8・瘴気の正体

「一言に伝説と言っても、色々あるな。天使に導かれた英雄の話や、白鯨と共に大海原を旅した聖女の話……。だが、いまここで話すのは、神族ブリュンヒルデの罪と罰が引き起こした、孤島の王国の物語だ。他のおとぎ話は、興味があったら今度読んでみるといい」

「それは、誰でも知っている話? どこで読めるの?」

「大体、子供のうちに聞かされる話だな。図書館にでも行けば、いくらでもあるだろう」

「そう……。誰でも知っているなら、読んでみる」


 だが、と魔女は声のトーンを少し落とした。


「ブリュンヒルデの物語は、違う。図書館にあるものと真実ではまったく異なるのだ」


 ブリュンヒルデ。

 その名前には、聞き覚えがある。メビウスが背負っている剣の名前だ。少年が、剣に眠る本当のちからを引き出すときに叫んだ名前。そして彼は、それを持っているお陰で遺跡に宿る神族の恩恵から阻まれている。

 だが、いま。

 ルシオラは、と言った。同じ神族同士。阻む理由はどこにもないように思える。


「巷に出回っているあの女の伝説は、罪を犯し神族から追放されたが、その贖いとして魔族が人間界に進攻してきたとき、命をかけて魔族を封印した悲劇のヒロイン。それがブリュンヒルデとされている。確かに、間違ってはいない。あの女にとって都合の良いところだけを抜き取れば、そう解釈できるだろう。語り継がれていくうちに美化されていったのだろうが、決してブリュンヒルデはそんな謙虚な女ではない。やつは隙のない、狡猾で残酷な女だ」


 ルシオラの顔には、ありありと嫌悪の表情が浮かんでいた。普段、読めない妖艶な笑みを湛えている魔女が、これだけはっきりと感情を表すのは珍しい。口調も、淡々と語ってはいるが、熱を帯びないよう気を付けているのが簡単にわかってしまう。

 だからこそ、だろうか。


「……ルシオラは、ブリュンヒルデが、嫌い?」


 ふと、声に出してしまった。

 最果ての魔女は、一瞬目を見開いて虚を突かれたような顔をした。金と銀の神秘的な瞳を何度か瞬かせたあと、ルシオラは頭を押さえてくつくつと笑いだす。


「ああ、ソラ。お前は本当に面白いな。ブリュンヒルデが嫌いか、だって? くくっ、嫌いと言えば嫌いだし、好きと言えば好きなのかもしれないな。そんなことは考えたこともなかったよ。やつの存在は、そんな感情で片づけられるものじゃないからな」

「ルシオラにとって、ブリュンヒルデはそれだけ大きな存在なのね」


 魔女の放った言葉にはじゅうぶんすぎるほどの毒が含まれていたというのに、空色の少女は真顔でそんなことを言う。夜空を映す大きな瞳は、なにもかも見透かしているように、優しくルシオラを見つめていた。


「……ソラ。どこまでも不思議な娘だな、お前は」


 笑うのをやめ、ぽつりと呟く。ソラは意味がわからなかったのだろう。きょとん、と首を横に傾げた。そんな少女を見て、ルシオラの赤い唇はいつもどおりに弧をえがく。


「悪かった。話が脱線したな。それでは、ブリュンヒルデの真実の物語を話すとしよう」


 ――ルシオラは、ブリュンヒルデが、嫌い?


 本来なら、嫌いだと即答できたはずだ。

 なぜ、真面目に考えてしまったのだろう。


 ――ブリュンヒルデはそれだけ大きな存在なのね。


 空色の少女の優しい一言が、頑なな魔女の心に一筋の亀裂を生み出したことを、彼女は知らない。








 遺跡から外へ出ると、思っていたよりも濃い瘴気が漂っていた。本棚にはまだ神族のちからが残っているため、多少浄化されていたのだろう。


「しっかし、こりゃまた凄いところに隙間ができたもんだ」

「隙間かどうかは定かではありませんが、いまここへきたのは偶然とは言え正解でした。もし放置していたら、魔獣にせよ隙間にせよ確実に影響は出ます」

「だな。とにかく、瘴気の正体を掴んでソラちゃん戻ってくる前に帰ってこねーと」


 待ってるって約束したからな、と口にしてメビウスは駆ける。


「この感じは、多分魔獣で間違いねえと思うけど、何匹かいそうだな」


 多分、ともう一度噛みしめるように呟く。

 先日初めて相まみえた魔族。あんな強大な瘴気は感じられないが、将軍ジェネラルのようにほとんどのちからを置いてまで強引に隙間を通ってきたやつもいるのだ。人間界に出てくる術を持った魔族が一人でもいる以上、万が一の可能性はある。


