15・もし、が起きる時

 宙に消えた魔法陣を眺め、メビウスは直前のルシオラの台詞を何度も頭の中で繰り返していた。よくわからない、謎かけのような物言いをするのはいつものことだが、いまの言葉はあまりにストレートで物騒すぎる。あの魔女のことだ、ただ気合いをいれるために悪趣味な言葉を選んだだけかもしれないが。


「……メビウス」


 自分のしたから聞こえた声で、はっと我に返る。

 先ほどのドクターの攻撃から少女をかばって、二人とも倒れ込んだままだった。相手がいなくなったいま、はたから見ると空色の少女を押し倒したようにも見えることに気が付き、メビウスはぴょこんと飛び跳ねるように起き上がる。不思議そうなソラの手を引いて立ち上がらせると、薄く微笑みかけた。


「ソラちゃん。大丈夫?」

「平気」

「そっか。良かった」


 へらりといつもの笑みを浮かべて、少年は地面に突き刺さったままのブリュンヒルデを抜いた。肩に担いで戻ってくると、ソラと共にウィルのあとを追う。

 メビウスの決して広いとは言えない背中に刻まれた傷跡を見、ソラはそっと手を伸ばした。もちろん届かないのだけれど、斜めに走る傷を華奢な指でなぞる真似をする。


「……ごめんなさい。また、怪我を」

「ん、これぐらい慣れちゃってるよ。今日帰ったら、治してくれると嬉しいかな」


 二人っきりで――などとにんまり笑って続けようと、振り向く。

 ぐらり、と視界が大きく揺れた。ちからが上手くはいらない。走るのもままならず、足がもつれてかくん、と膝が落ちる。ついで、上半身も突っ伏しそうになり、かろうじて剣を突き刺して地面を受け止めた。顎の先から汗がとめどなく滴り落ちて、大地にぽたぽたと丸い染みを何個も作る。


「メビウス……?」

「あ、れ……?」


 背中の傷が焼けるように痛い。身体中の血が沸騰しているかのようだった。煮えたぎったマグマが流れ込む先は、それを身体に循環させるためのポンプ――すなわち、心臓。


「あ、ぐ……」


 喉も焼かれたように痛み、まともな言葉が出ない。浅い呼吸を繰り返し爆発しそうな左胸を押さえ、剣を放して地面にうずくまる。

 ――


「メビウス!」


 叫んで、ソラが背中の傷に手を当てる。じゅっ、と嫌な音が少年の耳に届く。


「……ソラ、ちゃん、ダメだ……ッ。触った、ら……」


 必死で声を絞り出す。掠れた声に、少女はぶんぶんと首を横に振った。


「だって、治さないと……! 治さないと、メビウスが」


 一生懸命、手を押し当て続ける。だが魔法陣は浮かばず、それどころかメビウスの血に触れた手のひらが焼け爛れていくだけだった。「どうして」と小さく何度も繰り返し、手を当て続けることしかできない。

 ソラの魔法は、自己回復能力を一時的に飛躍させて傷や痛みを癒す効果がある。それはわかっているが、彼女自身、どうやったら魔法が発動するのか理解していないのだ。ただ、傷口に手を当てる、それだけで今までは発動してきたのだから。


「お願い、お願いだから、治して、治してよ……!」


 少女の懇願を、メビウスは地面にうずくまりながら聞いていた。動くどころか、笑顔を貼り付ける余裕がないことすら悔しくて、彼は耳を塞ぎたくなる。


 ……死ぬなよ?

 別れ際、ルシオラが放った言葉の意味。

 ――あいつ、わかってたな。

 ドクターが言った、置き土産。反応には興味がある、と口にした真意。それが多分、これだ。ルシオラはすべて看破したうえで、ドクターを追ったのだ。


 誰が。

 誰が、死ぬかよ。


 ずぐん、と身体の中で煮えたぎった血が暴れまわる。何度も血の混じった咳をしながら、メビウスは少しだけ身体を起こした。意識が刈り取られそうになりながらも、太陽の瞳には確かな光が揺れている。


「……ソラちゃん。もう、いい……。触ら、ないで」

「でもッ! わたしは」

「いいから触るなッ!」


 強い拒絶の言葉とともに、少女を渾身のちからで突き飛ばした。とはいえ、弱っているいまの彼のちからでは、乗り出していたソラの身体が尻もちをつく程度にしかならない。反動で、自身の身体も仰向けにひっくり返った。傷口から流れる黒い血が、地面をゆっくりと染めていく。


