6
逃走に必死になっててよかった。
俺はナンノに抱えて馬車を飛び出していた。荷台はゴロゴロ転がって粗大な破片になり、運良く難を逃れた馬は悲鳴を上げながら走り去っていった。
どくんどくん、と心臓が激しく脈打って悪寒が発汗へと変わり身体が熱を帶びていた。
地面に目をやる。
転がっている破片が自分の未来だったかもしれないと思うと、悪寒が再び背中をさすってきた。前を観る。
闇の中、魔物がこっちをみて、立っていた。
『ぎゃは』
動物の鳴き声ではない。
『ぎゃはははっ! ぎゃはははっ!』
おどろおどろしさが闇に相まって、
『ぎゃはははっ! ぎゃはははっ!』
嗤って自己主張する存在は、
『ぎゃはははっ! ぎゃはははっ!』
ずっとすごく怖い。
『ぎゃはははっ! ぎゃはははっ!』
魔物は知能ではなく本能で動く生物であって、鈍感ではない敏感な生物だ。魔物は人を襲ってくる。襲われたら戦闘か逃走かの二択に迫られるわけだけど、立って嗤う魔物なんて聞いたことがない。
今回のダンジョンのように特殊な状況でない限り、背後を取れる体験もほぼない。喋る知能的な魔物ももちろん知らない。冒険者ではない俺の情報は魔物について知識が精確じゃないかもしれないけれど、おそらくナンノの妹さん関連。
枝に干された上着のように宙ぶらりんとなっていた俺は、居た堪れなくなりお願いした。
「…………」
ナンノさん、助けて頂いて感無量なのですが、下ろして頂いてもよろしいでしょうか?
「はっ、抱き心地がよくて失念しておりました」
女性に軽々しく抱えられている男ってどうよ?
俺はナンノは丁寧に地面へと下ろしてもらう。
「旦那様、申し訳ありませんが少々お持ちください。まったく、あの子は常識が成長していませんね」
嘆かわしいといわんばかりに小刻みに頭を横に振るうと、ナンノは魔物へ向き直り近寄って云った。
「久しいですね。トウマ」
トウマと呼ばれた魔物はあいも変わらず嗤っていた。
『ぎゃはははっ!』
「トウマ」
『ぎゃはははっ!』
「トウマ」
『ぎゃはははっ!』
ただ、ただ、嗤っている姿はやっぱり怖い。
「煩いですね。無視しますよ」
『ごめんなさぃ。無視しないでお姉ちゃん。お姉ちゃんに逢えたからテンションあがっちゃって』
ナンノはもっと怖い。
というか、お姉ちゃんって。
魔物が発する声が可愛らしい異質な光景を目撃して気持ちの落ち着かない俺へ、ナンノは隠し事でもなんでもないのか、端的に応えた。
「旦那様、申し訳ございません。愚妹です」
へ、妹さん?
