第三章

 薄暗い部屋で、息苦しさを感じたリョーは目覚めた。目の前には二段ベッドの天井が見えている。上からはカクイのいびきがわずかに聞こえ、自分の胸からは心臓の鼓動が聞こえてくる。


 体を起こすと、寝汗で下着まで濡れているのに気づく。どんなひどい夢を見ればこんなことになるのか、リョーは瞬間考えた。しかし、ベッド正面のテーブル上に置かれたシガレットケースを見て、彼は自分の欲求を認識するに至った。


 タバコが欲しい。


 ケースと、その傍らに置いてあるオイルライターを、めいっぱい体を伸ばして取り寄せる。ケースを開けるとタバコの香りが僅かに鼻をくすぐる。相当餓えているらしかった。


 暗がりにライターのフリントが火花を散らす。同時にオレンジ色の炎がゆらり立ち上った。炎を口先のタバコに近づけ、着火と同時に吸い込んだ。


「ゲホッ! ゲホッ!」


 久しぶりにタバコで咽せた。何年ぶりだろうか、とリョーは涙目になりながらタバコを睨み付けた。二口目を吸う。


「ゲハッ! ゲホゲホ!」


 冗談がきつい――。そう思いながら口に当てた手のひらを見やった。


「……あ?」


 血がついている。しぶきなどといえる量ではない。人差し指の付け根から手首まで、薄暗がりでも分かるほどに真っ赤に染まっている。

 次の瞬間、リョーは胸に激痛を感じた。タバコを落とし、両手で胸を押さえる。痛みは熱に変わり、あまりの事に呼吸ができない。


 助けてくれ!


 リョーは二段ベッドの上で熟睡しているカクイを呼ぼうと叫んだ。が、声は出ずに血ばかりが気管を這い上がり、口からあふれてくる。


 いやだ! 死にたくない!


「リョー! 聞こえるか!」


 景色が暗転し、くぐもった音の中にカクイの声が響く。何度か呼びかけられているうちに、視界の中心に光が差してきた。その光は景色になっていく。リョーは天井を見上げて床に倒れていた。


「……何本に見える?」


 カクイの険しい顔が見え、視界の端から彼の細い指が一本突き出された。それに対してリョーは右手の中指を一本立てて返した。


「頭は鮮明みたいだな。小学生並みだが」

「何だよこれ……」


 リョーは自分の左手につながっている点滴チューブを見た。


「君は僕にシャトルの運転を任して仮眠に入った。ニコチンパッチをせずにな」

「……で?」

「寝ている間にヤニ切れを起こし、君の頭はドーパミンを『おねしょ』したわけだ。無様な寝顔を写真に撮ってやろうと様子を見に来たら、君はベッドの上で頻拍と呼吸困難で死にかけてた。この点滴はニコチンだ」

「……マジでジャンキーだな」


 リョーは事態を把握したらしく、疲れた様子でフッと笑った。


「しばらく安静にしていろ。やっと心拍数が落ち着いてきた。血圧も降下中……」

「起こしてくれ。タバコが吸いてェ」

「やめておけ。血中のニコチンが代謝されきってない。その状態で吸ったら、ひどい目にあうぞ」


 リョーは右手を額に乗せたが、すぐに離した。体中、汗でひどいことになっていた。さしもの彼も、悪夢と体調不良で精神的にノックアウトされていた。


「一時間はそのまま寝ていろ。内線のマイクはつけっぱなしだから、何かあったら叫べ」


 カクイは立ち上がり、寝室から出て行こうとした。


「寝汗で寒ィんだが」

「汗をふけっていうのか? 残念ながら僕はそっちのケはないんでね」

「風邪ひかすつもりか。医者のくせに」

「医者だから、風邪ひかれても治せるんだよ。バカは治せないが」


 そう言い捨てると、カクイは部屋のエアコンのリモコンを投げ渡した。


「お大事に」


 一時間後。リョーは自力で点滴の針を引き抜き、シャトルのコクピットへと戻ってきた。


「――ちょうど、ワープが終わったところだ。スードゥの座標を教えてくれ」

「恒星があるだろ。そいつの第四惑星だ」

「……座標は?」

「知らね」


 カクイはわざとらしく白目を剥いて見せた。そしてレーダーを頼りに、第四惑星スードゥを探し当てると、その方向へ舵をきった。リョーはカクイの隣座席に深々と座り、すかさず一服を始めた。