「瘴気がこれ以上濃くなりませんね。隙間が開いている可能性は低そうです」

「ああ。魔獣の群れだろうな。そいつらを嫌がって怪鳥ルクは遺跡まで移動したんだ」

「しかし……、こんな渓谷にどうやって? 空を飛ぶ魔獣でしょうか」

「普通に考えればそうだと思うけど……」


 なんか腑に落ちねえ、とメビウスは心中で続ける。口に出さなかったのは、特に根拠のない、ただの勘だったからだ。なんとも言えない気持ちの悪さ。よくわからない違和感がずっと居座っている。

 だが、ウィルも同じことを感じていたようだ。並走する青年は厳しい目つきで辺りを見回すと、少しずつ走る速度を落とした。それに倣い、少年も徐々にスピードを落とす。


「……坊ちゃん。僕たち結構な距離走ってきたと思いませんか?」

「ああ。瘴気は感じられるのに、原因が見つからねえ。これだけはっきりとまき散らしてるのに、隙間どころか魔獣一匹いねーってのは妙だな」


 いつの間にか、お互い立ち止まっていた。背中合わせになって前と後ろを鋭く見渡す。強い谷風がメビウスの金髪を巻き上げていくが、瘴気は底にとどこおったままだ。


「ここは……瘴気の吹き溜まりですか」

「だけど、溜まるには発生源が必要だろ。絶対にいるはずだ」


 太陽の瞳をすがめ、少年は天を仰ぐ。視界に入るのは、砂塵に隠れて薄ぼんやりとした自身の瞳と同じ色をした星だけだ。

 後ろから、ウィルが少年の背中を肘で小突く。視線をおろし、青年の指が指す方向へと向けた。

 固い岩盤の表面に、ぷつぷつと不思議な跡が一筋、浮かび上がっている。水の上ならば、まごうことなき泡のような――。

 それは、一直線に二人に向かってきていた。


「下ですッ、坊ちゃん!」


 叫びながら防護陣プロテクトの魔法が込められた弾丸を地面に向けて発射した。海面のごとく盛り上がった地面に着弾し広がった防護陣を足場にして、二人はそれぞれ左右に飛び退る。小山のような地面から二人を一気に捕食しようと飛びあがった魔獣は、大きく裂けた口でぱっくりと防護陣を飲み込み、空中でくるりと回転して地面にダイブする。柔らかな砂にでも潜るかのように、大きな身体はするりと地面に消えた。一瞬見えたその姿は、大型の肉食魚類に酷似している。その口にはびっしりと鋭利な刃物のような牙が生え、その尾びれは長くしろがねにたなびいていた。触れれば人間の胴体など上下左右、軽く泣き別れするだろう。


「地面を泳いでんのかよ!」


 たん、と着地したその足で、固さを確認するように何度か地面を蹴る。もちろん液体になどなっていない。しっかりとした感触が足の裏に返ってくるだけだ。


「魔界から這い出てきた魔獣でしょうか。やはり近くに隙間があるのでは」


 人間界で瘴気にあてられ魔獣化したいきものは、本来住んでいる場所を大きく逸脱して行動することはない。だから、いましがた目の前で大きく地面から飛び出してきた魔獣は、常識的に考えればウィルの言うとおりのはずだ。人間界こちらの常識にとらわれない、まったく別の生態を持ついきもの。つまり、魔界に生息する生粋の魔獣。

 だが、メビウスは青年の言葉にかぶりを振った。視線は魔獣が潜った地面を凝視しながら、少年は端的に告げる。


「本場の魔獣は、のやつらが多い」

「え」


 その内容にどんなものを想像したのか。あからさまに嫌な顔をして、ウィルが思わず少年を見る。その瞬間、メビウスの足もとから魔獣が出現したが、少年はすでに回避済みだった。潜っていく魔獣を力任せに斬りつけてみるが、異様に発達した鱗は固く、浅い傷を作る程度で逃げられてしまう。


「あー、痛ってえー。なんだっけ、こーゆー鮫系の魔獣の総称。んー、グランドシャーク? なんで地面泳げるようになったかは知らねーけど、多分それだと思うぜ」


 もう一度噛みつこうと顔を出した鮫型の魔獣グランドシャークを、今度は巨体が上がり切る前に頬の辺りを蹴り飛ばして転がした。魔獣はどうやら頭から飛び込まねば地面に潜れない様子で、ばたばたと必死に岩陰の方へと進んで行く。もがく魔獣にとどめを刺そうと追いかけるが、長い銀の尾びれに邪魔をされ、胴体までたどり着けない。


「ウィル! なにぼーっと見てんだよ! お前の銃は飾りか!」


 機嫌の悪い声が飛んで、青年はなんとなく安全圏から見守っていた自分に気付く。最初こそ地面を泳ぐことに驚きの声をあげたメビウスだったが、ついさっきなど喋りながら簡単に蹴り飛ばしてしまった。彼の適応の早さに、戦闘中のある種、高揚感ともいえるものが削がれた状態だったのだ。


