24・奪還

 頬が冷たい。

 薄手のワンピース越しに伝わるごつごつとした硬い感触に、ソラは目を開いた。世界が転がっているように見え、何度か目をしばたたかせる。転がっているのは世界ではなく、自分のほうだと当たり前の思考を取り戻したのは少し経ってからであった。

 ゆったりと上半身を起こし、辺りを見回す。すっかり昇りきった月明りに照らされた場所は、彼女にも見覚えのあるところだった。ソラが初めてメビウスと出会った場所。大きな、石舞台の上。


 しかし、青白い月明りが浮かび上がらせたものは、あまりに不気味なものだった。

 石舞台の中央に、漆黒のかたまりが鎮座している。魔法陣の上でゆっくりと胎動を繰り返すそれは、生きているのか死んでいるのか、そもそもいきものなのかすらわからない。月明りも輪郭は浮かび上がらせるものの、中までは浸透できないようだ。魔法陣の放つ鈍い光すら消し去る純粋な黒。胎動するたび、夜だというのに生暖かい嫌な風が通り抜けていった。

 ソラはそれから目を離せない。瘴気を凝縮したような、濃厚な悪意のかたまりのような漆黒から。見ていたくないのに、目をそらしたいのにそれに囚われてしまっている。


 わたしは――。

 一瞬、脳内をなにかが駆け巡った。いやいやをするように、頭を横に振る。


「お目覚めかね」

「……これは、なに?」


 必死で絞り出した声に、バリトンは質問を重ねた。


「貴様は、知っているのではないのかね?」

「……知らない。こんなのは、知らない」


 頭を両手で押さえ、壊れたように振り続ける。ジェネラルは少女の華奢な腕をつかむと、強引に立ちあがらせた。有無を言わさぬちからで黒いかたまりのほうへ、引きずっていく。

 それへ近づくにつれ、少女の恐怖ははっきりと見て取れるほどになった。感情表現の薄い彼女が大きく顔を歪め、歯の鳴る音が聞こえるほどに震えている。夜空色の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。


「貴様が現れてから、こうやって人間界に具現なされたのだ。いまはまだ、繭の中で眠っておられるが、貴様の気配を感じるようだな。ほら、とても喜んでいらっしゃる」


 恍惚と言い放つジェネラルの言葉を肯定するように、かたまりはどくん、と大きく胎動する。ソラはひっと息を吸い込んで、細い肩を跳ねあがらせた。


「……やめて。わたしはなにも知らない。わたしはなにもしてない……ッ」


 痩せた身体のどこにそんなちからがあったのか。少女は男の指から自分の腕をもぎ取るように抜け出すと、一目散にそれから離れようと駆け出した。しかし、空色の銀髪がなびいたのも一瞬で、ソラの足は地面に縫いとめられてしまう。

 おそるおそる、少女は視線を動かない足もとへさげていく。


「……ッ!!」


 買ってもらった真新しいショートブーツの上に。

 さらに、その上のふくらはぎにも。

 黒い小さな手が地面から生え、いくつも張り付いている。赤ん坊の手にも似たふくよかな手だが、がっしりと押さえ込んで離さない。光を通さぬ漆黒であるのにも関わらず、立体的で質量を持っていることがわかる。それなのに、触れられている感覚は一切なかった。


「……い、や……」


 零れ落ちそうなほど目を見開いて、ソラは呆然と呟く。

 拒絶の声が聞こえたのか。手が生えている地面がぽこぽこと波打ち、ぐるりと黒いものが姿を成した。くるりと上を向き、恐ろしく無邪気に笑う。

 目も、口も、ない。ただ、輪郭とそれらしき裂け目がはいっているだけ。それなのに、まるで赤ん坊のように笑うのだ。

 もう、声もでない。喉を震わせても、引きつって詰まり、意味のある言葉にならない。

 ぽこぽこと、また地面が波を打つ。気持ちの悪い、どす黒いかたまりが増えていく。ぺたぺたと這い上がってくる。まるで、魂に直に触れられているような、冷たい痛みをともなう独特な感覚。

 腕まで達した黒い手が波打ち、顔が生える。声もなく、けたけたと笑う。


 ……いや。

 こんないびつな魂は、いや。


 ずきん、と鋭い痛みが頭を走り抜けていった。追いかけるように、つかみきれない情報の断片がどっと押し寄せ、引いていく。


 いびつな、たましい?

 いびつなのは、なぜ?


 引いていった情報の渦のなかで、そんな疑問だけがころりと残った。






 いびつ、なのは――。


 おねがい。


 ――わたしを、はなさないで。






 はっと、メビウスは顔をあげた。

 不気味な気配を追ってきた彼がいるのは、奇しくも初めてソラを見つけた場所だ。同じように朱色の瞳が宙をさまよい、石舞台の上でとまる。

 漆黒に絡みつかれた白い少女の姿を、太陽の瞳がしっかりと捉えた。


「あそこだ!」


 叫んで、駆け出す。気持ちの悪い生ぬるい風も、まとわりつくような濃い瘴気も少年の足を止める枷にはならない。きらめく三つ編みをなびかせて、メビウスは駆ける。


「ウィル。もう一回雨を使え。時間は稼ぐ」

「しかし、弾はもうありませんよ。いちから使うには」

「だから時間は稼ぐ。気持ち悪いんだよ、あの黒いの。石舞台の上だけでいい」


 それに、お前だってこの瘴気はツラいだろ、とおまけのようにつけ加えられた言葉に真意を感じ、ウィルは思わず苦笑をもらした。


「わかりました。なんとかします」

「よし。とにかく長く持たせてくれ。じわじわとでも効くだろ」


 一度も青年を振り返ることはない。それは、見なくとも彼がついてきていると少年が確信しているからだ。


「ヤツはソラちゃんが近くにいると大技を使用しない。だから、まずはソラちゃん奪還が最優先だ」

「ソラさんを助けたら、一旦引いたほうが良いのでは?」

「ヤツがそれを許してくれたらな」


 そんなあとのことより。

 石舞台はもう目の前だ。

 右手で得物をすらりと引き抜く。

 ウィルがふっとメビウスの後ろから離れた。


「まずは一発、ぶちかますッ!」


 目標は、少女を捉えている大きな気味の悪いかたまり。


「エイジアシェルの名を以って、真の姿を開放する」


 石舞台を一足飛びに駆けあがり、迷わず胎動するかたまりに斬り込んでその名を呼んだ。


「全てを浄化せよ――神器・ブリュンヒルデッ!!」


 剣から弾けた巨大な光の十字架が、漆黒のかたまりを貫いて塗りつぶす。圧倒的な白い光が星屑を振りまいて消えたときには、少女の姿もその場から消えていた。

 一拍おいて、たん、と軽い足音が静かな石舞台に響く。


「大丈夫だよ、ソラちゃん。迎えにくるのが遅れてごめん」


 耳に届いたのは、穏やかな声。

 少年の腕の中で、ソラは顔をあげる。恐怖で冷え切った心を、太陽のように柔らかな光をたたえた瞳が暖めていく。

 へらっといつもの能天気な笑みを浮かべたメビウスに、ソラは涙で濡れた顔をくしゃくしゃにして強く抱きついた。

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