「……なあカクイ」

「なんだ」

「俺の体はエイリアンの雑種になっちまったわけだが」

「ああ」

「脳みそまで雑種になったってことは――」


 何かを言い切る前に、リョーは覚悟を決めるようにタバコを一口吸った。


「今の俺は俺なのか?」


 カクイはリョーの考えていることを察し、黙っていた。

 常人と異なる世界が見え、それに干渉する力もある。それが全て脳細胞の置き換わりで生じた事なら、今考えていることや喋っていることは全て新しい細胞を経由してアウトプットされていることに他ならない。昨日、あるいは半年前までの健康な自分が、同じような考えが出来るハズもない。


「君の思っているとおり、今の君は僕が知っていた君じゃないよ」


 カクイが切り出した。黙ったままで、リョーが納得するはずもないと分かっての対応だった。


「だが大昔の人は言った。男子三日会わざれば刮目して見よってね」

「……何だよそれ」

「人は日々何らかの変化をするものだ。それだけのことだよ」

「……俺は自分が自分じゃ無くなったかもしれないってことを……」

「自分って何? 君って何だ?」


 カクイは素っ気ない顔で質問した。その真っ直ぐさに、リョーはたじろいだ。


「自信を持てよ。三つ子の魂百までって言うだろ。根っこは変わらない」


 リョーは何も聞き返さなかった。カクイもそれ以上何も言わず、操舵に集中した。

 宇宙空間に浮かぶ小惑星やデブリを避けつつ、シャトルは第四惑星へとはしる。レーダーの規則的な走査音が、次第に周期を狭めていく。目的地が近い。


「あれか」


 カクイのその言葉に、逡巡しつつタバコをくゆらせていたリョーは顔を上げた。

 前方に、半面を恒星へと向けている褐色の星が見える。第四惑星、スードゥだった。


「ランディングアプローチに入るぞ。オートパイロットに切り替える」

「貨物室で準備してる。着陸したらお前も来い」

「水先案内人が後ろに引っ込んでどうする」

「北半球を探せ。北緯二十度の帯からSOS信号が出ているはずだ」

「誰のSOSだ」

「逃げ損なった奴らの遺品さ」


 リョーはコクピットにタールの匂いを残し、立ち去った。

 リョーの言うとおり、北半球の赤道近いところから、SOSが発せられていた。シャトルは若干の迎え角をとって大気圏に突入すると、難なくこれをこなした。淡い、褐色の岩が広がる礫砂漠が、カクイを出迎えた。


「カクイ」


 内線のスピーカーから、リョーの声が届けられた。


「なんだ」

「なんだよこの骨董品のトラックは」


 リョーは貨物室に積載している、カクイの車に触っているようだった。内線からボディをひっぱたく音が聞こえる。リョーの素直な感想と鈍い音に、カクイは憤慨した。


「ボディを叩くな! あと骨董品じゃない! 去年のダカールラリーで部門優勝したチームの、限定レプリカだぞ!」

「ただの軽トラじゃねぇか」

「ピックアップと呼べ! 強化されたボディとシャシー、大径タイヤ! リアに搭載されたターボエンジンは構造的優位を生み、トラクションを増大させる! 電子制御された駆動系は、走路データを元に最適な走りを……」


 熱っぽく語るカクイの声を遮るように、内線から金属の衝突する音が響いた。


「何をした!」

「荷台に荷物をのせただけだ」

「ガチャンっていったぞ!」

「うるせぇな。荷物のせるところだろ。傷の一つくらい」

「傷つけたのか!」

「…………」

「答えろ!」


 マイクがミュートモードになるノイズが走った。愛車を傷つけられたことと、リョーの態度の悪さに、カクイは罵詈雑言を浴びせかけた。数分間怒鳴り散らすと、カクイはやっと口をつぐみ、操縦に専念した。


 カクイはオートパイロットのオプションをいじった。コンピューターは惑星の気候から、考えられる気候変動を予測する。砂嵐の盾になりそうな岩で出来た丘を探すと、その麓に軟着陸した。


