17・本当の狙い

 唐突に、メビウスの瞳が開く。少年は何度か瞬きしたあと、頭上で手を握る少女に向かってへらっと笑った。


「メビウス……?」


 ソラの声は、動揺にあふれていた。夜空色の大きな瞳も、せわしなく揺れている。意味がわからず、メビウスはきょとん、と首を傾げ――手で自分の頬を触った。


「…………」


 そのまま、黙りこくって自分の左手をじっと見つめていた。右手を離してもらい、むくりと上半身を起こす。そして、ごしごしと目をこすった。


「メビウス、いま……」


 なにも言わず、背中を向けたままのメビウスに、少女は遠慮がちに声をかける。彼女も、いま見たものが本当かどうか信じがたかったからだ。

 少年が目を開いたとき。

 太陽のような朱の瞳から、涙があふれたような――。


「サンキュな、ソラちゃん。手がばっちり治ってる」


 立ち上がり、ひらひらと背中越しに右手を振って見せるが、彼女を見ようとしない。


「それにまた、君の声が聞こえた」

「え?」

「少しだけ、相手のペースに引きずられかけたとき、雨の日と同じ声が聞こえて……。それで、声のするほうに手を伸ばしたんだ」


 ようやっと、メビウスは振り向いた。すっかり見慣れた笑みを浮かべた顔には、どこにも涙の影など見えやしない。ソラは狐につままれたような気分で、少年の顔をまじまじと見る。


「……ん? オレの顔になんかついてます?」


 にやけ半分おどけ半分。すっかりいつも通りの彼だ。ぐるりと身体ごと回転させて見つめてくる彼女の手を取って引き寄せると、無駄に胸を張った。


「いやいやどんどんじっくり見ちゃって? 惚れちゃってもいいんだぜー」

「馬鹿坊ちゃん! そんなことしてる場合じゃないのよッ!」


 彼の影から飛び出たオオハシが、大きなくちばしで少年の頭を勢いよくどつく。「あいたッ」などと言いながら地面とキスしそうになったメビウスは、ソラから手を離してどつかれた場所をさすった。


「坊ちゃん、たった数分寝てただけで寝ぼけちゃったんじゃないでしょうね? とにかく、ウィルのところへ急ぐわよ!」


 けたたましく喚きながら不死鳥は、神獣らしからぬ特徴的なくちばしを使ってメビウスを立たせると先行して飛んでいく。一緒に立ち上がったソラとともに追いかけながら、少年は先ほどの追体験がたったの数分だったということに驚いていた。


 オレは、もう一度同じ人生を辿っていたかのように感じていたのに。


「……たった、数分か」


 呟くと同時に、目指す部屋の壁が派手な音を立てて吹き飛んだ。足を止め、爆風に背を向けるとソラを守るように抱え込む。間一髪、部屋から飛び出してきたウィルが非難の声をあげた。


「なにしてるんですか坊ちゃん! その過保護っぷり、少しは僕にもわけてもらいたいもんですね!」


 かなり棘を含んだ物言いに、メビウスもさすがにかっとなった。怒鳴り返そうとして、部屋だった場所から現れたものを見、言葉を飲み込む。ルシオラと共に感じた瘴気。否、そのときより何倍にも膨れ上がった濃厚で強大な魔のものが持つ空気を纏ったそれを見て、ドクターがどこを狙って針を飛ばしたのか悟ったのだ。

 標的は、ソラではなかった。もちろん、当たっても構わなかったのだろうが、彼の去り際の言葉を思い出すとメビウスが少女を庇うのを予想して、つまりは自分を狙ったのだろうと考えていた。しかし、それもまた違ったのだ。少年に当たった針は一本。他の針はすべてソラの背後にあった遺跡の壁に激突し、が眠る部屋の扉を破壊した。運が悪かったわけでも、偶然でもない。部屋に激突したのが必然で、それこそが魔族の狙いだったのだ。


