なめらかな明け方【NHK 「Rの法則」 コラボ短編】

水瀬 彗

なめらかな明け方

ソファーの上でクッションを抱いて、ひたすらドアを見つめていた。


暗い、荒れた部屋の中で、時計の秒針の音だけが鳴りひびいている。カチ、カチと音をたてるたび、自分をおいつめる気持ちと彼にすべてをなすりつけたくなる思いとが交互に起きては消えていく。


「どうしてわたしのこと、わかってくれないの」


そう叫んだ自分の姿を思い返して、唇を噛んだ。

きっかけは些細なことだった。疲れている彼に、ただ、優しくしてほしかっただけなのに、少しふざけて戯れあいにいっただけなのに、言い合いから怒鳴り合い、怒鳴り合いから物の投げ合いに発展した。


気づけば一緒に暮らし始めて半年が経っているのだ。もうただの初々しいカップルというだけでは居られない。

わざわざご丁寧に部屋の電気まで消して、彼はこの家から出ていった。

もう帰ってこないかもしれないという状況の中で、嫌に落ち着いている自分は、気味が悪かった。


彼への想いは、日々の生活で一緒にごみを捨てたり物を消費したりするなかで、なくなっていってしまっていたのだろうか。

この部屋はわたしひとりのものになるのだろうか。

荷物はもう取りにすらこないのだろうか。

お揃いのものや、プレゼントされたものは、どうやったら処分できるだろうか。


疑問は、身体中を駆けめぐって水分へと変化し、目からこぼれた。途切れない疑問のせいでだらしなく水を出しつづけて、いつの間にか吸い込まれるような夜と、わたしは同化していった。


***


なにか温かいものに包まれた気がして、目を開くと、わたしはピンク色の塊になっていた。体を動かすと、ピンク色の表皮はぺろりと剥がれおちて、それが毛布だったのだと気がつく。


「いっちゃん。昨日、ごめんね」


聞き慣れた声は耳にとても優しくて、わたしの口からも同じ言葉を発させた。


「まだ朝の五時だけど」


そう言いながら彼は冷蔵庫から小ぶりの白い箱を取り出して、わたしのほうを見て微笑む。ぱたん、と閉められた扉の音にも、優しさが込められていた。


「これ、一緒に食べる?」


わたしの隣に腰掛けて、プリンだよ、といった彼の目をじっと見つめていると、どうしたのと笑われた。

「いっちゃん、これ好きでしょ」と言われると、わたしは声の出し方も忘れて、鼻の奥から うん と音を出すので精一杯だった。


彼が買ってきてくれたプリンは、艶やかで、甘ったるい香りがする。

決して高いものではないけれど、少し安そうなそのかんじが、なんだかわたしたちに似ていた。


「いっちゃん。お皿に出してあげようか」

「ううん。いいの。カラメルは最後に食べたほうが、なんとなく幸せでしょう」


そっか、と言って、彼は皿に自分のプリンを出してスプーンでカラメルの部分を掬いはじめた。同じように、薄黄色のプリンを掬って口にすべらせる。

口中から身体中へとなめらかな感触が広がって、おいしい、と目尻が下がった。

ソファーに横並びでふたり、無言でプリンを食べ続けるうち、始めは強張っていた身体も徐々に力が抜けていった。

昨日、彼が出ていった直後のような嫌な沈黙とは違う。これは平穏な日常の中に必要な静けさだった。


最後の一口、と言って、底に溜まったカラメルをわたしはスプーン一杯にして、彼の口元に運ぶ。


「そこ、一番好きな部分じゃないの」

「愛情の新しいかたちだと思って受けとってよ」


彼がスプーンを口に含んでカラメルをすべて味わいおわる頃、カーテンの隙間からは朝の光が差し込んでいた。

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