「着いたぞ。大気中の酸素は問題ない。気密服はいらないな」

「いいから早く来い」


 リョーがマイクのミュートを解除し、貨物室から急かしてくる。もはや誰がシャトルの主か分からない。


「なあリョー。予防接種ぐらい打とう。シャトルのスキャナじゃ、病原体の存在までは分からないんだからな」

「もう貨物ハッチは開けたぞ」

「……!」

「早く来い」


 カクイは何かを言いかけたが、問答が意味を成さないことに気づき、やめた。ダッシュボードからNGO医師団のワッペンが縫い付けられたキャップを取り出し、深く被ってコクピットを飛び出す。途中、寝室に立ち寄ってメディカルキット一式の小コンテナを持ち出し、貨物デッキへ参上した。


 むせかえるような熱気が、カクイの白い肌を灼いた。シャトルの機体が地面に影を落としているが、それ以外の所から照り返す日差しが鋭く眼に突き刺さる。彼はサングラスを忘れたことを後悔していた。


「どうしたァ」


 リョーが車の運転席から身を乗り出した。リョーの感想どおり、量販されている軽トラックらしいシルエットの小型自動車である。しかし微妙に増された車高や、併せて装着された大径タイヤが、ラリー車らしい野趣を醸し出していた。車体は赤く塗装され、車体側面には黒いバイソンの意匠が描かれている。


「早く乗れ」

「予防接種を……」

「予防接種無しで半年この星にいた。なんともねェさ」


 カクイは狭い助手席に体を押し込めながら、呆れかえった。彼がシートベルトをするのを見届けると、リョーはレバーを一気に二速へたたき込み、アクセルを蹴飛ばした。急加速にカクイの頭は後ろへ押しつけられ、車体は砂と礫のでこぼこを這うように飛び跳ねる。


 ギアは二速のまま出力が上がり、エンジンが吼える。カクイの愛車は悪路を物ともしない。気性の荒い偶蹄目の動物のように、ピックアップトラックは砂漠を猛然と駆けていく。


 数十分後、二人の前に二千メートル級の赤茶けたはげ山が現れた。その麓に、明らかな人工物の灰色を見た。


「あれだ」


 リョーが顎をしゃくりながら前方に見えてきた建物を指した。


「ずいぶんと、開けた所にあるんだな」


 カクイは、研究施設が秘匿されていないことに、若干の驚きを見せた。


「山が砂嵐からの盾になってるんだ」


 リョーの答えはカクイの疑問に答えてはいなかった。だが、協会がここを立地場所と選んだ理由は分かった。


 揺れる車内で、カクイは双眼鏡を人工物へと向けた。コンクリート造りの、五階建ての立派な建物だった。だが、遠目から見ても廃墟となっているのが分かった。窓から上へ向かって煤が舐めるように覆っていて、照りつける陽光を反射するべきガラスの輝きはついに見つけられなかった。


「かなり、手ひどくやられたんだな」

「ああ」

「協会の施設だったんだろう? 協会の救援は?」

「俺は雰囲気がヤバくなり出してからさっさと逃げた。どうなったかは知らん」


 ピックアップは速度を落としはじめ、五十キロ程度で廃墟へと近づいていく。

 側に寄ればよるほど、ひどい有様だった。正門らしいところに併設された受付所の窓には血痕が残っている。建物へいたる前庭や駐機場には、炎上したシャトルや車が黒焦げになって転がっている。どれもこれも、人が乗る場所に木の槍が突き立てられていた。かつては青々と茂っていたであろう、移植された地球の常緑樹はスードゥの強い日差しにあぶられ、完全に灼け枯れていた。


 リョーは建物を半周回り込み、日が差さない裏手の駐機場へ車を駐めた。するとカクイは雰囲気に圧倒されたのか小さくため息をついた。


「……同情を禁じ得ないな。流石に」

「感傷に浸るな。いくぞ」


 リョーはマット加工のされた黒の軽量ヘルメットにボディーアーマー、デザートカラーの迷彩服という出で立ちだった。アサルトライフルの背にはカスタムの照準器が、ヘルメットには暗視・温度感知両用のゴーグルが取り付いている。全て彼の私物だった。


 カクイも頭こそキャップ一つだったが、それ以外はリョーと同じような砂漠用迷彩服だった。しかし、リョーは難癖をつけた。


「お前、医官経験者だろ。何だよそのキャップ。アーマーも着けてねぇし」

「君こそ、誰と殺し合うつもりでいるんだ」


 リョーはかぶりを振った。さっさと用事を終わらせなければ、この男との現場認識の違いでくだらない諍いが起きるのは見えていた。


 二人は窓ガラスが無くなった窓を飛び越え、内部に侵入した。屋内は荒廃しきっており、まともな位置に納まっている物は何一つ見当たらない。


「カクイ。殿を頼む」

「分かった」


 リョーは腰を落としてライフルを構え、なるべくその上半身を動かさずに前進していく。奥へと進むうちに窓からも遠ざかり、日の光も届かなくなっていく。ライフルの先端に装着したフラッシュライトを点灯させ、四方八方に気を配る。カクイもリョーから渡されたハンドガンを構え、後方を監視していた。


