10・混沌の世界

 ブリュンヒルデの真実を語ろう。

 そう言ったルシオラの銀の瞳は、悲しみに濡れているように見えた。金の瞳は前髪に隠れていて確認できないが、神族の象徴であるその瞳も同じように濡れているのだろうか。

 ソラには、なぜ魔女の瞳がそのように映るのかわからなかった。ましてや、自分の一言が原因だなどと、毛先ほども思っていないに違いない。


「平和に暮らしていた人間界に、神族と魔族が興味を持って訪れたのは突然だった」


 黄色と黒の文字たちが、青のひしめく世界へぽつぽつと移ってゆく。最初は戸惑い、遠巻きにしていた青――人間たちだったが、黄の持つ光の羽を見、敬いながらも距離を縮めていく。一方、黒の魔族たちは、身体に宿す瘴気ゆえに敬遠されていたが、神族と一緒ならば瘴気が中和されるとわかって恐る恐る人間たちも言葉を交わすようになっていった。

 動く絵本のように、自在に背景をえがきだし、次第に心を許していく三種族を演じる記号じみた文字。青を挟んで黄と黒も穏やかに過ごすさまは、まるで不思議な仕掛け絵本のごとくすんなりとソラの心に入り込む。知らず知らずのうちに、少女は優し気な笑みを浮かべていた。


 しかし、平和なときは長くは続かない。少しずつ、三つの種族の交じり合う世界はいびつに軋みはじめる。

 神族は創造神と似た見た目で敬われているのを良しとし、人間を徐々に見下すようになっていった。魔族は暗く荒れた魔界に閉じ込められていることに嫌気がさし、人間界を手にいれたいと願うようになる。

 均衡が、平穏が崩れ落ちそうになっても、人びとはまだなにも気づいていなかった。


「三つの種族は人間界で会合し、互いの知識など共有するようになった。特に神族は魔族と違い、人間に有毒な気を纏っているわけではないからな。頻繁に出入りし、人間に魔力の使い方を教えるようになった。人間が、という本音もあったようだが、いま人間が魔法を使えるのは神族のおかげだな」

「魔族はどうして黙っていたの?」

「そうだな。神族が勝手に魔法を教えたのは、魔族にとっては面白くない展開だ。だから魔族は、ブリュンヒルデの罪を、両種族に教えたのさ」

「……罪」


 そう、罪だ、とルシオラは噛みしめるように言う。


「三種族が共存していくために、一つだけルールを決めた。それは、お互い過干渉しないこと。ただそれだけの、簡単なルールだ。ブリュンヒルデはその簡単なルールを破り、エイジアシェルに住む一人の男に恋をした。男もだんだんとブリュンヒルデに惹かれ、二人が隠れて子を作るまでにそう時間はかからなかった」


 ソラはきょとん、と首を傾げる。まるでわからない、と口に出さずとも顔に大きく書いてある。


「それが、罪、なの? 恋をするって、好きになるってことでしょう? それが、悪いことなの?」


 空色の少女の、あまりに純粋な問い。先日、メビウスにも訊かれたなと思い出し、ルシオラは苦笑を浮かべる。もっとも、少年の問いはかたわらにいる少女ほど純粋な問いではなかったが。

 その純粋さに、ほんの少しだけ影響されたのかもしれない。


「もちろん、すべてが罪だったわけではない。相手に好意を抱くこと、それ自体は悪いことではない。だが――だからこそ、想いを告げない、想いを受け止めないという想いの形もあったはずなのさ。互いに深く干渉しない、そのルールの中では、な」


 苦笑を浮かべたまま、いままでよりは幾分か柔らかくなった口調でルシオラは問いに答えた。だがすぐに視線を前に戻し、すっと表情は消える。


「罪が露見したとき、均衡は音を立てて崩れ去った。たった一つのルールを破った。ただそれだけのことで、仮初の平穏は消え、混沌の世界が始まった」

「混沌……」


 手を取り合った黄と青の二人が引き裂かれ、青が渦に飲み込まれて消えた。彼女の他の神族は一人、また一人と神界へ戻っていく。人間界がほとんど人間のみになる頃を見計らい、下の世界から黒い種族――魔族が青の中に混ざり始めた。黒は青を蹂躙し、世界は瞬く間に侵食されていく。ほんの少し残っていた黄も巻き込んでぐるぐると混ざり合い、本来の色がわからなくなった。


 絵本は、そこで唐突に終わった。演技をしていた文字たちはあっさりとばらばらになり、同じ方向を目指して飛ぶまわりの文字に混じって見分けがつかなくなる。


「エイジアシェル。今では伝説の中にのみ存在する国だ。ブリュンヒルデは神界での地位を剥奪され、エイジアシェルに人知れず封印された。もちろん男も罰を受け、目的地の決まっていない転移陣でどこへともわからぬ場所へ飛ばされた。その後、エイジアシェル自体が大陸から切り離され、外海へ隔離された。これは神族と人間、そしてエイジアシェルの国王の間で取り決められ、執行された罰だ。いまでも、その場所ははっきり確認されていない」

