16・当たり前の死

 そこは絶えず雨が降っていた。

 いつもの、雨の日の記憶とは違う感覚。上も下もわからぬまま、メビウスはまぶたを押し上げぐるりと闇の中を見渡す。外か屋内か、それ以前に地面があるのかすら確認できない。辺りは、闇一色に塗りつぶされていた。

 それでも、雨が降っているのだけはわかる。

 濡れているからでは、ない。

 雨音が聞こえるからでは、ない。

 闇の中で一点、スポットライトが当たっているかのように。

 幼い自分が、雨に打たれているのが見えたからだ。

 見た目だけなら、三、四歳ほど。まだ小さな自分が、雨に打たれながら必死に剣に見立てた木の棒を振っている。


 ――あれは。

 外の世界に興味を持ち始めた頃の、自分だ。

 幼い頃は、いまより成長が早かった。成長期に近づくにつれ成長が遅くなり、いまでは育っているのか止まっているのか自分でもわからない。事故などで死ぬ危険性を回避する為なのかもしれないが、これもの効果だとするなら中々に都合の良いおまじないである。


 大昔なんて言葉では足りないぐらい昔の記憶だが、このときのことは朧気ながら覚えている。なぜなら、彼が最初に命を落としたできごとだからだ。

 なんてことはない。ただ、外に出られたことが嬉しかった自分は、雨に打たれながらも喜びと期待を胸いっぱいに膨らませて頑張りすぎた。その結果高熱を出し、幼い身体はそれに耐えることができなかった。たったそれだけの、あまりにもあっけない終わりだった。眺めていても、苦笑いしか浮かんでこない。


 瞬きを、一度する。

 ふと、場面が切り替わる。同時に、視界や重力にも変化が起こった。先ほどまでは、確かに俯瞰して見ていたのに、いまは地に足がついている感覚がある。目線も普段の半分ほどしかない。思わず視線を落とすと、小さな手が目に入った。幼児のぷにっとした手のひら。それは、メビウスの意思によって握ったり開いたりを繰り返す。


「さて、メビウス。今日からは魔法の訓練も始めるぞ」


 ルシオラの声が聞こえ、メビウスの身体は唐突に所有権を奪われた。声を出すどころか、指一本動かすことができない。自分の意志に関係なく、幼いメビウスは頷いて返事をした。


 ――なるほど。

 そーゆー趣向ね。


 動かせない身体の中で、メビウスは状況を理解した。

 大昔のアレコレを、追体験させようってハラか。

 それならば、身体を動かせないのも納得がいく。あくまで記憶の中の自分を、自分の中から見ているだけなのだ。過去を覗き見しているだけなのである。


 人間、生きていればトラウマや後ろめたいことの一つもあるだろう。そこにつけこんで心から壊しちまおうって、さっきのやつならいかにも考えそうなこった、と嫌そうにため息をつく。

 容赦のないルシオラの声と、言われたとおりになにもできない自分。彼には魔力がほとんどないという事実を嫌というほど突きつけて、魔女は妖艶に嗤う。「足りないのならば、補えば良い」と。

 いくら不死鳥の加護を享けているとはいえ、何度そのちからを暴走させて命を落としたかなど数えたくもない。


 また、場面が切り替わる。

 少年は少しだけ成長していた。外見は十を超えたぐらいだろう。きらめく金髪にはすでにリングも存在している。手にしているのは、ずっと戦いを共にしてきたブリュンヒルデ。だが、その刀身はみじかなままで、振るう相手は人間だ。封印の日が遥か昔になり、まだ魔獣も出てきていなかった頃。人間たちは遠い昔のことを忘れ、同じ種族間で争いを繰り返していた。小さな国があふれ、些細な理由で殺し合う。戦力になるものは、女子供でも担ぎ出された。


 だから、メビウスは戦場を駆けている。幼いが、ひとを殺す能力があると認められたから。

 これも、修行の一環だった。獣程度では相手にならなくなってしまい、実戦ができなくなった。ルシオラは容赦なく戦場を選んだ。時には志願兵として、またある時は傭兵として雇われ、戦い、殺して殺される。最初は、どうしてもとどめを刺すことができず、簡単に返り討ちにあった。