「案内表示があるな……」


 カクイがめざとく、スタッフ用の避難経路図を見つけた。


「患者の居室の少ない、三階のこの部屋かな」

「ヤマカンか?」

「まあね。でも、検査室とかも併設されている。可能性は高い」

「オーケー」


 二人は行軍を再開する。四つのブーツが塵やガラス片を踏みしめ、サリサリとささやく。階段へ差し掛かったところで、二人はいつかは見るであろう物を見かけてしまった。


 大勢の入院患者の骸が、階段に折り重なるようにして朽ちていた。上階へ、あるいは屋上の発着場を目指していたのだろうか。


「……この星には野犬どころか、腐食性の昆虫もいないのか?」


 乾燥した空気によってパリパリに乾かされた、損傷の目立たない死体達を見てカクイは言った。


「入院していたころは、少なくとも見たことねェな」

「なのに『原住民』はいるのか」

「それがどうした」


 カクイは何かを言いたげだったが、口ごもってしまった。二人は死体を避けながら二階へと上がっていく。その間、嫌でも死体を注視することになった。どれもこれも、乾燥による引きつりとは別の要因で生じた、苦悶の表情をしている。心臓や腹部、あるいは大腿に開いた傷が致命傷のようだった。


「ひと突き……か」


 カクイは呟くように言った。


「ホトケに同情するな。あの世に連れて行かれるぞ」

「戦場のジンクスかい?」

「余計な事に気を散らすと死ぬっていうことだ。行くぞ」


 二人は三階のフロアに到達する。リョーは曲がり角に到達してはクリアリングを行い、半開きのドアを見つけては蹴破って、内部を確認してゆく。そのうちに、二人は標本室を見つけた。いかにもな雰囲気にリョーは意気込んだが、学術標本が中心である事を察していたカクイは特段気にも留めなかった。が、いくつかの標本はカクイの興味をそそった。


 カクイは、ある人体のスライス標本の前に立った。人の輪郭の中に、臓器や骨格の形が見て取れる。彼はペンライトで標本のネームプレートを探した。


「スードゥ人樹脂標本? この星の住人か。どうりで臓器の位置がおかしいわけだ」


 カクイは標本に顔を近づけ、舐めるようにして観察している。


「この肺の形。胸部スキャンで見た君の肺と同じ作りだな」

「――俺の肺の原産地が分かって良かった」

「つまり、君の肺はこの星の原住民から抜き出したってことだな」


 カクイの言葉はリョーの良心をつついた。


「……道徳の話はやめろ」

「僕もするつもりはない。ただ数百光年も離れた別の恒星系に、拒絶反応も起こさない都合の良い臓器提供者がいる事に驚いているだけだ」


 カクイはライトの先を、標本の手先へ移した。途端に、彼は怪訝な表情をつくった。


「なんだこの……指」


 彼の意識は標本へさらに集中した。

 標本の左手はスライスされず、生前の形を保ったまま防腐処理をされていた。地球人と同じ五本指だが爪はなく、その指先は大きくひび割れている。だが、カクイの注意を引いたのはそこではなかった。


 人差し指と中指の股から、小さな緑色の突起がのぞいていた。目を皿にしてそれを注視すると、その突起は薄く平たく、表面には筋が走っている事がわかった。


「葉っぱ……? いや、葉っぱなのか? なんだ? 病気か? でもこれ病理標本じゃないよな?」


 カクイはペンライトの尻を顎にあて、カチカチと鳴らし始めた。


「おい。もう良いだろ。行こうぜ」


 リョーはウンザリした様子で急かす。


「――ああ」


 標本室から二つほど部屋をはさんで廊下を進むと、雰囲気の異なる部屋を見つけた。廊下に面する壁の上半分がガラス張りで、外からも室内の様子が確認できるようになっている。作業台がいくつも平行して並び、リョーには用途すら予想できない高価な機器が設置されていた。


