第5話 ジャングルで茶色のダンボールは通用しない
犬のような鳴き声に導かれて、俺は森の中を進む。
狩りをしていたときも思ったが、この森は非常に複雑だ。
まるでダンジョンの壁のような木々で出来た壁があるかと思えば、いきなり木々がない開けた場所もあり、はたまた根が上下にうねって這いつくばった方が進みやすい場所もある。
今の場所がまさにそうで、暴れ狂うようにうねった根と地面の隙間を這いつくばりながら進み、俺はその生物を見つけた。
毛並みは短毛、ピンと張った立ち耳、今は垂れ下がっているが、おそらく立ち上がると印象的な巻き尾になるだろう尻尾。
柴犬だ。どう見たって柴犬だ。
——いやまて、柴犬の毛色はあんなに青々してないぞ?
明らかに毛が芝生だ。ゴルフ場のグリーンもかくやといった、切り整えられた萌黄色の芝生だ。
生涯に一度、ああいう芝生の上に寝転がって昼寝がしたいと言い切れるくらい理想的な芝生が柴犬の状態で伏せの体勢を取っていた。
もう芝生が犬の形に盛り上がっていると言っても過言ではない。俺は芝として見ているのか、犬として見ているのか分からなくなってきた。
『シバイヌ? Grass Dog? HAHAHA ニホンゴムズカシネー!』
と脳内の陽気なアメリカ人が日本語を交えた高度なジョークを飛ばしてくるぜ!
『なんでやねん! 海外でも柴犬は『Shiba Inu』やろ!』
俺の中の理性が渾身の逆手ツッコミをしたことで、俺は意識を取り戻した。
今までイノシシ大のうさぎっぽいヤツとか、三つ叉蛇とか、エビ味でおいしい虫とか、鯖っぽい味の川魚とか、ファンタジーっぽい生き物と出会ってきたけど、これは某携帯ゲームにも出てきそうなほどド直球な『ファンタジーな生き物』だ。
うん、草タイプ確定だ。炎タイプに気を付けよう。
などと自己問答をしながら芝犬を観察していると、あちらもこちらに気づく。
「くぅ〜ん」
そして、初対面にも関わらず、甘えた声で俺に鳴いた。
大きな栗のような目が、こちらを見て潤んでいる。
キャインキャインと鳴いていたといい、何かから隠れていたような体勢といい、俺に助けを求めていることは明らかだった。
問題は、一体何から助けて欲しいのかということだ。
その問題に悩むよりも早く、異様な音が森中に響き渡る。
まるで暴風により木々がなぎ倒されたような音と共に、木くずと土埃が舞い上がる。
芝犬の後方にあったはずの木々の壁が消え去り、その舞い上がった埃の向こうで、巨大な何かが見えた。
突然だがここで豆知識を語ろう。
世界最大の熊といえばホッキョクグマ。
十九世紀に観測された最大個体の体重は一トンを越え、おそらく体長も三メートルはあっただろうと言われている。
そんなのに襲われたらひとたまりもないだろう。
何せ、スピードもパワーも備えた、生態系の頂点だ。最強の肉食獣だ。
人間の足では逃げられないし、全ての攻撃が致命傷。
だが、目の前に現れた何かは、現実世界のホッキョクグマを優に超えていた。
緑色の苔が生えた熊が、高い視点から首を振って、何かを探している。
また草タイプかよ! というツッコミも出来ないほど、怒り憤った眼光と荒げた息。
体長は目測で約六メートル。ホッキョクグマ最大個体の約二倍。体重は考えたくもない。
膂力は直径三十センチの木々を一凪ぎでまとめて倒す程度。スケールどこ行ったレベルで計り知れない。
あっ、これ、どう頑張っても一撃死するタイプの敵だ。
触らぬ神に祟りなし。
注目されていない俺は、匍匐状態でじりじりと後退する。
「くぅん」
微かな芝犬の鳴き声、そして目が合う。
神に触って祟られてしまったのは、絶対にこの芝犬だよな。
「きゅーん」
これを助けようとしたら、助からない自信がある。
「きゅーんきゅーん」
だが、ここで犬を見殺しにして生き残っても、夢見が悪いな。
この世界で初の、意思疎通ができそうな可愛い存在に対してむくむくと湧き上がってくる庇護欲。
そして俺は犬派。
理由はそれだけ。
うねる根の下、縦横無尽な植生の中で、あの巨大苔熊から逃げる算段を考える。
思考の末、逃げ切ることが可能と判断した俺は、伏せの状態で装備を外し、身軽にする。
装備はまあ、あとで回収しよう。もちろん、万徳ナイフは持って行く。
そして、俺は芝犬に向かって手招きをした。
顔がパアアと明るくなる芝犬。スックと立ち上がり、巻き尻尾を振りながら俺に猛ダッシュ!
おいやめろ! 急に動くと——!