「トウマ、旦那様にご挨拶を」
『やっほぉ、トウマだよ』
フランクな挨拶だった。
見た目と全く合致しない軽い挨拶だった。
だからといって、警戒心がとけるわけもなく、益々増加していくだけだった。さりとて挨拶をしてくれた魔物の妹さんを無視するできず、俺はこんばんはと頭を下げた。
「うんうん、お利口な玩具だねぇ」
魔物の表情に変化がないのに、舌なめずりされている気分に陥った。
冒険者をゴミ扱いする姉の妹が良心的なわけがなかった。こっちは人を玩具扱いだった。
「旦那様」
まだ紹介は終わっていないらしく、ナンノは説明混じりに続ける。
「妹の《トウマ》です。この姿は本来の姿ではありません。遠方からこの工作物を操作していまして、トウマ自身は別の場所にいます」
声色と見た目が合わないのは魔物が本人ではなく、魔物に似せた工作物を操作しているからとのこと。
「工作物というのはこのような改造した魔物や私が封印されていましたダンジョンの罠などを指します。罠は自動でゴミの処理できるのはいいのですが、製造に時間がかかるのがデメリットでしょうか」
『ゴミじゃなくて玩具だよ』
処理は訂正しないんだ。
「声色は幼稚ですが馬車を破壊する活発な性格ですので、油断なさらないようお願い致します」
『お願い致しまぁす』
その姿で可愛らしくお辞儀されてもお願いされたくない。
ナンノは俺をみた。あ、ああと俺は二回頷く。おそらく、妹さんと二人で会話するのに了承を得たかったのだろう。ナンノは会釈をすると妹さんに向き直って会話を始めた。
「トウマ、元気にしていましたか?」
『もちろん、元気だよ』
「そうですか」
『お姉ちゃんも元気だった?』
「ええ。といっても眠っていただけですけど。私はどれぐらい眠っていたのでしょうか?」
『どれぐらいかなぁ。多分100年? 1000年? ぐらいは経ってると思う』
「そうでしたか。旦那様に話して頂いた折に時代が変化しているとは思いましたが《セプテム》は王政にとって都合のよい社会に変えられたというわけですね」
『うん? お姉ちゃん、セプテムって何だっけ?』
「一応、国です」
『そっか、国かぁ』
住んでいる世界は知っておこう。
異質な光景だ。夜の道中で魔物姿の女性とメイド服の女性が雑談している。それが姉妹と解れば異質さ倍増だ。紹介もさらりと終わって、凄い衝撃的な事実が開示されたと思うのだけれど、話は淡々と進んでいった。
「まあ、いいでしょう。それで今回の工作物は貴女が以前から創りたいと云ってた物ですか?」
『そうなんだよ! やっと成功したんだよ。面白いでしょ? 遠くからでも自分の思い通りに動かせるようになったんだぁ。自分の分身みたいでしょ?』
「分身でも自分で動かしているのではないですか」
『難しい動きじゃなければ自動で動かせるよ』
「ダンジョンの罠の魔物みたいにですか?」
『うん。ダンジョンの罠も面白かったでしょ? 最深部まで到達したら、入口が閉じて魔物が出現するようにしてた。一度入った玩具が出られないようにしてたのにお姉ちゃん全部破壊しちゃったでしょ?』
「外に出るのに破壊する以外に脱出方法があったのですか?」
『ないよぉ』
「では、そうせざるを得ません」
『ま、造り直すからいいんだけどね。壊してくれたおかげでお姉ちゃんの封印が解けたのも解ったし、いいよ』
「それが待ち伏せできた理由ですか。それにしても、何が楽しいのやら」
『お姉ちゃんは判ってないなぁ。無駄だって云いたいんでしょ? 無駄だから楽しめるんだよ』
「それは一理ありますが」
『おおっ! お姉ちゃんも造りたくなった? 僕と一緒にいれば手とり足とり教えてあげるよぉ』
「いいえ」
『そんなこと云わないで、やってみたら面白いかもしれないよぉ。ね、また一緒に遊ぼうよ。あれかな、封印したの怒ってる?』
「いいえ。怒ってはいません。別に貴女を怒る理由はないでしょう」
『よかった。それでね、お姉ちゃん――』
「トウマ」
ナンノは会話を遮った。
「貴女に正しておくべきことがあります」
『うん? 何?』
「先ほどから貴女は私との理想を語っていますが、私には叶えられません」
『はは、何云ってるの?』
「私は旦那様に誓ったのです。この身を尽くすと」
『え、え?』
「ですから、貴女に訊かなければならない案件があります」
『え?』
「トウマ、何故、旦那様が乗っていた馬車を襲ったのですか?」
さっと、空気が張り詰めた。
鋭い目つき。
それは冒険者たちに向けられたモノと同じだった。
『え、何? お姉ちゃん、あれぐらいじゃ掠り傷さえつかないでしょ?』
「旦那様は私たちと同じではないのです」
『玩具が何?』
「旦那様の害となるべき存在は許されないのです」
『何、それ。旦那様って。お姉ちゃんをいまだから封印を解除できた。それだけでしょ?』
「忠告です。いかなる理由があったとしても、旦那様を傷つけるモノは許しません。たとえ、妹であろうと」
『へ、どうしたの? 知ってるでしょ? どうせ、この玩具も結局は同じだよ。こんな玩具より、僕の方がいいよ。絶対、お姉ちゃんを裏切らないもん。この玩具、絶対逃げるもん!』
姉妹に何があったのかは知らないし、見解の相違があったのかもしれないれど、雑談の端々で解ったのは人間の俺が介入すべき話ではないということ。
人外の話、そう捉えるのが自然だ。
人類の根幹を揺るがす話が雑談で行われているところに、俺が立ち会っているのは場違い。世間に実体験を吹聴したところで、噂程度で流される内容。
二人のような存在がいるのはそうなるべくして存在している、なるようになってしまう未来がやってくるのが現在となっただけなのだろう。
妹さんの発言は正しい。俺は必ず逃げることを優先する。
まだ人生を楽しめるなら生きていこうと思っている。寿命のある限りは謳歌したい。
俺はまだ余生を楽に過ごしたい。と俺の利己的な答えを含んでナンノは、
「そうですよ」
えっ?
