第2話 共有の本能。

さっそく舞台と関係ない話をする。ねずみは舞台をみにいくが舞台をみるだけで生きてはいけない。私は凡人だし社会性動物としての振舞いは平凡にもやや足りていない。経歴とか。才能とは執着することだ。


さて。人間には心理的距離なるものがあるという。相手との関係に応じて心地よいと感じる距離が変わるというやつだ。座る位置と相手に与える印象、みたいなのが好きな人はたぶんこれも好き。まあともかく、それによると一般的な(特に親密でない)大人どうしの適正距離は1.2m~3.6mなのだそうだ。セクシャルなタッチはうっかり程度の作為では起こり得なさそうで、そういう意味でも適正だと思う。

ここで仕事の話をする。職場でふだん私の取る距離はこれよりだいぶ短い。1mはやや遠く2mは「みんな」に向けて話す距離だ。だいたいの会話は半径50cm内に相手の顔がある。手を伸ばせば(なんなら伸ばさなくても)肩なんか余裕で掴めてしまう。うっかりするともっと近いし子供は興奮すると前のめりになるから、そういう一対一の会話はなんとかバウアーの練習さながらのけぞって話をする羽目になる。お客(厳密には客ではないのだが)の多くが大人ではないことも多分に関係していると思うが、この業界の人間どうしもやたらと距離が近いので、だいたいそんなものなんだろうと思う。端から見ててわかるくらい、自他境界ゆるい人間も公私の境が消失してる人間も多いし。端からみるしかできないのが足りてない社交性だと自覚はあるものの自分の意思とその場の空気の違いをなくしてどろどろに溶けたあの何かの内に入りたいとはどうも思えない。ひとりくらい私みたいのがいると居所のないお客は息ができるだろうと思うが明らかな異分子なのを隠せていないことでもあり、つまるところ職種に性質が向いていない。

ええと。そう安心。

まあそんな感じで自分の尻は自分で拭くをモットーに仕事をしている。そのおかげで職場内ではパソコンに強い(強くはないググるだけだ)らしい生き物として存在しているだけだが集団の渦が息苦しくていられないお客に止まり木よろしく使われることがいつの間にか増えている。まあそれ含めて仕事だと思っているので(浮き輪のつもりで矯正器具をはめる人間も多い業界だが)彼らが生きやすくなるならいいんだけど。例によって私も自他境界やら健全な精神やらがのびのび育まれたとはいいがたく仕事を始めた頃はうっかり引きずられもしたが、最近はにょいにょい話を聞きながら機を見て馴染めそうなグループなりカウンセラーなりに繋ぐ生き物と化している。

ところでヒトの脳は基本的にサンプル数が多いほど細かな違いを識別できるようにできていて、その識別は顔つきや表情にも適用される。日本人顔は細かな差異にも気が付くが別の国の人はみんな同じ顔に見えるあれだ。付き合いの長い相手ほど小さなことにも気が付く(今日は調子が悪そうだ、とか)のもこのシステムによるものだ。

このあいだ大人を中心に相手取る業務があった。全体業務に加えて目当ての人がいて、ちょっと声を掛けたのだがこれはまずいなという感じだった。弱っていてこちらに身構えている人間というのはなんというか独特で、輪郭が僅かに白っぽく見えるような雰囲気がある。たぶんもっと抽象的で一般的な形容動詞があるのだろうが、出てこないので五感に頼るしかできない。ほっとくわけにもいかないが業務のほうも代替きかないし、軽く話してからイベントの後にも会いましょうとだけ取り付けて離れた。まずいなと思いながら仕事をして、結論から言うと(この業界の人はこれをよく使う。話が長いので。)帰りに会ったその人は別人かと思うほど明るくなっていた。

頭からお尻までいたので断言するが今回のイベントにそんな要素は欠片もない。睡眠不足の人には効果的だったかもしれないくらいだ。なんだなんだと思いながら話を聞いていたらどうもこの方、イベントの最中にお話をしていたらしい。そして友達になったらしい。悩んでいたことを共有する相手ができてすっきりしたらしい。

それじゃあ、と言って彼は新しい友達と帰っていった。おそらく彼は一番の悩みを私に話すことはないだろう。たぶん彼にとってはそのほうが良い。同じ場にいるだけの所属の違う人間に、つまり関係が深まる可能性が決してない人間にしか話せない悩みがあるより。世の中には他人だからこそ深く話せる人もいるがそうでない人もやっぱり多くいて(というか関係がない人にしか話せないのを寂しいと捉える人間が多くいて)、彼は後者のように見えた。

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