第9話 幼馴染みの少女と、些細な事件

 翌朝、冷治と菅原涼は一緒に駅の階段を下りていた。

 高校には地下鉄で向かうが、最寄りの駅は二人とも同じなので昨夜泊ったからといって普段と行動が大きく変わるわけではない。

 通行の邪魔にならないように、端の方を並んで歩いている二人を人々が追い越していく……社会人もいれば、学生もいる。二人と同じ制服を着ている者の姿だって少なくはない。

 マフラーをしていないが、日中はまだ寒さを感じるほどではない――少なくとも菅原涼は寒そうにはしていなかった。

 さらに一人、後ろから足音が聞こえてきた。

「あ、おはよう、レイちゃん。菅原さんも」

 振り向くと前を開けたジャケットから同じ学校の制服を覗かせた少女がいた。

 茶色い髪をショートカットにした、活発そうな外見。実際、中学の時はバスケットボール部でレギュラーとして活躍していたはずだし、高校でも確か続けているはずだ。

「おはよう、紫村」

 挨拶した冷治にならって、菅原涼も軽く会釈する。

 冷治にとっては、菅原涼よりもはるかに付き合いの長い相手だった。同じ町内に住む紫村赤音との出会いは幼稚園までさかのぼる。

 一言でいえば、幼馴染みという奴だ。

 母親同士が友人で、昔はよく親に連れられて互いの家に行き来していたものだ。もっとも、冷治の母親が父の会社を手伝うようになってから付き合う機会はだいぶ減った。

「毎日ラブラブだねえ。二人を見ると、もうすぐ冬なのに暑くなってくるよ」

 幼稚園から高校まですべて同じ学校に通っている相手だった。もっとも、付き合いが長いわりに、同じクラスになったことは一度もなかったが。

 かつては『レイちゃん』『あーちゃん』などと呼び合っていたけれど、いつからか冷治のほうはそれが気恥ずかしくなって『紫村』と呼ぶようになっていた。

 同じ中学から同じ高校に通っている者はもちろんたくさんいる。

 紫村はその中でも親しい部類に入る相手だ。

(菅原涼はあんまり仲良くしたくないみたいなんだよな。……中学の時、紫村が俺のこと好きだって噂があったからだろうな)

 噂がちょっと流れただけで、別に具体的ななにかがあったわけではないのだが。とはいえ、ケンカを始めたりするわけではないので、口出しもできない。

「でも、あんまり目立つことしすぎない方がいいかもよ。昨日も2人でマックによってたんだよね?」

 冷治の隣に並んで、紫村は話し始めた。

「先生に目をつけられたらめんどくさいことになるってバスケ部の先輩が言ってたし」

 踊り場で方向転換をしながら、彼女は話を続ける。

「別になにか言われたことはないけどね……ま、気をつけるようにするよ。どうもありがとう、紫村」

 たとえば、通学中ずっと手をつないでいるのとかも、彼女の言う『派手なこと』にふくまれるのだろうか。とはいえ、もちろん離す気はなかった。

 菅原涼が飛んで行ってしまわないようにするという意味がある。

 つないでいることそのものが心地いいのも、もちろん理由だったけれど。

 180度向きを変えた位置にある階段を降りとした時のことだった。

 登ってきた大柄な男の肩が紫村とぶつかった。

「おっと、悪いな」

 かなり年上であろう大人の男は、あまり悪びれた様子もなく告げた。

 冷治は別に背の低い方ではないが、男は明らかに冷治より長身だ。しかも、鍛えているのか肩幅もずいぶんと広い。

 通勤や通学で行き交う人々とはだいぶ印象の違う男だった。

 とはいえ駅にいろいろな人がいるのは当然だ。気にするほどのことではない。

 身動きもろくにできないという首都圏のラッシュには比べるべくもないが、この街だって朝の時間帯は人が多い。肩がぶつかったくらいで気にしてはいられないだろう。

 男はそのまま去って行こうとした。

「……待ちなさいよ。なに、その態度。人にぶつかったんだから、ちゃんと謝りなさいよ」

 にも関わらず、紫村は男に噛みついた。

「おいおい、謝っただろ、今」

「今のが? ぜんぜん悪かったと思ってなかったじゃない」

「そう言われてもなあ……駅でぶつかったくらいで、そこまで真剣に謝る奴、いねえだろ」

 男は困ったように……いや、実際困っているのだろうが、無精髭の生えた頬をかいている。

「紫村ってあんなに怒りっぽかったっけ?」

「え? いや、私は知らないけど……」

 小さな声で冷治は菅原涼と言葉を交わす。

 まあ活発なタイプだったのは間違いないのだけれど、とはいえ些細なことであんなに怒り出すほどではなかった気がする。

 ……気がするだけで、実際にはそんな人間だったのかもしれない。

 男の腕に比べてまるで細い紫村の腕が、持ち上がった。つかみかかろうとしているのだとしたら……さすがに反撃されるのではないだろうか。

「やめろよ、紫村」

 あまり力が入らないように心がけながら、冷治は伸びた紫村の腕をつかんだ。

「邪魔しないで!」

「落ち着けったら。怒るほどのことじゃないだろ?」

「レイちゃんには関係ない!」

 怒りが収まらない様子の紫村は、冷治にまで怒鳴り始める。

 歩いていた人々の何人かが、足を止めていた。

 一瞬、にらみつけてくるその目が、赤く染まったような、気がした。

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