『えっ?』
自分のことのように肯定して続けた。
「そうだからこそ、私は旦那様に誓ったのです」
『何それ?』
ナンノは飄々と答えた。
「私の性格は貴女も知っているはず、嘘が嫌いです」
『だったら――』
「旦那様は始めから逃げる気まんまんなのです。いまも逃げる選択肢しか選んでいません。うふふ。自分に正直で素敵でしょう?」
ナンノは俺の姿を見て、至極楽しんでいる様子だった。
『…………』
「色々な選択肢が増えているに旦那様は逃げを選ぶのです。
その選択は私にも貴方にも持ち得ない感情から生まれるもの。
貴女が旦那様に向けた感情は私が貴方を殺してしまう糧となる。
私がいま貴女と会話できているのは旦那様がそばに居て下さるから、
貴女に逢えたのは嬉しいと伝えられる。
体調を確認できたのも満足しています。好きな工作をしてくれて安心しました。
トウマ、勝手なことばかりする姉を許してください。貴女たちは私に縛られてはいけない。私がいない間と同じように自由にすればいいのです。私を気にする必要はありません。それを伝えたかった。それではトウマ、縁があったらまた逢いましょう」
話はこれで終わりといわんばかりにナンノは言い切った。
「旦那様、お待たせして申し訳ございません」
ゆっくりとナンノは妹さんをそのままにして俺の方へと向かってくる。
少し間関与しただけだから、妹さんの性格を完全に理解しているわけではない。でも、挨拶が馬車を破壊する狂人であるから喧嘩ぐらいはあると予想していたけれど、ナンノの答えを聞いた彼女は冷静だった。
『そっか。解った』
静寂の闇夜。肌寒い中、三つの影が立っている中、唯一見えていた背中。表情の確認できない生物が、ぐるり。
首だけでこっちを観た。
俺はとっさに後ずさって距離をとる。首はゆったりと言葉を発する。無表情のはずなのに髑髏が嗤っているように見えた。
『お姉ちゃんを狂わせたの、その玩具なんだね。必ず壊して見せるよ。そうしたら、また僕と一緒に居てくれるよね。お姉ちゃ――』
「許さないと言ったはずです」
ナンノは花を摘むようにトウマの首を捥いだ。ちぎれた首はゴロリと床に捨てられ双眸が赤く点滅している。瞬いた間の出来事だった。
「旦那様、心配はありません」
ナンノはゆったりと俺に近づく。
「私は旦那様を見捨てるような真似は致しません」
見捨てるって原因作ったのナンノだよね?
どん、とナンノの背後で破裂と共に工作物は火柱を上げ吹き飛んだ。ナンノが俺を安心させるために微笑しているのが逆に恐怖となり、数時間前の光景も思い出され悪循環が増加していく。
「さあ、旦那様。冒険の始まりでございます」
旅から冒険へ危険度レベルアップ?
「大丈夫です。私が愚妹から旦那様をお護りしますのでご安心下さい」
詐欺士ナンノは頼もしい台詞をキリッと云った。
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