 いま思えば、ルシオラはすでに魔族と戦うことを想定していたのだろう。魔族は意思疎通ができ、見た目もひとと大差ない。だが、そんなことで躊躇してしまえば、あっさりと殺される。殺意を持った相手に情けをかけるなという、魔女の徹底したスパルタだ。

 死んでは生き返り、場所と名前を変え、修行なんだと自分の心をねじ伏せて少年は戦場を駆けて駆けてひたすら駆け抜けた。時代がそうさせたとはいえ、人の命の火を刈り取ることに慣れてしまったのは、この経験のせいであることは間違いない。単純に、殺すことに関していえば、いまよりずっと冷徹だったろう。いつの間にか、『金色こんじきの死神』などと嬉しくない二つ名をもらうほどになった。思えば、この頃が一番淡々と戦いに明け暮れていた気がする。

 当然、それほど目立てば噂も尾ひれがついてやってくるもので。


「殺しても、数日後にはどこかの戦場にいるらしい」

「何年も前から姿が変わらない」

「あいつ、封印されたはずの魔族だって噂だぜ」


 こそこそと交わされる会話。そこかしこで呟かれる言葉は、もちろんメビウスに向けられたものだ。敵だけではなく味方からも、心無い声が届いたが、当時の彼はそんな中傷に傷つくこともなく平然と与えられた役割をこなしていた。これはオレも引くわーと、内側から突っ込みをいれつつ、当時の自分が小さな身体で大の大人を斬り伏せていくさまを追体験する。


 そんな殺伐とした時代は、唐突に終わりを迎えた。

 戦場に発生した初めての隙間と、魔獣の侵入。すでに伝説上のいきもの扱いされていた魔獣の発生により、人間同士で争っている場合ではなくなったのだ。

 魔族ではないかと疑われた『金色の死神』は、魔獣を呼び寄せた張本人としてここで魔獣と戦って相討ちになる。その後、世界のあちこちで隙間が発生し、彼が魔獣を呼んだわけではないという事実が立証された。隙間は負の感情が高まっている場所にできやすく、魔獣もまた、負の感情が多いとたくさん現れやすいとすぐにわかったからだ。


 ――ある意味では、確かにオレのせいなんだけど。


 苦笑いを浮かべながら、言葉にならないとわかっていてそれでもぼそりと突っ込む。

 目まぐるしく、これが走馬灯かと思うほど次から次へと記憶が後ろへ流れていく。トラウマを探しているのだろうが、少年の記憶は膨大だ。前もって情報でも仕入れていない限り、つけ入ることは困難だろう。

 そこから先は、魔獣との戦いやウィル一族と外での共闘、ブリュンヒルデの解放など戦いにおいても重要な変化がたくさんあった。相手が人間じゃなくなったのもあり、少しだけ気持ちが軽くなった。だが、一番心に響いたのは――。


 夕闇の中、これでもかと踏みにじられた花束が散乱している。

 花束に添えたカードを破りながら、少女は言った。


「――化け物のくせに、なんのつもり?」

「…………」


 魔獣退治の際、殺されたところを目撃されていたとは思わなかった。見ていたのは運悪く通りかかった村人だったのだけれど、それが、想いを寄せていた少女の耳に届いたのだ。

 知らずに花束を贈った少年に、返す言葉はない。彼は狼狽しながら地面を見つめ、ぎゅっと両手を固く握りしめた。

 想いを告げたところで一緒になれるわけがない。それぐらいは、当時のメビウスも気が付いている。だから、世話になったお礼に花を贈るぐらいならと、思ったのだ。


「……オレ、もう村を発つから」


 顔をあげて口から出た言葉は、そんなものだった。


「怖がらせて、ごめん」


 わずかに目を細めて、笑顔を作る。いまのように上手く笑えなかったが、このときは精一杯の笑顔だった。

 死神、魔族、化け物。

 散々言われてきたが、結局慣れた。無理をしてでも納得しなければ、嚙み砕いて飲み込まなければ、心が持たないからだ。

 笑顔を作ることに慣れ、心を偽ることに慣れた。


 そうして、いつの間にか――死にすら、慣れた。その事実に気が付いたとき、自身が化け物であると認めるのにもう無理をする必要はなく、当たり前として受け入れた。

 多分その瞬間、自分はを諦めたのだろう。無様にしがみ付いていた大切なを諦めて、簡単なことばを手にしてしまった。


「……大変なんだぜ。ずっと人間として生きるってのも」


 自嘲めいた呟きは、記憶の濁流に飲まれて流されていく。ただ、吐き出したかっただけだ。誰に聞いてもらいたかったわけでもない。それなのに、いまの台詞は自分の記憶の中のどこかに留まるのだろうかと考えてみたりした。

