第35章

ライは車を走らせながら泣いていた。


スパイである自分は幸せな時間など望んではいけなかった。しかし、絹代と過ごした時間は確かに幸せそのものだった。

絹代は、自分の事を無条件で必要としてくれた唯一の人だった。


随分と走ってから車を停め、ライは絹代のカバンの中をチェックする。


中にはライが渡していたカプセル、財布、ハンカチ、鍵2本、生理用ナプキンが入っていたポーチ、携帯が2台出てきた。1台には田山からの着信が何件も入っている。

保冷バッグには採取した精液。


ライは特殊な工具で2台の携帯電話を破壊した。


そして財布の中から百円玉を取り出して、自分のコートの内ポケットに入れた。


絹代との思い出の為だった。

スパイの自分にはこれくらいしか手元に残せない。酷く虚しかった。


もう明け方になっていた。


台車を川の中に投げ捨て、更に車を走らせた。


シリコン容器の中身は公園のトイレで捨てた。


手袋と雨合羽、段ボール箱、布団圧縮袋、洋服類、絹代の荷物、シリコン容器、などは幾つかに分けてゴミの集積所に出した。


また車を走らせる。


手元に残ったのは財布の中身、壊した携帯、抜いた歯だけだった。


シェアカーを返却し、自宅へ戻った。


夜通し走り回って、どっと疲れが出る。倒れこむように床の上で眠ってしまった。




何時間過ぎただろう。

誰かに名前を呼ばれている。


「ニコライさん、ニコライさん、無防備過ぎますよ。」


ライは飛び起きて体勢を整えた。


若い男が立っている。

「大丈夫です、何もしませんよ。お久しぶりです。ニコライさん」

アラビア語だ。


「誰だ。」


「貴方に連れ去られた子供です。あの時はどうも…。今はミハイルと名乗っています。」


あの時の子供…。同類だ。どうする?


ライの額から汗が流れる。


「だから、何もしませんよ。安心してください。

ただ、今回のはイケませんね。遺体損壊と遺体遺棄。ですか?

まぁ、あのままほっといたら事件はもっと大きく報道されたでしょうし、ニコライさんにも捜査の手が伸びたでしょうから、ほとぼりが冷めるまで隠すってのは良いと思います。

でもなんだってあんな見つかりやすい場所に?もうとっくに警察が見つけましたよ。」


「見てたのか?」


「正確に言うと、知らされた感じですかね?四六時中監視してるわけじゃ無いですから。」


「知らされた?」


「警察の情報なんて、こちらの手中ですよ。知ってますよね。」


「俺を殺すのか?」


「だから、何もしません。ただ任務からは外れてもらいます。」


「だろうな。」


「後任は僕です。」


「わかった。何なら、俺を殺してくれないか。」


「僕達が個人的な理由で人を殺すのも自分を殺すのも不可能な事は知ってますよね。全ては任務です。僕に貴方を殺す指示は出てません。」


「悪かった。」


ミハイルは置いてあったリュックの中を漁りながら、


「直ぐに動くと目立つので、このまま任務継続です。指示を待ってください。あと、コレは僕が処分しておきましょう。

まったく、女が必要だったんなら、その辺の奴にしといてくださいよ〜。

まさか本気だったなんて言わないでしょうねぇ?」


ミハイルはそう言って、まだ処分出来てない物を手に部屋を出て行った。


年が明けた1月、任務は解かれ、新しいパスポートと共にライは日本を去って行った。

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