20・使うもの、使われるもの
どつりと重たい音を立て、ブリュンヒルデが瘴気のかたまりを貫く。勢いそのまま、巨大な剣は赤と青の軌跡を残して飛び、本棚の扉へ突き刺さる。
鼻先をかすめていったそれを、ソラは見ていなかった。投擲した直後に近くで破裂した爆風にあおられ、吹っ飛ばされたメビウスだが、たんっと地面に手をついて転がると、すぐにがばっと立ち上がる。その太陽の瞳は、真っ直ぐに空色の少女を見つめていた。だが、普段の笑みはそこにはない。彼女に向かっていた脅威は自身が間に合わせて取り去ったというのにも関わらず、緊張の糸が切れていない。
ソラの全身に、魔法陣が浮かび上がっている。緑色に発光するそれは、彼女が
途端、華奢な少女の身体が膨大な光に包まれる。まるで質量をともなっているような、不透明な白い……それでも光としか言いようのない代物だ。立て続けに放たれようとしていた瘴気の爆弾をぬるりと塗り返し、
ぞわりと身体中を走り抜けていった嫌な感覚に、メビウスもウィルも肌が粟立つ。それは、二人とも覚えのある感覚だった。
「……嘘、だろ?」
絞り出した声は、からからに乾いていた。この場を支配していた光が急速に収束したお陰で、ソラの姿がよく見える。浮かび上がっていた魔法陣は、消えていた。
その代わり。
「……ソラちゃん……。その、手……」
空色の少女の、肘の上ぐらいから爪の先までが。
艶のない漆黒に飲み込まれている。光をも通さぬ漆黒が、いびつな手の形を模して長い袖の下から見え隠れしている。肘から手首にいたるまで太く大きくなっており、指先はまるで鋭利な刃物のようだ。大きな手のひらは、人間の頭どころか自分の細い腰などぐるりと簡単につかめるだろう。
そしてなにより。
いびつな手は、あの魔王だったもの……魔王の成れの果てと同じ、瘴気とあらゆる負の感情を一緒くたにして煮詰めたような、
二人の驚愕した顔をゆるりと見て、ソラは小さく微笑んだ。
「大丈夫。
「それは、どういう――」
「まずは、あのかわいそうな子たちを還してあげなきゃ」
メビウスの言葉を遮り、少女は地に落ちた
「終わらせるには二つ。すべての魂を使い切るか、瘴気ごと魂を浄化してしまうか」
動けなかったのは、二人だけではない。
ソラは口元に笑みを湛え、
「怯えなくていい。すぐ終わるから、暴れないで」
優しい笑みを湛えたまま、少女はもう片方の手をかざす。かざされた左手は瘴気を取り込んで大きさを増し、鋭いナイフのような指を開いて
赤黒い血が、ソラの真っ白い衣装に模様を作る。
「たくさん、たくさん、詰め込まれたのね。本当は、一つの身体に一つの魂のはずなのに。還るべき身体も、ないのね」
まるで一本調子の、淡々とした言葉の羅列。天使然とした表情とまったく噛み合っていないその姿はあまりにもちぐはぐで、めまいを起こしそうになる。
「かわいそうな魂たち。還るべき場所が見つかるまで」
――わたしと一緒に、
頭を掴む手が、ひときわ強い光を発する。
「……違う」
呆然と見つめていたメビウスだったが、ぽつりと呟いて泣きそうな声で叫んだ。
「ソラちゃん、ダメだ! そんな方法は、ソラちゃんだって望んでないだろ!」
後ろからソラを強引に引きはがす。地面まで突き刺さっていた指は、思っていたよりも簡単に抜けた。自由になった
「まだ全部吸い込んでない……」
ぼんやりと口にした少女を、くるりと自分の方へ向ける。深い光を湛えているはずの夜空色の瞳にちからはなく、どこを見ているのかわからなかった。白かった衣服は、自身で傷つけた魔獣の返り血で更に赤く汚れている。メビウスはソラの黒く変質した両腕を掴むと、強い口調で言う。
「ソラちゃんの決意は嬉しい。嬉しいけど、ソラちゃん一人で頑張ることはないんだ。一人で抱える必要はないんだッ」
「でも、これは、わたしにしかできないことだから……」
「違う! 違うよ、ソラちゃん」
太陽の瞳で、真っ直ぐに少女の夜空色の瞳を覗き込む。
「ちからに呑まれるな! ソラちゃんは、魂を強制的に奪ったりしないだろ」
「ちからに、呑まれる?」
言葉を繰り返し、ソラはきょとんと大きな瞳をまたたかせた。
「魂の感覚を忘れちゃいけない。初めて話したとき、そう言っただろ。いまのソラちゃんは? 命の感覚を覚えてる?」
「あ……あ……」
小さな声をもらしながら、夜空色の瞳が激しく揺れる。自分のしたことを、ようやく自覚したようだ。少女を見つめる太陽の強い光をとらえ、ソラの身体から緊張がとけた。漆黒の両手からも、あの嫌な感じは薄れつつあるのを感じ、メビウスは手を離した。
「魂を使い切らせるか、すべて浄化するかって言ったよね?」