「ここらしいぞ。検査機器がそろってる」


 リョー達は部屋の入り口へと駆け寄った。ドアのロックは施設の自家発電が切れたことで解除されており、二人は協会の機密が取り扱われていた部屋へ簡単に侵入することができた。


「おい。これじゃねェか」


 リョーが大型の冷凍庫を開け、中に赤黒い液体が入ったチューブを取り上げて言った。


「まあ待てよ」


 カクイがコンピュータ端末のコンセントを、持ってきた使い捨てバッテリーに差しこんだ。端末の電源を入れると、意外にも機嫌良く起動した。


「つーか、冷凍庫も死んでるのか。当然だろうけど。大丈夫なのか?」

「解凍で血球は壊れているかもしれないけど、DNAなら望みはある」


 カクイは端末の中のサンプルリストをスクロールして、リョーの名前を検索する。その顔が一瞬、怪訝な表情を呈した。


「おかしいな」

「どうした」


 リョーはいつの間にか一服を始めていた。


「君の名前が無い」


 リョーがディスプレイをのぞき込むと、カクイは頭文字Hのリストを参照していた。


「Bで検索かけろ」

「親戚の名前で登録したのか?」

「お前の名前だ」

「なんだって?」

「お前の名前を使ったんだよ。カルテ上はお前の縁戚になってる」

「なんでまた!」

「医療関係者が優先されるらしくてね。お前の名前は通りが良かったよ」

「……!」


 通りが良いのは当然だった。日々進歩する医療の世界において、カクイもまた研究を重ねて論文を定期的に発表しているからだった。だが、その努力がこんな形で利用されるとは……。


「いいか、今度僕の名前を使ってみろ。想像もつかない、恐ろしいことが起きるからな」

「覚えとくわ」


 キーボードを打鍵する音が乱暴になる。カクイが興奮しているのは、ミスタイプが突然増えたことからも明らかだった。


「B〇〇九五。リョー・ボルストラップ。本当だ! クソッ!」

「どの冷凍庫だ」

「扉の右上に、保管番号がふってあるだろ!」


 リョーはカクイを尻目に、自分の番号が範囲に含まれている冷凍庫を見つけ、引き出しを上から順に開けてB〇〇九五番を探した。そして真ん中の引き出しから、念願の血液サンプルを見つけた。


「少ねぇぞ」

「問題ない。よこせ」


 リョーは珍しく手渡しをした。が、逆にカクイはサンプルを乱暴にひったくる。相当に怒り心頭なようだった。だがサンプルを扱うその手さばきは、流石に現場の第一線で働く医者ならではの鮮やかさであった。


 カクイは周囲を見渡すと、手頃な試験管ホルダーを見つけ、引き寄せた。そこへリョーの血液が入ったチューブを立てかけると、準備を始めた。メディカルボックスから五センチ角ほどのセロファンのような物を十枚ほど取り出し、机の上に並べる。


「なんだよそれ」

「サンプル固定用のフィルムだ。ここへ血液を滴下し、もう一枚でサンドして固定化する。液体はこぼすと取り返しがつかないからな」


 説明をしながら、カクイは両手に薄手の青いゴム手袋をつけた。左手で血液の入ったチューブを持つと、親指一本だけで巧みに蓋を開ける。右手にはピペットを持ち、先端をチューブ内の血液へさし込んで少量を吸い込んで抜き出す。一ミリリットルにも満たない血液を、今度は机の上に並べたフィルムへと滴下していく。その後上から別のフィルムを被せていき、リョーの血液はあっという間に十枚の薄っぺらな標本になった。


「そんな少しでいいのか」

「ああ」


 メディカルキットのボックスから円筒形のジャーを取り出すと、その中へフィルムを保管してゆく。蓋をしめ電子ロックをかけると、カクイは店じまいを始めた。


「さあ、帰ろう」

「おう。先導する」


 二人は来た道をソロソロと戻っていく。すると、二階に到達したところで、リョーが壁にへばりつくようにして立ち止まった。その動きを見て、カクイも同じように壁に背をつける。


「どうした?」

「…………」

「リョー?」

「静かにしろ」


 リョーは掠れるような小声を出した。視線は廊下の奥の曲がり角を向いているが、意識は別の所に集中しているようだった。

 何事も無かったかのようにリョーは歩を進める。しかし廊下を曲がりきったところで素早く身を翻し、また壁に体を貼り付けた。その不審な挙動に、カクイは悪態をつきかけた。が、リョーの視線と集中の具合から、決して悪戯ではないことを察する。