 精神を蝕む毒。


 少女はいったい、なにを見たのだろう。なにを見せられたのだろう。


 なにを見たら、人間はこんな姿に変貌してしまうのだろう。


 ずるり、と粘り気のある音が響く。後ろにいるソラが息を呑む。

 ぎょろりと見開かれた瞳には白目も黒目もなく、一様にしろがねだ。そこだけは、谷底にいた魔人と変わらない。

 魔族は、あれらを『研究所のゴミ』と言った。魔人たちがまとっていたのは、服とも言えないほどのボロ切れになっていたりしたが、中には布を被っただけのような簡素なワンピース状の衣服を着ている子供もいた。その衣服は、メビウスが怪鳥ルクから助けた少女が身につけていたものとよく似ている。いまは、ぶよぶよとした肌のようななにかにへばりついているだけの代物になってしまっているが。


 キミならボクの実験に耐えられるはずだ、という不穏な言葉が思い出され、ぎりっと歯噛みした。

 あの、瘴気の吹き溜まり。あそこは、魔族の実験でできた出来損ないを捨てていたからできた場所だったのだ。一人二人ならばともかく、大量に捨てるとなれば研究所とやらはそれほど遠くでもないだろう。運ぶのだって楽ではない。なにせ、人間どころか鮫までいるぐらいなのだから。

 つまり、怪鳥ルクから助けた少女は。

 研究所と呼ばれる場所から、逃げ出してきたのではないか――。

 それも、すでに――なんらかの処置を加えられたあとに。

 そうでもなければ、説明がつかない。精神を蝕む毒に囚われたとしても、姿形すら変わってしまうなどということが起きるだろうか。


 この場にいる全員の視線を釘付けにしているもの。

 少女であったことなど、もう想像もできない。二回りほど大きくなった、ぶよぶよとゼリーのようにうごめく肉塊。その中に埋まっている短い手足。顔だけは人間であったときのそれを残しているが、それでも単に目と口が確認できる程度のものだ。顔のようなものは、頭とおぼしき場所の他、肩や腹、さらには指先まで大小様々な顔がにちゃりとくっついて、奇声をあげている。背中からは骨のような白い棒切れが突き出し、ボロ布のような比翼がまとわりついていた。

 動くたびに、黒いなにかをびちゃびちゃとまき散らし、少女だったものは前進する。黒いものが触れた場所はぶくぶくと溶け、弾けた泡から瘴気を吐き出した。


「……ウィル。あれは」


 確認するまでもないことはわかり切っている。それでも、口に出さずにはいられなかった。


「坊ちゃんが助けた女の子ですよ。あの針にまとわりついていたどす黒い瘴気。針が掠った場所から侵入して、オオハシさんから瘴気を遮断して時間を稼ぐよう言われました。でも、アレは僕の防護陣プロテクトを破壊して――」


 話しながら二人の近くにやってきたウィルの顔からは、完全に血の気が引いていた。間近で、少女が変化するさまを見ているしかなかったのだろう。魔族の趣味の悪さと自分の無力さの間で、なんとか冷静さを保つように努めているように思える。


「オレもさっき、アレに取り込まれかけた。瘴気に慣れてたって、ソラちゃんとオオハシさんのちからを借りてギリギリだったんだ。普通の人間が取り込まれたら、ひとたまりもねーさ」


 メビウスのさらっとした告白を聞いて、少年も針の一撃を受けていたことを思い出す。あのときはルシオラのこともあり、正直まわりがあまり見えていなかった。メビウスが少女と同じ攻撃を受けていたのだから、すぐに駆け付けてこないのはなんらかのアクシデントが起こったと考えて当然のはずなのに、と眼鏡の青年はバツが悪そうに視線を落とす。そんなウィルを見て、メビウスはぽん、と背中を叩いた。


