第五章
火星のマリナー市はマリネリス峡谷の底、深さ八千メートルに位置している。峡谷の南北両岸から渡された透明な天蓋が頭上を覆い、市は全域において特別な装備を必要としないで生活できるようになっている。
その火星最大の都市に、青い夕日が差す。それに合わせるように街灯が次々と点灯し、辺りの光景をオレンジ色に染め上げていく。青い光を街灯で補うことで、人工的に地球の夕日を再現しているのだ。
「七千五百万キロと離れていても、自分たちの故郷を再現することに余念が無い」
道路沿いのカフェテラスで、三人掛けの席に座る男女がいた。男の方は三十代後半の白人。ハーフフレームの眼鏡の奥に碧眼が覗いている。ガッチリとした体型をハーフパンツとアロハで包み、リゾート地の観光客のようだ。
「青い夕日は何かと不便ですから」
女の方はセルフレームの眼鏡をかけ、白いスーツを決めている。とても連れ合いとは思えない、バランスの悪さだった。
「どうでも良いですけど、ジェイ。そのアロハはなんですか」
「僕の好みだよ、ソフィア」
「よほど、この間のバカンスを潰されたのが気に入らないのですね」
「それもある。この衣装データを頼んだとき、室長はどんな顔してた?」
「特段、変わった様子はありませんでした」
「官僚だな」
ジェイは鼻で笑った。
「ところでいま何時だ」
「午後四時五十分ですが」
ソフィアが空で答える。
「ここに来て早二十分か。さすがにコーヒーの一つも飲まないと怪しまれるな」
「場所にそぐわない格好をしていて、何をいまさら言うんですか」
『その女の言うとおりだな』
ジェイとソフィアが顔を見合わせた。
「……混線か?」
「いえ。通話にインターセプトされています。論理アドレスを照合中」
『その必要はない』
ジェイの後ろを掠めるように、声の主がふらりと現れた。
身長百八十センチ以上はある長身の女。目深に被ったキャップの縁から、人工的な夕日に似通ったオレンジの髪が覗いている。濃い色のサングラスが、表情や考えている事の察知を拒んでいた。
「ル・ア。僕らはビジネスパートナーだろ? 信用をもって接して欲しいな」
「商取引が信用の上に成り立つという考え方はお前達の習慣だ」
ル・アは空いている椅子を引いて座ると、サングラスを取り外した。
墨をこぼしたかのように黒い眼が、ジェイを睨んだ。だが、その眼に感情が見て取れない。白目が無いのだ。地球人に似せて作られた顔貌でありながら、人の温かみが感じられない視線にジェイは気味が悪くなった。
「そして」
ル・アはテーブルの下をまさぐり、何かを引きずり出した。五センチ角のホログラム・プロジェクターだった。
「呼び出しておいて、クライアントが本人不在とは心証が悪いぞ」
ジェイとソフィアはばつが悪そうに顔を見合わせると、話を切り出した。
「内偵がどれだけ大変か分かるだろう。確かにこの姿はホログラムだ。だが声は違う。協会の勢力圏の奥深くから、いくつもの無人偵察機や民間中継器を通して暗号化し、生放送しているんだぞ」
「難儀だな」
「そう感じるのなら、僕が侵している危険も分かるはずだ。それが誠意だ」
ル・アは瞬きした。ジェイとソフィアを交互に見やっているようだ。しばしの沈黙のあと、彼女はテーブルの上にプロジェクターをコツンと置いた。
「用件はなんだ」
秘書が小さくため息をついた。
「こちらに進展があってね」
ジェイが座り直した。しかし椅子は鳴かない。
「協会がプリカーサーの遺構へのアクセス方法を見つけた」
ル・アの眼に、初めて感情の揺らぎが現れた。
「驚いているな。深宇宙から流れてきた君と初めて出会ったとき、唯一共有できた話題だからな」
「我々ですら情報端末の電源も入れられなかったのに、どうやって」
「誰しも、機械的な問題だと捉えていた。故障とか、エネルギー源だとか。それが間違いだった。問題があったのは操作者の体だったようだ」
都市に午後五時の時報が響いた。街灯で彩られていた景色が僅かに暗くなり、天蓋の上を丸く扁平な機械が動き始めた。一日中降下してくる塵を除去するためのロボットである。
ジェイは話を続けた。
「プリカーサーの機械は、操作者を機械の一部として取り扱うらしい。例えば、計器に触れれば、その情報が直接脳の視覚野に送られる。コンピュータの映像端子に指を突っ込むと、その人がディスプレイになるという事だ。彼らの機械はその設計思想に基づいて作られている」
「犬猫がハサミを使えないのと同じか」
「その通りだが、地球人みたいな例えだな」
ジェイは目を丸くした。