「――止まれ!」


 リョーは突然、誰も居ないはずの廊下に向かってライフルを構えた。


「見えないと思ってんだろうが、丸見えだぞ。足下を見ろよ」


 静寂が辺りを包む。リョーの視線は、廊下に積もった塵が僅かに舞い上がるのを見逃さなかった。


「三数えるうちに偽装を解除して投降しろ。さもなきゃ――」


 鈍い破裂音が突然響き、リョーの警告を遮る。宙に銃の発射炎が微かに閃き、何かがコンクリート壁を抉る。


「クソッ!」


 リョーは吐き捨てるように言い、応射する。が、命中の手応えが無い。それどころか、発射炎が一つから三つに増えたのを見た。


「なんだ! 何なんだ!」

「光学迷彩だ! カクイ、走れ!」


 殿を務めていたカクイは先頭に、リョーが殿へと交代する。リョーはヘルメットのゴーグルを降ろし、温度センサーのスイッチを入れた。


「温感無し……マジかよ」


 温度センサーで検知できないというのは、リョーを戦慄させた。相手はそこら辺の賊ではない。特殊部隊か、さもなくば趣味でマンハントをする変態だ。それぐらいの最新装備だということだった。位置がバレやすい粒子兵器ではなく、消音器付きの小銃を使っていることも、相手の性質を物語っていた。


「リョー!」

「走れ走れ走れ! やべェぞコイツら!」


 リョーは銃を構えたまま、全力で後退する。先ほどまで自分たちがいた角の辺りで発射炎が閃く。それに対応してリョーも応戦するが、撃ったそばから移動しているようで、まったく手応えがない。彼は後手に回っていた。


 死体が折り重なる階段に差し掛かったところで、リョーはチョッキから円筒形の手榴弾のようなものを取り出した。安全ピンを引き抜き、敵がいそうな所へと投擲する。


 青白い閃光が弾けると、それは姿無き襲撃者達を捉えた。電撃が逃げ場のない一本廊下を席巻し、襲撃者達の体を舐めるように襲う。たちまちに光学迷彩が故障し、三人の襲撃者は糸を断ち切られた人形のようにその場に崩れた。


 リョーは階段を下り、一階のエントランスホールへとやってくる。先に逃がしたカクイが待っていた。


「あいつらは?」

「気絶させた。当分動けない」


 廊下からホールへと飛び出そうとした時、リョーは咄嗟にコンクリートの支柱へ身を隠した。それに習ってカクイも手近な支柱に身を隠す。すぐさまエントランスを見下ろす全ての階より、鉛玉の暴風が彼らを襲ってきた。


 コンクリートの支柱がえぐれる音が響き、空気を切り裂く音が耳をつんざく。もはや姿を秘匿する必要も無いと察したのか、銃声はハッキリとした破裂音に切り替わっていた。


「見えねえ……」


 敵の配置をうかがい知る隙も無い。猛烈な弾幕に、二人はその場に釘付けとなった。


「回り込まれるぞ!」

「分かってる! 絶対そこから動くなよ!」


 心臓の鼓動が早まる。リョーはブーツのつま先をカツカツと鳴らし始めた。


「ああ……クッソ……」


 対処に集中するあまり、リョーはニコチンの補給を忘れていた。普段の任務なら問題にならない。危険に直面することでドーパミンが迸り、タバコなんて必要ないからだ。だが今は違う。タバコを吸わなければドーパミンが脳にあふれかえり、死ぬのだ。


 口の中から唾液が失せ、舌が粘つく。指の末端が痺れだし、それが手を這うようにして広がるのを感じる。


「おい! 大丈夫か!」


 カクイの言葉が耳の中で響く。高周波のような耳鳴りも、すでに混ざって聞こえていた。


「リョー! タバコだ! タ・バ・・コ・・・を・・・・す・・・・・え・・・・・・」


 全ての音が聞こえなくなり、周囲がゆっくりと動き始めた。脳がドーパミンに冠水したのだ。リョーは最後に聞こえたカクイの言葉通り、タバコを取りだし、咥えた。そして火を点けようとした。その時ふと、コンクリートが砕けて飛び散るのを目にした。


 弾丸の運動エネルギーによってはじかれたコンクリートが、目の前を斜め下によぎっていく。舞い上がる塵によって浮かび上がった陽光の上を、コンクリート片はコマのように回っている。しばしその光景を見るうちに、リョーは思いついた。