 場違いに能天気な声が、聞こえる。


「お前に殺されたオレがいいって言ってんだ。それ以上の被害は出てないってさっきも言ったろ?」


 ざわり、と心が揺れた。

 忘れるはずがない。これはいままでで一番新しい記憶。つい先日の――メビウスの心に小さな棘を残したままの。


 エグランティア。


 一瞬騒いだ心を、闇が捕捉する。

 膨大な記憶の中で、一番心を抉っていたのはもっとも最近のできごとだった。時間が経っていない故にまだ消化できていない、自分をごまかし切れていないできごと。

 目の前で、銀のバラが粉々に砕け散る。ひらりと舞う黒いレースの手袋を受け止めようと伸ばした手は届かず、手袋は朱の瞳の前にずいと突き出された。

 ゆるゆると、視線を動かす。


「どうしてお兄ちゃんが生きてるのよ。殺されたって笑って許せる化け物なんでしょ? だったらお兄ちゃんが死んでくれたら良かったじゃない」

「……フィリア、ちゃん」


 髪飾りを作ってくれた少女は、見たこともない表情で涙を流している。人前では泣かないと言い切った少女が、顔をくしゃくしゃにゆがめて自分を睨みつけている。

 彼女が口にしたのは正論だ。あのとき狙われたのは自分で、そのまま自分が殺されていれば――。

 本来なら、たとえエグランティアが庇わなくともあのあと彼女が生きていられたかどうかなど、少し考えればわかることだ。傷ついた身体で本当の魔族と敵対していたのだから。


 するり、とどす黒いものがメビウスにまとわりついた。オオハシが言った、精神に作用する魔界の毒だ。やっと取っ掛かりを見つけた毒は、嬉しそうにするすると取りついていく。

 場を支配する闇が濃くなっていた。ぐるりと四方を見回しても、闇しか映らない。光が当たっているのはメビウスとフィリア二人だけだ。まるで、スポットライトを浴びているかのようである。最初に見た、初めて命を落としたときの幼い自分と同じ場所に立っているのだけれど、少年は気づかない。見ている側から、見られている側に回っていることに、気づけないでいる。


「……死んでよ」

「…………」

「どうせ生き返るんでしょ!? だったら、何度でも死んでみせてよ! 私の目の前で、お姉ちゃんと同じように死になさいよ! 私が許すまでずっと、ずっとッ!!」


 少女が叩きつけた絶叫に、メビウスの右手はゆっくりと得物の柄へ向かっていく。


「ごめんね」


 剣を握って引き抜こうとしたとき、ぱしっという音とともに右手が弾かれる。青い光をともなった炎の欠片がぶつかったのだ。

 フィリアは炎を見て、眩しそうに数歩後ずさる。取りついていた毒も、光を嫌がるようにぱっと身を縮めた。


 見覚えのある――青い魔法陣。

 これは。

 ……ソラちゃんの。


 守ると誓った少女の名を思い出し、メビウスは目前のフィリアを鋭い視線で貫いた。太陽にも似た光を湛える瞳は、周辺の闇をかき消していく。


「フィリアちゃん。オレにはやることがあるんだ。それこそ、死んでも守らなきゃならないひとがいる。だから……もうちょっとだけ、待っててくんねーかな」


 青い光を纏う炎を、恐れず触る。不思議と、熱は感じない。

 ただ、温かさだけが、そこにはあった。


「わがままでごめん。憎んでくれていい。君には、その権利があるから」


 この場にいるフィリアが本物でないことは、もうメビウスにもわかっている。それでも、口から出た言葉は彼の本心だった。

 にこりと微笑んで、メビウスは彼女に背を向ける。自分がいるべき場所は、ここじゃない。





 ――わたしを、はなさないで。





 いつか聞いたその声に導かれるように、メビウスは右手を上空へ伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る