「お前達の文明程度に合わせているだけだ。――それで? まさか絶滅した種族をよみがえらせたとでもいうのか」
「いや。彼らによって創造され、隷属していた種族を再発見したんだ。以前より、自然発生した種族にしては遺伝子が単純で、操作がしやすいというのは指摘されていた。だから協会のビジネスの標的になって研究が進み、今回の発見につながった」
ル・アは背もたれに寄りかかり、天蓋を舐めるように動くロボットを見やった。
「今の任務よりそちらのほうが重要だな」
「ああ。だが、君らはそのままスードゥで行動を続けて欲しい」
「何故だ」
「スードゥ人こそ、プリカーサーによって創造された人工生命体だからだ」
ル・アの黒い、大きな瞳がジェイのほうへ向いた。先ほどまではピンホールのように小さかった瞳孔が広がっている。光の加減で瞳の色が黒一色ではなく、紫や青などの光沢を見せる。
「スードゥ人の雛形はプリカーサー自身だ。体の主要臓器のいくつかから、古い遺伝子コードが見つかった。それを認識する事でプリカーサーテクノロジーは操作者と一体化し、システムとして機能する」
街灯の調光が白色光に変化した。太陽が完全に没し、都市に夜が訪れた。テラスの席に顔を赤らめた客が増え始めた。
「……旨そうだな。何か飲むかい?」
先ほどまで深刻な面持ちだったジェイが相好を崩した。だが、ル・アはそれをはねのけた。
「具体的に、協会はスードゥ人をどうするのだ。自分達よりも上位の文明の手綱を、隷属させているスードゥ人に握らせるつもりか」
「臓器だけにして、それを自分に移植して認証キー代わりにすれば問題は無い。――というのが、協会の最新研究だ。何人かの幹部がすでに移植術を受けて、近々テストを行う」
それを聞いたル・アが鼻で笑った。
「――ハンターとして、五百六十八世代にわたって宇宙を旅してきた」
ル・アは天蓋の向こうに広がる星空を見上げる。空港から飛び立つ夜行便が空を横切っていく。
「銀河中に遺物や伝説を残してきた神話の存在に触れる度、研究者だった我々の始祖の記憶が震えるのを感じた。そして何人かのクローンはのめり込んだ。それを端にした内紛も起きた」
夜空を見上げていたル・アがジェイに向き直った。瞳孔が極大に開き、いくつかの光沢で賑やかだった墨色の瞳は、全ての光を飲み込む黒色へと変わっていた。
「倫理など捨て去ったつもりだったが、まさか倫理を重んじる地球人に出し抜かれるとはな」
「嫌みかい」
「嫉妬だ」
「彼らの独り占めにさせたくない?」
「当然だ」
「ならこうしよう。追加報酬を出すので任務変更を行いたい。良いかな」
「構わない」
「よし。協会のVIP拉致任務はそのまま継続してほしい。加えて、協会がスードゥで行おうとしているアクセステストを襲撃し、可能なら遺構を徹底的に破壊してほしい」
ル・アが目を剥いた。
「怒るのはもっともだ。だが、我々条約監視室はテクノロジーへの妥当なアクセス方法を持たない。それを防衛・奪取するための実行力も無い。そうなったら、協会が掌握する前にこれを破壊するしかないんだ。そして、それが出来るのは君らだけだ」
ル・アは僅かにうつむいた。キャップのつばが顔を隠す。何かを考えているようだった。
「君らにとっての神話を破壊しろというのは酷だが、頼む」
「……スードゥに展開している本隊に連絡する」
短くそう言うと、ル・アは席を立った。
「話は終わった。追加分の報酬を貰おう」
「ああ。ソフィア!」
ジェイはソフィアに合図を出した。すると、ソフィアは右手をパッと開いてホログラムディスプレイを出し、何かのコマンドを打ち込んだ。
次の瞬間、三人のいるカフェテラスがある市の一角が闇に包まれた。周りの客が驚きの声を上げる。すぐに灯りが復旧したが、ジェイとソフィアは消えていた。
『追加報酬の隠し場所の座標が、プロジェクターに入っている。暗号化されているが、君なら片手間に解読できるだろう』
インターカムにジェイの声が響いた。
「ホログラムを終了させるために区画を停電させたのか? ご苦労だな」
『突然人間が二人、ふわりと消えたら目立つだろ? これが一番だ。――そろそろ回線を切らないといけない。任務の成功を祈っているよ』
耳障りなノイズが鳴り、ジェイが無線のチャンネルから離脱した。
ル・アはプロジェクターを拾い上げ、上着のポケットへとしまうとその場を後にする。道すがらインターカムの回線をつなぎ直し、独りごちるように言った。
「火星連絡員より本隊へ。緊急連絡……」
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