第2話 名も知らない恩人のためにてきること
迷子になった少年は、目の前の女性が助けてくれるつもりなのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「あ……ええと……」
冷治がとまどっていることに、彼女はきっと気づいたのだろう。大人の――たぶん大人の女性は、ゆっくりとは次の言葉を発した。
「自転車、壊れちゃったのか?」
「……うん……はい。壊れたんです。外れちゃって……チェーンが」
あわてて冷治は答えた。
答えてから、変な言い方になったと思って、言い直す。
「チェーンが外れて、こいでも動かなくなっちゃったんです」
なるほど、と呟いて、彼女は街灯に立てかけたままの自転車を起こす。足で踏んで、スタンドを下ろした。
少しだけ宙に浮いた後輪の車軸部分を覗き込む。
車輪と平行にたくさん並んでいる歯車の、どれにもチェーンはかかっていない。車輪の中心から飛び出した金属の棒にぶら下がっている。
「確かに外れてる。戻せないのかな」
長い手を車軸のあたりに差し込んで、彼女はチェーンを引っ張り始める。
「あ、壊れちゃうかも……」
「どうせもう壊れてるよ。もっと壊れたって同じだろ。ええと……引っかけるだけじゃダメなのかな」
油に埃がこびりついて、真っ黒になっているチェーンを彼女は平然といじり始めた。
爪が何枚か蛍光ピンクで塗られているのが、薄暗い中でもはっきりとわかる。なんだかずいぶんとムラのある塗り方に見えた。
外れたチェーンを引っ張って、並んでいる歯車のうち、一番小さな1つにどうにか引っかける。鎖が歯にとりあえず噛み合うまで、おそらく数分かかった。
「これだけでよさそうな気がするんだけど……ちょっと、こいでみてくれるかな?」
「は、はい……」
スタンドで後輪が浮いたままの自転車に恐る恐るまたがり、冷治はペダルを踏む。
ゆっくりと車輪が回る音が響いた。
「うん、オッケー……かな、たぶん。暗いけど、1人で家に帰れる?」
「すみません……道、わかんなくなっちゃって」
「そっか。住所は? 言える?」
「えっと……俺が住んでるのは……」
小学校に入ってから、親に覚えさせられた住所を、冷治はすぐに思い出した。
「駅の近くじゃん。けっこう遠いね。隣の駅のが近いよ、ここからだと。えっと……その近くの大きな道まで出たら、わかる?」
「たぶん……」
「じゃ、連れてってあげるよ」
「……すみません」
並んで歩くと、彼女は4年生の冷治よりずいぶんと背が高く見えた。少なくとも彼の母親よりは高い。
「あの……」
黙って歩くことに居心地の悪さを感じて、話題もないまま冷治は口を開く。
「ん、なに?」
彼女はあくまでにこやかな表情のまま、少年に顔を向けた。
思わずうつむいた冷治の目に、ビニール袋の中身が飛び込んだ。イチゴのショートケーキと、たぶんビールと炭酸飲料の缶が一本ずつ。
「お酒……飲む人なんですね」
「ん? ああ、お姉さんは今日から飲めるようになったからな。まずは試しに飲んでみようと思ってさ」
「そう……なんですね」
その後どう話を続ければいいのかわからなくて、冷治は結局また黙ってしまった。
歩いていた時間はたぶんそれほど長くはなかっただろう。
大きな交差点で彼女は足を止めた。
「この辺ならわかるか?」
問われて周囲を見回す。広い道だ。
だが、彼が知っている道ではなかった。もしかすると、歩いていけば知っている道につながるかもしれないが……。
首を横に振った少年を見て、彼女は少し困った顔をした。
「なら、駅の方に行こうか。歩いてるうちに、きっと見覚えのある場所までつくよ」
「いえ……方向だけ教えてください。1人で歩けますから」
「遠慮するな。どうせ私もこっちに行くからさ」
それが本当かどうかはわからないが、心細かったので冷治は好意を受けることにした。
2人は並んで歩き出す。
「聞いても、いいですか?」
ようやく話したいことを見つけて冷治は口を開く。
「ん?」
「なんで、助けてくれるんてすか? 見ず知らずの相手なのに」
失礼な問いかもしれないと感じたのは、言い終わってからだった。
「理由の1つは、今日が気分のいい日だからだな」
笑いながら、彼女は答えた。それから、なにがあったのか聞くよりも早く、少し真面目な調子で言葉を続けた。
「それとね。私が君に優しくしたら、君も明日から誰かに優しくしようって思うだろ。そして、君が優しくした相手も、誰かに優しくしようと思う」
よくわからなかったけれど、とりあえず冷治は頷いた。
「そうやって色んな人が誰かに優しくしようと考えるようになったら、私が困ってるときにも、きっと誰かが優しくしてくれるはずだよな。だからだよ」
「……そんな風に、うまくはいかないと思います」
「まあな。でも、情けは人のためならず、って言って昔からある考え方なんだ。自分の為じゃなきゃ親切一つできないってのも悲しい話だけどね」
なんだか難しい話だ。そう思いながら、少年はなんとなく空を見上げた。
「……あ。流れ星」
闇の中に二筋の明るい光が移動している見つけて、彼は呟く。
「へえ、こんな明るいところで見えるなんて、珍しいね」
彼女も空を見上げる。
その後、さらに次々と光が流れて雨のようになったのは、いちおう覚えている。
とても綺麗だったような気もする。
やがて空の光が赤と青の二色を帯び、空を紫に染め始めたが、天文に詳しくない少年はそういうものなのだと思って気にもとめなかった。
実のところ、その流星群は、後の事件にとってずいぶん重要なものだったらしいのだけど、この時の冷治にそれがわかるはずもない。
流星群を見ながら歩くうちに見覚えのある場所までたどり着き、彼女とはそこで別れた。
冷治の記憶にはっきりと残ったのは彼女との会話と、別れた後でその日が彼女の二十歳の誕生日なのだと気づいたことだった。
名前も住所も聞いていなかいから、改めて連絡をすることもできない。
別に彼女は気づいて欲しいとは思っていなかっただろうが、助けてくれたあの人に『おめでとう』と言ってあげられなかったことを、彼はずっと気にかけている。
だから、冷治はその日からなるべく人に優しくしようと決めた。
そうすれば、きっといつか誰かが、彼女に優しくしてくれるはずだからだ。
7年が経過して、高校生となってからも彼はそうし続けていた。
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