巨大苔熊の目が、ぐるりとこちらを向いた。
これは豆知識なのだが、肉食動物というのは、動体視力が異様に高く、急に動くモノへの反応速度が早い。
つまり、急に動いた芝犬は巨大苔熊に見つかった。
このやろう。
○□○
危なかった。苔熊がうねる根に足をつっこみこけなければ、そのまま踏み潰されていた所だった。
やっぱり地の利というのはすごいなと実感しながら、俺は森の迷宮をかいくぐりショートカットしつつ移動する。
巨大苔熊はその巨体から森の迷宮に阻まれ、俺たちを見失ったようだ。
そもそも、森の中を移動することが苦手なのかもしれない。
憶測だが、あの苔熊は普段はあまり活動せず、光合成によってエネルギーを得ているのだろう。
巨大な膂力によって森を切り開き、日光浴ができるよう自分のテリトリーを作る、森の破壊者的存在だ。
森を闊歩していて、妙に開けた場所があるのは、あの苔熊が森を切り開いたからかもしれない。
光合成があるのに肉食なのは進化過程で残ったか、苔に窒素成分を供給するため、はたまた光合成が出来なくなった時のカロリー源確保のためか。
ただ、そういう『生きることが遅い生物』は腹を空かせているケース以外、基本的に温厚な性格が多い。
……この芝犬は一体、何をやらかしたんだ。
じっと芝犬を見つめる。こっちの疑いの視線を察したのか、芝犬は目をそらした。なかなか賢いな。
ともかく、巨大苔熊の追撃は逃れたのでホームポイントである『巨石と巨木の広場』に戻ろう。
俺は芝犬を連れて、巨木の位置を確認しつつ、帰路を取った。
○_○
結論から言おう。この判断は間違っていた。
苔熊——ヤツは、俺たちを諦めたわけではない。
俺たちを目で追うことを諦めたのだ。
その代わり、俺たちを鼻で追うことにした。
ここで忘れていた豆知識なのだが、熊の嗅覚は犬の約二十一倍もある。
犬の嗅覚は人の約一○○倍なので、人からすれば熊の嗅覚は約二一○○倍だ。
文字通り、桁が違う。
芝犬は草の匂いに近いので、そんな嗅覚でも森に紛れ込み気づかれにくかったかもしれないが、人間である俺はどうだろう。
まあ、考えなくてもわかる。
こんな人類未開の地だとユニークスキルならぬユニークスメルだろう。
この森では、俺の匂いがとにかく目立つ。そんなユニーク、欲しくなかった。
そんな唯一無二の匂いを感じ取っていた苔熊は、狙っていたのだろう。俺が移動しなくなる瞬間を。
俺たちが『巨石と巨木の広場』で腰を落ち着けた途端、ヤツはこの広場めがけて突進してきたのだ!
ショベルカーが時速八十キロであらゆる障害物をなぎ倒しながら突っ込むシーンと遜色ない状況が、目の前で起こった。
ヤツはそのまま勢い余って巨木に体当たりをかます。頭いいのか悪いのかさっぱり分からないぞあいつ!
揺れる巨木、だが、揺れただけで破壊音は聞こえない。どんだけ強いんだこの木。ついでに大量の、見たことがない殻の実が降り注ぐ。
しかし、衝撃的な出来事があったら身体が咄嗟に動かないというのは本当なんだな。
巨石近くの焚き火場で腰を下ろしていた俺と芝犬は、顎を外しかけた顔でその一部始終を見てしまっていた。
頭を揺らしながら立つ巨体は鼻をクンクンと動かし、こちらを捉える。
死——という思考の前になんとか行動できたことを褒めて欲しい。
ただ、逃げた先は——巨石の下だった。
実はこの巨石、地面に隠れた台座から伸びる五つの爪の上に設置されているようで、巨石と地面との間に十センチほどの隙間があった。
それを発見した俺は、貴重品の隠し場所として巨石の下を掘り下げ、這って入り横になれば一人隠れることが出来るぐらいのスペースを作った。
まさか、こんな風に使う事になるとは……。ちゃっかり芝犬も潜り込んでいる。前足で顔を覆っても事態は好転しないぞ。
逃げ切れなく即死という状況は脱したが、ヤツが諦めるまでここから出ることが不可能になった。
袋小路も袋小路、籠城というのもおこがましい。
ヤツの足音が耳に響く。うなり声も大きくなり、確実に近づいてくることが分かる。
芝犬が潤んだ瞳でこちらを見つめ、「くぅーん」と不安げに鳴く。俺も泣きたい。
ついに、ヤツの足音が止まった。隙間から、ヤツの足が見える。最接近。
ブォン、と空気を切り裂く音。
巨石が揺れ黒板を爪で引っ掻く音の大音量版が響く。それを聴いて全身にさぶいぼが立つ。
ヤツがその腕力と爪で巨石を攻撃したらしい。バラバラと、石の破片が落ちる。
……石も壊せるのかよ! 硬いなその爪!
やばい、このままじゃ頼みの綱の巨石も壊れる! と思った次の瞬間、衝撃と共に地面ごと巨石が揺れた。
あいつ、巨石にタックルしやがった!
地面ごと揺れた、つまり、地下に眠る台座ごと揺れたということ。
このタックルを何度か繰り返されれば、台座ごと巨石は倒れ、隠れ場所を失った俺たちはジ・エンド。
詰んだ。
絶望がまたタックルをする。地面が盛り上がり、いよいよ台座が掘り返される、そんな時だった。
『マスター(暫定)の生命危機を感知、制限モードから緊急モードへ移行します』
やたらとクリアな幻聴が聞こえた。
走馬灯かと思ったが、そんなシーンはこの人生で経験したことがない。
『戦闘予測マップ作成のため、マスター(仮)の【ステータス】を確認……うわ弱っ……』
ちょっと待て、今なんつった?
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