「……ああ。いえ、なんだか坊ちゃんが楽しそうに見えましたので」

「はあ!? こちとらもうぼろぼろだっての! なんでオレばっかり喰おうとするのか、わかんねーのかよ!」


 目の前で暴れる尾びれを剣で弾きながら、少年は怒鳴る。剣を握る右手からは血が滴っていて、ようやっとウィルは状況をしっかり飲み込んだ。


「血の、匂い……」

「お前、ときどきポンコツなのな。しっかりしろよ」

「すみませんね。鮫を蹴り飛ばすなんてことをするひとが目の前にいたもので、ちょっと僕の常識的な頭ではついていけませんでした」

「その前に、鮫が地面を泳いでるほうが常識外れだろ……」


 がりがりと左手で頭をかいて、正論を口にする。


「とにかく、オレが引きつける。お前は頭を狙って撃ちまくれ!」


 言葉が先か行動が先だったか。メビウスは傷口の開いた右手に握る剣を大きく横薙ぎに振るった。迫った尾びれを弾き返すのももちろんだが、わざと大振りにしたことで滴っていた血が魔獣の鼻先までぱたぱたと飛ぶ。逃げようともがいていた魔獣が、獲物の匂いにつられて思わず胴体を返した。

 目前にあったものは、当然少年ではなく。

 ウィルの手に握られた魔力銃から放たれた魔力の弾丸だ。一発目は目と目の間――人で例えるなら眉間に当たり、魔獣の脳を揺らす。致命傷にはならなかったものの、ショックでほんの一時動きを止めた。それが、魔獣に本当の致命傷をもたらすこととなる。

 魔法を込めた弾丸を装填していない魔力銃から撃ち出されるものは、使用者の魔力を凝縮した弾丸だ。一撃の威力はそれほどないが、貫通能力は高く、魔力があれば装填することなく延々と撃ちだすことが可能だ。さらに、ウィルが手に持つ魔力銃は二丁である。動きを止めた一瞬で撃ち込まれた魔力の弾丸は、突き出ている鼻先を吹き飛ばし右目を潰して、巨体が動かなくなるまで発砲音は続いた。


「……さすがに、やりすぎじゃね?」


 文字どおり蜂の巣になった魔獣の頭を見、メビウスがぼそりと言う。


「僕は、海の魔獣と戦ったことがありませんので。坊ちゃんは、知っていたようでしたが」

「そりゃまあ、長いこと生きてますし。でもまさか、地面を泳げるようになってるとは思わなかったぜ」


 軽口をたたき、なにか影がよぎったような気がして空を見上げた。が、特に目に入るものはない。小首を傾げ、勘違いかな、と心の中で呟いていまは考えないようにする。問題は、なにも解決していないのだから。

 魔獣が倒れたのに、まだ瘴気は充満したままだ。


「これだけの瘴気の量だ。他にはなにが住み着いているんだか」


 鋭く辺りを見回したとき、小さな声が聞こえた。

 それも、一つではない。

 ぞわり、と岩陰から続々と立ち上がる瘴気。みな一様に、どこを見ているのか焦点が定まっていない。そして、その瞳の色は――否、その瞳自体が、大きなしろがねだ。

 白目も黒目もない鈍い銀一色の双眸をゆらりと動かし、地に倒れる魔獣の姿をとらえる。その顔を見て、自分が見つめられたわけでもないのに、ウィルはぞくりと言いようのない寒気を覚えた。

 目をつぶってさえいれば、ただの子供と見た目だけは変わらない。

 だけど。

 見た目だけだ。銀に染まったその瞳が、それを嫌というほど証明している。


「……おさかな、死んだの?」

「死んだの? 動かないよ」

「じゃあ……食べていいよね?」

「ごはん……ごはん……」

「わたし……みぎうで食べられたから……わたしもみぎうで食べる」


 ぞろぞろと、瘴気が動く。ひどく緩慢な動きで、しかしそれでも前に進んでいる。

 一人、また一人。魔獣の死骸に取りつき、固い鱗をかじる。歯が折れても、爪が剥がれても何度も繰り返す。たちまち、魔獣は自身の流した血以外の赤でさらに真っ赤に染まった。要領の良いものは鱗に覆われている部分を諦め、弾けて露出した頬の肉を、脳髄を啜りだす。ずるりと魔獣の目玉が引き出された。

 おぞましいのに、目を逸らしたいのに。

 身体が、信号を受け付けない。魔獣の死肉に群がり、貪り食うさまを目に焼き付けるかの如く顔どころか視線も動かせずにいた。

 言葉を話し、食べるという生きるために不可欠な行為をしていたとしても。



 これは――違う。



 ぱちゅり、と目玉から液体が弾ける。



 これは――もう。



 がりがりと、骨のまわりにつく肉にかぶりつく音。



 ひと、ではない。



「……こいつが、瘴気の正体か」


 低い声で呟いた少年の声にこもっていたのは、なんだったのか。彼はウィルとは違い、しっかりと目の前の光景を見つめていた。いつもへらりと笑っているその顔には、なんの表情も浮かんでいない。

 ルシオラたちを待たずにきたのは正解だったな、と胸中で噛みしめて。

 感情のこもらない太陽の色をした瞳で、メビウスは前を見据えた。

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