第7話 彼女の泣き顔をはじめて見た日
まるで、ゲームの攻略を進めるみたいに、菅原涼は青山冷治との距離を詰めてきた。
でも、現実はゲームみたいには進まない。
2人の関係が劇的に変わったのは、2か月前のことだ。
八月に入った頃の、暑い夜。時間はもう夜の九時を過ぎていたはずだ。
菅原涼から電話が来た。
たいていの場合、彼女はまずはメールかSNSのメッセージで連絡してくる。電話で話すことももちろんあるけれど、必ずまずは話せるかどうか確認してきていた。
なのに珍しく、いきなり電話がかかってきたのだ。
「助けて」
と、彼女は言った。
すぐに来て欲しいと言われて、思ったのは面倒だということ。でも、どうやら困っているらしいので、冷治はすぐに準備した。
呼び出された場所は、近所にある寂れたビルだった。三階建てで、外側に面した階段を三方から囲むようなデザインをしている。
建設当初は綺麗なクリーム色をしていたタイル張りの建物は、すでにくすんで灰色になっていた。
正面から見るとなんとなくオシャレな印象だが、左右からは今一つ中が見えにくく、結果テナント募集中のスペースが半分以上を占めている。
冷治は急ぎ足で三階まで登った。
このフロアはなにかの事務所が入っているらしいが、すでに明かりが消えている。
暗く感じないのは、下の階でまだ営業している店があるからだろう。
「菅原涼? どこにいるんだ?」
呼び出した彼女の姿が見えなかったので、冷治は声に出して呼びかけた。
「こっち……だよ」
声は、何故か、頭上から聞こえた。
見上げると、もう見慣れた顔がこちらを見下ろしている。
笑顔を浮かべていない菅原涼を、冷治は初めて見た。
濡れた瞳が、下階から届く微かな光を反射して暗く輝いている。
雫が一つこぼれ、冷治はそれで彼女が涙を溜めていたことに気づいた。
先ほど別れたときと同じ服装で膝を抱えて、天井にうずくまっている。
「なに……やってるんだ?」
問いかける声が震えるのを、止めることはできなかった。
「わからない」
最初の答えは静かだった。
「わかんないよ!」
大きな声で叫ぶ。
「わからない……よ……」
そして、三度目の言葉は震えていた。
冷治は大きく息を吸った。そして、空気を吐きだした。
「お願い……助けて……」
見上げると途方に暮れて泣いている少女が見える。
今まで見たことがない表情だと、そう思った直後に冷治は拳を強く握っていた。
(……違う。そうじゃない)
いつだって、彼女は笑顔を見せていた。見たことがなくて当然だ。菅原涼は決して、ネガティブな表情を見せなかった。見せないように、努力していたのだ。
菅原涼はずっと、やり直しのきかないゲームで間違った選択肢を選ばないように、努力を続けていた。
彼女が努力を続けられなくなったことで、はじめて冷治はそのことに気づいた。
もう一度息を吸って、吐いた。
助けよう、と冷治は決めた。菅原涼を助けよう。
(順番に一つずつ解決するんだ。まずは……現状の確認だ)
浮いている彼女に冷治は声をかけた。
「菅原涼。俺には君が天井にはりついているように見えるんだけど、あってる?」
少し間があって、それから彼女は首を大きく横に振った。
「……浮いてるだけ。はりついてるわけじゃない」
「降りては来られない?」
「わからない……。下手に動いたら、天井を突き破って飛んでっちゃうかもしれないと思って……動けないの」
「なら、まずは引っ張り下ろしてみるから、手を伸ばして」
伸ばした手はたぶん一メートル近く高い場所にあって、簡単には届きそうもなかった。
「……やっ!」
大きく気合を入れながらジャンプして、冷治は菅原涼の手を取り、引っ張り下ろす。
思ったより軽いその体は、重力に引かれる少年の体と一緒に床まで降りてきた。
高さが変わっただけで彼女の体はまだ浮いているが、とりあえずその浮く力は決して強くはないらしい。
「冷治くん、手がちょっと痛い」
「ごめん。どのくらいの力で引けば降りてくるかわからなくて。けど、これで重石があれば際限なく飛ぶわけじゃないのはわかったね」
握る力を抜くが、手は離さない。
「改めて聞いてもいい? なにがあったの?」
「本当にわかんないの。冷治くんのことを考えながら歩いてたら、いつのまにか足が地面についてなくて……慌ててもがいてたら建物の中に飛び込んでたから」
それからどうすればいいかわからず、悩んだ末に冷治に連絡をしてきたらしい。
「天井を突き破る心配は、たぶんないんじゃないかな。でも、ここにいるのはよくないよね。どっちかの家……俺の家のが近いかな」
彼女をもう一度床まで引き下ろし、飛び上がってしまわないように肩に手を回す。
教師に見つかれば怒られそうな絵面だったが、お試しとはいえ付き合っているのだから許容範囲ということにしてもらおうと思った。
肩を抱いたまま、冷治の家まで行く。
はた目にはずいぶんと仲睦まじく見えたことだろうが、会話はろくになかった。
その日はちょうど、冷治の両親は家を空けていた。
だから、二人きりの家で、菅原涼はずっと彼につかまっていた。
彼女の自宅には、いちおう連絡してある。めまいがして動きたくないと言うので、今日は泊まっていくと伝えたのだ。
信用してくれたのは、たぶん普段から冷治が彼女の家に顔を見せに行っていたからだろう。付き合いに家族を巻き込んでいた菅原涼の行動は正解だった……のかもしれない。
「……ごめんね」
と、彼女は言った。
「悪いことしたわけじゃないんだから、謝る必要はないよ」
「でも、迷惑かけてるよね」
「そうだね。けど、たまにはいいんじゃないかな。……恋人なんだし?」
精一杯がんばって、冗談めかした声を出すと、彼女はふふ、と笑った。
「いいの? 恋人で」
「まだ三ヶ月たってないだろ」
「そうだね。……三ヶ月たったら、おしまい?」
「続けてもいい。君がそうしたいなら」
ずっとつないでいた手が離れた。
代わりに、菅原涼の腕が首と胸元に巻きついてきた。
髪の毛が後ろから首筋をくすぐっている。
「怖がられるだろうなって、思ってた。突然飛べるようになるなんて」
「泣いて、戸惑ってる女の子を怖がったりしないよ」
「優しいね、冷治くんは」
「違う。君が相手だからだよ、菅原涼」
「ホントに優しいな……こんな時に言われたら、信じちゃうよ」
小さく、嗚咽する声が背後から聞こえた。
「わがまま……言ってもいい?」
「なに?」
「彼女でいいって……証拠が欲しい」
その後したことは、たぶんすべきじゃなかったんだと思う。
でも、目を閉じて待っている彼女を見て、冷治は拒絶することができなかった。
翌日からしばらくの間、冷治は菅原涼とずっと手をつないでいた。クラスメートや教師、家族にさえも冷やかされた。
その間に、意識を集中していれば空を飛ぶ能力を抑え込むことができるということもわかってきていた。
もしかするとかすかに浮いているのかもしれないが、少なくとも地面にいるように見せることはできていた。
気を抜くと浮き上がってしまうので、菅原涼は大変なようだったが……。
だから、彼女は家族がいないことの多い冷治の家へ頻繁に出入りすることになった。
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