本当なら、もう少し落ち着くまで待っていてあげたい気持ちを押し殺し、メビウスは放心して立ち尽くす少女に問う。彼女がうなだれたまま小さくうなづくのを確認し、彼は自信を持って口にした。
「浄化する方法ならある」
そう言って見上げたのは、
メビウスの視線を追い、本棚の真髄を眺めたウィルは少年の言葉の意味を悟る。
「……まさか、遺跡の真髄にぶつけ、防護機能を起動させるつもりですか」
メビウスは返事代わりに、いつも通りのへらりとした笑みを浮かべた。扉に突き刺さった得物に向かって歩き、右手でそれを抜くと肩に担いで戻ってくる。
「さっすがウィル。遺跡の核とも言える場所に仕掛けられた防護機能なら、あんだけの瘴気のかたまりも浄化できるんじゃねーか?」
魂すら握り潰されたような、凄惨な咆哮があがる。
放心状態だったソラが、制止を振り切って魔獣の前へ飛び出していく。漆黒の両腕で魔獣を押しとどめながら、ソラは強い決意を乗せて言う。
「準備ができるまで、わたしがこの子を止める。だから、合図をお願い」
大きな瞳は意思を持って
「……ウィル」
「わかりました」
メビウスの身体に、ウィルの詠んだ魔法陣が浮かぶ。
「混沌の外に住まうものよ。我が命を喰らいて護りの障壁を成せ」
ウィルの
あとは、覚悟を決めるだけ。
ちらり、と
「今だ! ソラちゃん!」
合図であり、鼓舞する叫び。ソラもそれに応える。魔獣を一気に押しやり、渾身のちからで殴り飛ばした。同時に、少年もブリュンヒルデを構えて飛び出す。
ドンッ! と巨木に
言葉が届くかどうかもわからない。
それでも、メビウスは呟かずにはいられなかった。
「オレが君を助けた。だからこれは、オレの責任なんだ」
――最期まで、オレも一緒に背負うから。
ブリュンヒルデは
ばちばちと空気が帯電し、弾ける。圧倒的なちからを纏った神族の残した罠が、鎌首をもたげて真髄に近づいたものたちへ一斉に襲いかかった。
凄まじいちからの奔流。浄化とは名ばかりの暴力的な光に身体を焼かれながら、メビウスは
だが。
覚悟していた、呪詛の言葉は聞こえない。
それどころか、瘴気を帯びた自分の身体が浄化されていく。瘴気が消えた身体には、防護機能が反応しなかった。いつの間にか――ブリュンヒルデにも。
――ブリュンヒルデを使うもの。
聞こえてきたのは呪詛ではない。硬質な、機械的な音声だが、その声は遺跡のなかで唯一メビウスの存在を認めているものの声だった。
ずっと、外の世界の記録を続けていたもの。故に、少年が、ブリュンヒルデではないと判断できるもの。
――あなたの記録はすべて私のなかに。
――あなたは、メビウス・エイジアシェル。ブリュンヒルデを使うもの。
脳内に響いた柔らかい言葉に、メビウスははっと顔をあげ、大樹を見上げた。
それは、彼が聞きたくて聞きたくて仕方がなかった言葉だったから。
渾身のちからで縫い留めていた、両腕のちからが抜ける。
強制的に自分のなかに吸いだした、成れの果てと同化させた瘴気まみれの魂ではない。
気が付いて、空色の少女はすっと視線を落とし、自分の漆黒に覆われた両手を申し訳なさそうに見る。
ブリュンヒルデで縫い留める必要はもはやない。
ひとであった痕跡など、なに一つ残っていないただの肉塊。それは最期に小さくうごめいて、ベースとなった少女の顔を生み出した。黙って見守っていたメビウスの表情が、一瞬強張り歪む。
太陽の暖かさを映した少年の瞳を見据え。
少女の顔は、うっすらと微笑んだ。
「――ッ!」
刹那。
魔獣だった肉塊が、音を立てて崩れ落ちた。ぼろぼろと風化し、風に溶けていく。
少年の目の前を、色の変わった葉がはらりと落ちていく。メビウスは、小振りな剣に戻ったブリュンヒルデを鞘へと戻し、空を見上げた。
はらはらと。
大樹が急激に枯れていく。
それは――まるで。
――遺跡が流した涙。
魔族の作り出した哀れないきものから
世界の本棚は、いま、本当の意味で死んだ遺跡になったのだと、ソラは知った。
誰も住んでいない居住空間も。
誰も乗ることのない、昇降機も。
世界を記録し続けていた、
――ぽたり、と。
いつの間にか、大きな両の瞳から涙があふれ出していた。
住むものがいなくなっても、ずっとここに在り続けた遺跡。住人たちの帰りを待ち続けるように、想像もつかない長い時間、世界を記録し続けた遺跡。
それがなぜか――あまりにも悲しくて。
空色の少女は、漆黒に染まった両手で自身を抱きしめながら、静かに泣き続けた。
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