯る保健室の照明に照らされながら、一人の少年と一人の少女の唇が重なり合う。

 それはまだ、暖かな空気に包まれた春のこと。

 幸せが満ち溢れた世界において。

 その時空は、二人にとってかけがえのない輝きに満ちていた。


       ※


 横たわっている。

 存在そのものが壊れそうなほど激しい苦痛に苛まれながら、永井雪絵は横たわっている。

 自身を襲う激痛のあまり、すぐにでも遠のく意識は実に弱々しいもの。

 消えそうな瞳の隅には、桑原麻美の姿があった。

 麻美が、雪絵のことを見下ろしている。

 見えていたものが見えなくなってきた。雪絵の視界が徐々に狭まっていき、まともに意識を保っていられない。

 あまりにも狭い雪絵の視界、そこに映っている人物の表情が、僅かに緩んでいくのが分かった。まるで愉快なものを目の当たりにしたかのように、今は雪絵のことを見下ろしている。

 直後に目の前が真っ暗になったかと思うと同時に、糸が切れるように気を失った。

 気を失う寸前、その目は見た光景を脳裏に焼きつけて。

 雪絵は、あらゆるすべての力をなくす。

 それは暑い夏の日のこと。

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