 弾速って、爆速よりも遅いんじゃないか? と。


 改めて、コンクリート柱をかすめて飛ぶ銃弾を観察してみる。鈍い金属光沢を放つ物体が群れを成して同じ方向へ進んでいる。まるで鉛色のナメクジが壁を這っているようだ。しかし無害そうな動きを見せるそのナメクジ達は、明らかに殺傷力をはらんでいた。


 それでも、リョーはちらとその『群れ』の中に顔を出してみた。一発がリョーの額めがけて飛んでくる。遅い。リョーは難なく支柱の影へと顔を引き戻した。


 もしやこれは。


「リョー! タバコだ! タバコを吸え! 死ぬぞ!」


 カクイは医者にあるまじき言葉を自覚しつつも、叫んでいた。ドーパミンがあふれ、知覚の失調が始まっているのは一目瞭然であったし、将来的な疾病よりも間近に迫る命の危機を避けんがためでもあった。


 突然、リョーはエントランスホールへと飛び出した。それを見たカクイは絶叫した。


「リョー!」


 身を低くし、リョーは信じられない速度で疾走する。弾丸は一つも彼を捉えることができない。それもそのはずだった。

 普通ならば敵が移動する先を予測して射撃をする。しかしリョーは放たれた弾丸を視認し、その着弾先を読んで移動しているからだ。だがいつまでも逃げるわけにはいかない。自分だけ凌げても、カクイも逃げられなければ意味が無い。


 リョーはホールのど真ん中で仁王立ちすると、自分に向かって集まる銃弾を一つ一つ凝視し、吟味した。


 発射炎が、まるで未来永劫そこに咲き続ける花のように視認できる。そして銃弾も。リョーは銃を構え、照準器をのぞき込んだ。銃弾は視界の中で徐々に大きくなってくる。


 引き金が引かれる。ライフル弾が銃口より飛び出し、照準の中で迫っていた銃弾とかち合い、火花を散らして弾かれる。

 引き金が引かれる。火花がまた散る。

 引き金が引かれる。

 引き金が……。


「――嘘だろ……」


 カクイは唖然として、その様子を遠巻きに見守っていた。リョーの正面で無数の火花が散り、さながら目に見えぬ盾が彼を守っているように見える。だが彼は守られているのではない。迫る銃弾を一発ずつ高速で撃ち落とし、自分で自分を守っているのだった。


 リョーは合間を見て、カクイの居る方へ空のマガジンを投げてよこした。


「があっ!」


 リョーが吼えた。何かを伝えたいらしい。だが、言葉にならないようだ。カクイには見当もつかない、彼だけが見える世界にいるのだから。だが、カクイは直感で察した。ベルトのポーチにしまい込まれたライフルのマガジンを一つとると、リョーへ投げた。


 弾丸を撃ち落とせるリョーにとって、投げ渡されるマガジンをキャッチすることなど、まさに片手間の用事だった。空になったマガジンを外し、投げ渡されたばかりのマガジンをライフルにたたき込み、射撃を再開する。そしてまた空のマガジンをカクイへ投げてよこす。すぐに流れ作業ができあがった。


 その間にもリョーは、ホールに向けて閃く発射炎を見つけるごとに、その方向へ応射する。一人また一人と、光学迷彩服ごと撃ち抜かれ、襲撃者は倒れていく。あまりの反応速度に、撃っては位置を変える行動が出来ずにいるようだった。