「この本棚には、記録されていないの?」


 ソラの問いに、ルシオラはひらひらと手を振った。


「記載はされている。だが、罰の執行を行ったのが神族だ。ゆえに、これは神族のトップシークレットだ。私のような片羽には覗くことなどできぬ相談だな」


 普段の口調で、魔女は平然と嘘をついた。彼女がその気になれば、本棚の中など覗けぬところはない。男の落ちた場所も、エイジアシェルが存在していた孤島も、すでに把握済みである。

 少女にそう答えなかったのは、少なからず自らにも関係する事柄だからだ。深追いはされたくない。そしてなにより、自身があまり口にしたいものではない。


 エイジアシェルの場所を知っているというのは、メビウスにも話していない彼女の秘密の一つだ。あの少年が興味を示すかどうかはわからず、そんな話をする機会もなかったから黙っていただけなのだが、ソラがいる以上、余計に話すわけにはいかなくなった。いま、メビウスが知ったら、封印の状態を見に行こうとするだろう。少女を狙う魔族の、自身の命をもって繋いでいる魔界との大きな接点だ。なにか、手掛かりがないか確認したいと思うのは目に見えている。

 ルシオラにとって、それは得策ではない。少なくとも、エイジアシェルに行くのはのだ。

 だから、最果ての魔女は話題を変えることにする。


「メビウスは、夢の話はしたか?」

「ゆめ?」

「お前の声を聞いたという、夢の話だ」



 ――君の、声だ。



 初めて会ったときの、少年の声がフラッシュバックする。



 ――君の声だよ! 運命? これって運命なんじゃないの!?



 満面の笑みで抱き着いてきたメビウスの勢いに流され、詳しく聞くことはできなかった。後日、少年が己のことを語ってくれたが、夢について話してはいない。


「……あれは、夢の中で、わたしの声が……?」

「あのバカは……。やはりな」


 二人きりになってすぐ、メビウスが自身の事情をどこまで話したかたずねたときに呟いた言葉を、今度ははっきりと口にする。


「夢にソラが干渉したということは、本人が知っていていい話のはずだ。本当にあのバカは」


 呆れた様子で目を覆うと、ふう、と長く息を吐き出して心を落ち着ける。


「仕方ない。もう少しで着くと思うが、かいつまんで私が話そう。アレが鍵になった理由と、ブリュンヒルデを扱えるわけ。どこでお前の声を聞いたのか」


 アレは、生き返るまでの間、必ず鍵になったときの夢を見ている――。

 そう前置きをして、ルシオラは極めて淡々とその内容を語り始めた。









「さて。もうここにいる必要もねーな。さっさと戻るか」


 片手で器用に巻き直した包帯をウィルに返して、メビウスは言う。対して、青年は深刻な顔をして渓谷の奥を見やる。


「しかし。さっきの子供たちや魔獣は一体どこからやってきたんでしょうか。たとえここに隙間が空いていたとしても、どうしてこんなところにいたのかが説明できません」

「んー……鮫型グランドシャークは泳いできたんじゃねーの?」

「この辺りに海はありませんよ。遠くから泳いできたなら、目撃されててもおかしくないでしょう」


 ぴしゃりと否定されて、メビウスも言われてみればと首をひねった。腕を組んでしばし考え込んだようだったが、へらりといつもの笑みを浮かべると「わからん」とあっさり言い切る。


「考えてみたって、わからんものはわからん。大体、なんの手がかりもないだろ」

「だから、もう少し探してみませんか、と言っているんです」

「なにを?」

「手がかりです。坊ちゃん、ふざけてませんよね?」


 じんわり怒りのこもり始めた暗い紫の瞳に見おろされる。気後れするでもなくウィルの視線を真正面から受け止め、少年はぽりぽりと頬を掻きながら言う。


「残ってねーだろ。オレが全部吹き飛ばしちゃったし」


 にへら、と笑いながら言った答えがどうしようもなく真実であると知りながら。

 それでもウィルは、大げさに肩を落として長いため息をつくのを止められないのだった。









 長い話を語り終え、ルシオラは静かに口を閉じる。絵本を見ながら話していたときとは違い、ソラは一切口を挟まず黙々と聞いていた。メビウスの、あまりにもな巻き込まれ方に少なからずショックを受けているのかもしれない。


「そろそろゴールが見えてきたな」


 わざとに明るい声を出し、魔女は口の端を持ち上げる。

 言われて、空色の少女はきょろきょろと辺りを見回した。文字の進む先を見たとき、いままでこの空間では目にしなかったものが視界に映り、大きな瞳を凝らす。


 青く光る球体が見える。どうやら、この読めない文字たちはそこを目指しているようだった。

 球体は、水が湧き出る台座の上にふわりと浮いていた。水に遊ばれているようにも見える青い球は、ちょうどソラの顔ぐらいの高さで浮いていた。台座から流れ落ちたきれいな水は、そのまま床に吸収されている。

 きらめく文字たちが、終点だとばかりにどんどんと球体に吸い込まれていく。球体は文字を吸い込むたび、青い幾何学模様を幾筋も表面に走らせた。その光は、メビウスの持つ神器ブリュンヒルデが放つものに酷似している。


 ルシオラは青い球体の前で足を止め、謡うようにソラに告げた。


「これが、泡沫の記録パーフェクトメモリア――遺跡の真髄だ」

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