>Ⅲ
終業時間になると、祐美は約束があると言ってそそくさと帰っていった。どうやら彼氏に会うのだろうと思いながら、そんな約束もないあたしはなるべく仕事を進めておこうとしばらく残った。
先輩たちが「そこそこにな」と声をかけてくれつつちらほら帰り始めても、あたしはもう少し、と思って集中力を高めようとコーヒーを淹れ、再度デスクに向かう前に休憩スペースでスマホの画面をつける。通知があるのは大体DMで、個人的な連絡はない。もちろん柊哉からもだ。そこであたしは、昼間の会話の影響か、昨夜のワイングラス破損の影響か、塔矢にメッセージをすることを決めた。
“今夜、少し声聞ける?”
そんな超単純な、メッセージ。無理なことはわかっている。けれど、もし少しでも隙間があるなら彼の望んだ当たり前の日常の中の、ちょっとしたスパイスになっているあたしとの時間ではなく、そっち側に行ってみたくなっていたのだ。彼の日常にあたしはいない。でも、そうなっている未来を少しでも想像してしまうと、それ自体が幻なのに、叶えられない立場にいないことも自覚して我儘になってしまう。そんな自分のことは少し嫌いだった。
あたしは、そんな絡みついた思いを断ち切るようにスマホをスキニーのポケットにねじ込んで、少しだけ口をつけたコーヒーを持ってデスクに戻る。ポケットにしまったスマホを取り出してデスク上の充電器に繋いで、目に入らないところに隠す。ハンカチの上に置いてバイブにも気づかないように封じてしまう。
さっき一度抱いてしまった自分の中の黒いものを浄化させたいと願いつつ、目の前の仕事に没頭する。
しばらくして気付いたら、コーヒも底をついていた。時間ももう夜の9時半だ。
パソコンの画面に集中して姿勢を変えていない体が、まるで形状記憶されていたかのように固くなっていたのでえ、ナカガイ睡眠から目覚めた時のように無理矢理に動かして背伸びをする。関節という関節が開いて血が思いきり脳天まで、ぐわり、と登って行くような感覚。冴えてくるけど、集中力は悲鳴をあげている気もした。
「頑張るねぇ、賀喜ちゃん」
不意に声をかけられた。制作部の上司の山南さんだ。あたしの10歳上の男性である。まだ居たんだ。
「お疲れ様。まだやるの?」
「お疲れ様です。あとは事後処理して、今日は終わりですかね」
「あんまり根詰めると、作業はできるけどアイディアの方が詰まっちゃうよ。今の進行なら余裕で間に合うから、無理はしないでおけな」
「はい。わかってます。でも、ありがとうございます。山南さんは終わりました?」
「うん。今日はおしまい。どうせ明日も出るし」
「土曜なのに?」
「代理店が動くらしいから、俺くらいは出ないとね。まあ、半日程度なんで」
「本当お疲れ様です」
「いやいや、ありがとう。この納品終わったら、また打ち上げようぜー」
「はい。ぜひ」
気に入ってくれてる上司だ。何回か食事に誘ってもらって行ったけど、この人の話は勉強になる部分も多くて、上司との飲み会っていうカテゴリーの中で楽しい方に入るだろう。
「じゃあな」
「はい、お疲れ様でした」
「ん、お疲れー」
そんな会話をするのは、定時退勤だとなかなかない。残っているとこういうコミュニケーションも取れたりするし、仕事も進むし悪くない。山南さんの気遣いに、少しあったまったような気がする。
フロアを眺めてみると、まだ別チームのメンバーが大挙して残っていた。知り合いの多いチームだった。納期直前の追い込みかな。
あたしも片付けて帰ろう、と思い、全てのファイルを保存して終了、メールチェックして3通ほど返信を終えて、シャットダウンする。コーヒーの入っていたからになった紙コップを共有のゴミ箱に放ったところで、思いだす。
自分のスマホの画面を見るのが怖い。
先ほどのメッセージの送信から二時間以上経過している。通知を見るのが恐怖だったから、充電ケーブルを抜いてお腹いっぱいになったスマホの画面は見ずにまたしてもスキニーのポケットにイン。ここで見たらダメそう。
追い込んでいるであろうチームに挨拶して、あたしは会社を出た。駅まではゆっくり歩いても10分ほど。サクサクければ5分で着く。
そういえばスマホと違って空腹になってしまっていることに気づいた。思ったよりも昼のランチは消化が早かったなと思う。
自宅の最寄り駅までは30分ほどある。先に食べてから乗るか、着いてから買って帰るか。と、悩んだその瞬間。
あたしは車道を挟んで反対側の道を歩く人たちの列にふい、と視線を送った。何か反射的に気になった。
すると、そこに、あたしが顔しか知らない女性と腕を組んで歩く柊哉がいる。進行方向は逆だ。
一瞬で食事のことなど頭から消え去る。そこで震え始めた四肢。その手が自然とポケットに伸びてスマホの画面のバックライトを点灯させた。顔認証で強制的にメッセージアプリの通知詳細ー内容がふわりと行っていい優しい印象のアニメーションで表示される。
17分前。
柊哉。
“ごめん。今日は無理だな”
走り出したくなるけど、不都合か好都合か、人混み。金曜の22時前の街は、突然あたしを人の檻に閉じ込めて、逃がしてくれない気がしてしまう。とりあえず立ち尽くすわけにはいかない。前に進むだけの気力だけ取り戻して、あたしは踏み出した。
頭の中は言葉を失う。
あんなにはっきり、あたしが、堕とされた人間であることを自覚したことはない。
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