「…………!」


 何かを思い出したかのようにリョーは駆け出し、手頃な遮蔽物に身を隠した。そして、口にくわえていたタバコに火を点けた。


「息切れか?」

「ゲホッゲホゲホ……。ああー……」

「でも凄いぞ! 九人は倒した」

「十一人だボケナス。ゲホッ……」

「大丈夫か」

「大丈夫に見えるか? まぁ任せておけよ。ちょっと慣れてきた」


 呼吸を整えるためだけに吸ったタバコを指で弾くと、リョーは体勢を取り直し、いつでも飛び出せる準備をした。その時、銃声が止んだ。


「見事だ」


 ホールに女の声が響いた。芯の通った、落ち着き払った印象を受ける声だ。 


「狩りに生きて数百世代。銃弾を撃ち落とす『獲物』には出会ったことは無かった。恐れ入った」

「なんだァ……?」


 流ちょうな地球の言葉に、二人は驚いた。


「――地球人なのか?」


 思い切って呼びかけたカクイに、女声は反応した。


「否。だがお前達の種族の上位集団より命を受けている」

「上位集団って……政府か協会、どっちだ」

「お前達の勢力には興味が無い。我々は依頼を遂行し、クライアントから報酬を貰う。それだけだ」

「いさぎよいこって」

「お前達の時間単位で、三十秒やる。直ちに武装を解除し、投降しろ」


 カクイはリョーへ視線を投げかけた。リョーはかぶりを振る。


「無傷で、命も保証してやる」

「リョー」

「アイツに保証されたとして、そのクライアントやらが保証するとは限らないだろ」

「……そりゃそうだが」

「背後の勢力が不明なら逃げるしかない」


 リョーは再び円筒形の投擲物を、今度は二つ取り出した。ピンを引き抜き、自分とカクイの隠れる遮蔽物の前へと転がす。数秒と待たずに円筒からは白煙が吹き出し、辺りを包んだ。


「裏口だ! 裏口から迂回して車にいけ!」


 カクイを先に走らせ、リョーもそれに続いて静かに駆け出した。

 日陰の、目立たない場所に車を駐めた事が功を奏した。熱に炙られて車内が蒸すのを嫌っただけなのだが、結果的に逃走手段の保護につながった。

 カクイが駆け寄りながら、ピックアップのエンジンを遠隔スタートさせた。軽快なエンジン音が轟き、車は二人を迎えた。


「カクイ。運転しろ」


 そう言うとリョーは、後部の荷台に飛び乗った。彼は積載されていた荷を解き出す。


「なんだそれ」

「使うとは思わなかったんだけどなァ」


 頑丈な作りの鉄製の三脚が、その頂部に重機関銃を掲げて立ち上がる。


「走れ!」


 荷台で重機関銃を構えるリョーの号令と共に、カクイはピックアップのアクセルを蹴飛ばした。ピックアップは急加速をして駐機場を飛び出す。エンジン音を聞きつけたのか、建物の窓のあちこちで発射炎が迸る。リョーはそれらめがけて重機関銃を乱射した。


 人差し指よりも長く太い巨大な銃弾が、連続して撃ち出される。威力は拳銃やアサルトライフルの比では無い。コンクリートの壁を貫き、人体に当たればこれを激しく損壊する。カクイの愛車は一瞬にして、戦闘車両と化した。カクイは銃声を背に受けながら、懸命にハンドルをとっている。


「どこからそんな骨董品もってきた!」

「太陽系外じゃ標準装備だぞォ!」


 ピックアップは猛スピードで病院を遠ざかった。意外なことに追撃は無く、二人の乗るピックアップは砂原を疾駆し、元来た道を辿っていった。

 三十分も走ると、シャトルが見えてきた。二人は自然と安堵していた。変な因縁はつけられたが、それもここまで。――そう思った。


 空から赤色の光弾が駆け下り、シャトルを直撃した。機体が中程から大きくひしゃげ、構造が粉砕されるのを見て、カクイは声にならない悲鳴を上げた。

 二つ目の光弾が落とされる。これも直撃し、シャトルは大破炎上した。


「嘘だろ……」


 二人は異口同音に呟いた。だが、リョーは直ちに光弾が閃いた場所へ機関銃弾をたたき込んだ。案の定、光学迷彩で偽装していた航空機が姿を現した。ガンメタリックで塗装された、無骨な箱形の戦闘艇だった。


「カクイ! 車を出せ!」

「どこへ!」

「どこでもいい! ……!」


 リョーは遠方に、通りがかりの砂嵐を見つけると、指をさして叫ぶ。


「あれだ! あれに突っ込め!」

「正気か!」

「撒くにはあれしかない!」


 重機関銃が吼え、敵機にいくつかが命中する。敵機も機関砲で応戦し、ピックアップを力尽くで止めようとしてくる。襲撃者にとって、彼ら二人は相当な成果らしかった。亡骸さえ欲しいのなら先ほどの光弾を撃ち込めば済むのだから。


 リョーはエンジンやコクピットに銃弾を当てようとするが、至近距離に着弾する砲弾の衝撃で狙いが定まらず、決定打を与えられない。ただ、牽制にはなっているようだった。


 生死をかけた追いかけっこは、リョー達のピックアップが砂嵐に突入するまで続いた。

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