「魔人化した人間は元に戻らない。それぐらい、わかるよな?」


 そう言った太陽の瞳は、すでに青年を見ていない。白い光を放つ得物を構え、標的を見据えている。


「わかりました。僕はサポートとソラさんの守りにまわります」

「よし。そんじゃ……ッ!」


 勝気な笑顔で放った言葉は、最後まで吐き出されることはなかった。標的が、少女だったものが思いもよらぬ速さで移動したからだ。ぶよぶよとした身体からは想像もつかない。一瞬で視界から消え、経験が弾き出した答えに賭けてブリュンヒルデを斜め上に大きく薙ぐ。硬く、重いものが当たった感覚があり、メビウスは身体ごと回転させる勢いで右腕を振り抜いた。力負けして吹き飛ばされた魔人を、きらめく星屑が追う。


「ウィル! ソラちゃんと一緒に距離を取れ! 見た目と違って敏捷だ!」









「懐かしいでしょう? どうですか、久しぶりの生まれ故郷は」


 魔女を待ち構えていた先。そこは、誰も知ることがないと言われている旧エイジアシェル王国があった孤島の上だった。孤島のまわりは常に深い霧に包まれており、更に海の中には鋭い岩礁がそこかしこに散らばった暗礁帯となっている。暗礁は元々あったものだが、霧は封印と共に現れたので何らかの魔法的作用が働いているのだろう。


「お前にとっても懐かしい場所だろう? 憎きブリュンヒルデに封印された思い出の地だ」


 霧は、孤島の中心部だけ晴れている。下を見れば、朽ちた王国や封印された亀裂の跡もしっかりと見渡せた。すべてが、伝説の物語などではないと、主張してくる。

 そんな孤島の上空で、うっすらと笑みを浮かべながら対峙する二人。互いに浮かべた笑みは仮面のようなもので、決して本心からの笑顔ではないのが透けて見える。


「いやあ。ボクにとってはむしろ新たな生誕の地と言っても構わない。ふるきものを捨て、悪しきことわりから解放してくれた、素晴らしい場所だッ!」


 大げさに両手を広げて称賛した。芝居じみた一連の動作を眺め、ルシオラは一層笑みを深くする。


「旧きものとは、魔王のことか」

「さて? お好きなように解釈を」

「残念だが、お前が魔王を殺し、切り刻んで人間界こちら側へ捨てたことは知っている。私が聞きたいのは、なぜそんなことをしたか、だ」


 ドクターは両手をあげて、降参とも見えるポーズをしながら首を横に振る。


「そこまで知っているのならわかるでしょう? 最果ての魔女」

「さあな。わからんから聞いている。なぜ、お前ごときがそんな大それた真似をしたかがな」


 変わらぬ口調で問うルシオラに対し、魔族はこてん、と首を傾げた。


「大それた……。意外だなあ、あなたの口からそんな言葉を聞くとは。使えなくなったものを始末する、それは当たり前のことでは?」

「なるほど。そうしてすべてをブリュンヒルデのせいにして乗り切ったか。復活と漏洩を恐れて、人間界こちら側へ捨てたわけだ。そして」


 魔女の金と銀の瞳が、断罪するかのように真っ直ぐ魔族を射抜く。


「お前自身も、封印されそこない、人間界こちら側に残されたというわけだ」


 特に魔法を行使しているわけではない。ただ、確信に満ちた言葉を放っただけだというのに、ルシオラの全身から溢れる威圧感にドクターは気圧されぬよう必死だった。

 飲み込まれぬように、務めて普通に声を出す。


「……残された? ボクが? 最果ての魔女ともあろうあなたが、憶測でものを言うとは」

「最果ての魔女。その二つ名を知っていることが、なによりの証拠だよ。それは、だからな」

「……ッ!」

「多分、アレも気づいているだろう。お前は何度も私を『最果ての魔女』となんの違和感もなく呼んでいた。最初から、気づいていたのさ」


 今度こそ言葉をなくした魔族に向かい、ルシオラは問う。


「さて、本題はここからだ。質問など、いくらでもあるぞ」


 対峙する二人の間を、一陣の風が吹き抜ける。

 場面に似合わぬ爽やかな風は、より妖艶に微笑む魔女の髪やドレスをいたずらに巻き上げ泳がせていった。

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