「……ごめん。オレ……ソラちゃん、には……」


 あとに続く言葉はない。

 メビウスは、意識を失っていた。苦し気に開いた口も、つらそうに震えるまぶたも、血の気の引いた肌も、どう見ても良い方向に向かっているとは思えない。ソラはどうしたらいいのかわからず、そっと汗で金髪が張りついた額に触れる。酷い熱だった。


 どうして。

 いままで、必ず発動してきたのに。

 実のところ。彼女の魔法は、メビウス以外に成功する確率がとても低い。なにも起きないなら良いほうで、下手すると暴走させてしまう有様だ。だからソラは、助けた少女の怪我を治さなかった。というより、治せなかったのである。

 どうして、こんなときに。


「ちょっとぉおおー! か弱い乙女が悲鳴あげてるっていうのに、坊ちゃんったらいったいなにやってるのよぉ!」


 オオハシが騒がしい声をあげながら、破壊された扉を飛び越えて姿をあらわす。黒目がちのアンニュイな瞳はすぐに二人を見つけ、更にけたたましい叫び声を発すると大慌てでメビウスの傍らに着地した。すぅっと彼の影に潜り、一瞬で飛び出てくる。


「ななな、なんでこんなことになってるのよッ。これ、魔界の毒よ。瘴気を煮詰めたような負の感情のかたまり。坊ちゃんだからまだこの程度で済んでるけど……あああ! そうか、それじゃあさっきの針! アレに毒がついていたのね!?」


 早口でまくし立て、勝手に納得した。


「ウィルには状況説明してあるわ。なるべく落ち着かせて外に出さないように助言もしてある。彼が持ちこたえてくれるのを信じて、アタシたちは坊ちゃんの毒をどーにかするわよ!」

「……毒」


 ほとんどの毒は効かない。

 もし、初めての毒だったらどうするの?


 そんな会話を、以前かわした。メビウスのあっけらかんとした態度に、心配で、本気で怒ったけれど、それでもまさかこんなに早く、が起きるなんてソラだって思ってはいなかった。その答えは、マスコット然とした姿の不死鳥が教えてくれた。


「いままで生きてきた中でも、魔界の毒なんてさすがの坊ちゃんも初めてだわ。それでも、死ぬことはないわね。これ……精神に作用する、性格の悪い奴よ」


 つぶらな瞳を鋭くさせ、苦虫を嚙み潰したようにくちばしをひしゃげながら吐き捨てる。死なない、という言葉にほんの少し安堵の顔を見せたソラに、オオハシは厳しい顔のまま続けた。


「死なないけど、死ぬのと同じようなもんよ。取り込まれたら、一生夢の中か……最終的には魔人化して暴走するわ」


 坊ちゃんにとって、目覚めないのがどういう意味かわかるでしょ?

 いつもよりトーンの低い声で問われ、少女はこくんとうなづく。メビウスにとってそれは、死ぬよりもつらい。死なない毒こそ、彼にとっては本当の毒だ。

 空色の少女が理解したのを見やり、不死鳥はもう一度少年の影に身体を沈めた。完全に入り込む前に、ソラに回復魔法を使うよう指示をする。その言葉に、少女はちからなく首を横に振った。


「でも、わたしの魔法は発動しなかった。何回やってもダメで」

「そんな話はあと! いいこと、よく聞いて。アタシはこれから坊ちゃんの中に戻って。アンタは、アタシの気を探して魔法を使いなさい。少しでも、身体が楽になったほうがいいのはわかるでしょ? これでも不死鳥の端くれよ、アンタのサポートをするぐらいはしてみせるわ。ホラ、早く手を握る!」


 オオハシの剣幕に押され、ソラは少年の右手を取った。本来ならば、治癒したい箇所に手を当てるのが一番効果的なのだが、いくら小柄と言っても少女一人のちからでメビウスの身体をうつ伏せにするのは無理がある。それに、両手の傷も塞がってはいないのだ。こちらの負傷を治療するのも、無意味ではあるまい。


「じゃ、頼んだわよ。大丈夫、アタシの美しく神々しい神気はすぐにわかるわ」


 言いながら、騒がしい不死鳥は少年の影に溶けた。消える直前、「ルシオラオネーサマに怒られちゃうわねえ」とぼやいていたのはソラの耳には届かない。

 少女は少年の包帯が巻かれた手を両手で握り、自分の額を近くまで近づける。目を閉じてこうべを垂れる彼女の姿は、まるで祈りを捧げているように見えた。

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