3・雨の日の記憶

 雨の匂いが鼻をくすぐる。

 またか――と、メビウスはぼんやり思った。

 これは、いつもの。

 まあ、さっきのは死ぬよなぁ、とどこか冷めた頭で小さく笑う。

 もう何度、この雨の匂いを嗅いだことか。土臭く湿った、独特な匂い。

 それは。

 彼にとっては、死の匂いと同義である。

 覚えているはずのない惨劇の記憶。雨の匂いとともに、また心に刻み込まれるのだ。


 忘れるな、と。


 忘れるな――と。


 決して忘れるな――と。


 という、警告なのだ。

 そんなもの、忘れられるわけがない。たとえ記憶を失ったとしても、魂が覚えているだろう。

 それでも。

 終焉の幕は、また上がる。








 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。

 静かな雨音の中に、コツ、と古い石畳の上を不規則にだが急ぎ足で歩く足音が加わる。さぞ美しかっただろう中庭は荒れ果て、青年が歩く回廊も屋根を失い半壊していた。そして、えんじ色の騎士服を着た青年も満身創痍である。


 まるで廃墟のようなありさまだが、廃墟ではない。花が無残にも散らされ茎の途中からぽきりと折れているといっても、中庭にはきちんと手をいれていた跡がある。崩落した屋根も材質は古いが朽ちてはいない。壁に残る焦げ跡もいまだぶすぶすとくすぶり、うっすら煙が上がっている。


 それに、まだここには人の気配があった。屋根の残っている場所やきっちり壁の残っている場所など、少しでも身を隠せそうな部屋から人々の息づかいが聞こえてくる。


 エイジアシェル。

 数百年の昔。神族の怒りにふれ、大陸と引き裂かれたという伝説の残る孤島に存在するただ一つの王国。


 この島には世界の隙間が多く発生しており、そのため魔獣が出現しやすい。魔獣どころか魔族そのものが通り抜けられるほどの隙間ができることもあり、そのたびに追い返し隙間を魔法で塞いできた。もちろん多少の被害が出るが、それもまたこの島で暮らしていくには必要な試練だったのだ。


 しかし。

 今回出来た世界の隙間は、隙間などという言葉で片付く規模のものではなかった。


 孤島の北の端。王国に様々な恩恵をもたらしている火山の前に、突然巨大な亀裂ができた。亀裂からは大量の瘴気が吹き上がり、魔界の住人たちが魔獣を引き連れて現れたのだ。純粋なる魔界の住人――魔族は人と変わらぬ見た目をしているものが多いが、凶悪な破壊のちからと金属の身体を持つ。


 襲撃は、あっという間だった。予兆などなかったのだから当たり前だ。魔獣の群れが、地面のみならず空からも飛来し、城下町を飲み込んでいく。頭が二つある鷲が、首が三つ生えた狼が、逃げまどう人々を大きな爪で引き裂き、ずぶりと噛みちぎっては捨てていく。捨てられた人間の身体にはすぐに小さな魔獣たちがうぞうぞとたかり、そこかしこで身の毛もよだつ断末魔の叫び声が上がっていた。

 街中に雨の匂いと、鉄錆の匂いが充満していく。


 騎士たちが応戦に出たときにはもう、かなりの数の国民が犠牲になったあとだった。最初の一手の時点で出遅れていたのだ。それでもそんな地獄絵図のなかで、騎士たちは的確に魔獣を仕留め、生き残った人々を城へと誘導した。この国の騎士であれば、魔獣の討伐の仕方は一通り知っていたからだ。


 出遅れたとはいえ、騎士たちにも意地がある。倒せるものを倒し、助けられるものを助けていった結果、街中で暴れまわっていた魔獣の群れは少しずつだが確実に数を減らしていった。混乱を極めていた国民の顔にもほんの僅かであるが希望が戻る。 


 だが、魔獣の群れなど問題ではなかったのだ。

 真の絶望は、もうすぐそこに迫っていた。

 空が、きらりと光ったように見えた。


 ――刹那。


 耳が痛くなるほどの炸裂音。建物が爆ぜ、爆風が青年を吹き飛ばした。

 一度ではなく、二度、三度と着弾する。そのたびに大地は揺れ、衝撃が、荒れ狂う風が炎をともなって人々を襲う。魔法だろうと思われる一方的な攻撃は、街を飲み込み半分ほど破壊しつくしたところで一度止まった。


 青年は、自分がまだ生きていることに驚きながらそろそろと立ち上がる。


「……な」


 まず目に入ったのは、家だっただろう瓦礫の山だった。雨が降り続いていたためか、炎はくすぶっている程度で燃え広がってはいない。そこかしこで人間も魔獣も倒れている。人間だったものや、その一部だったろうものも散らばっていた。


 どうやらここは爆心地に近いようだった。彼が助かったのは最初の一撃で吹き飛ばされ、そこがほんの少しだけ相手の狙いから外れた場所だったから、というより他にない。


 運が、良かったのだ。


 しとしととうっとうしく降り続く雨が、石畳に広がった穢れを洗い流していく。

 呆然と立ちすくむ彼の耳に、まだ街中に響く争いの音や泣き叫ぶ声が届いた。魔法の被害が少なかった場所では、魔獣との戦いが続いているのだ。

 音に導かれるように向かう途中、青年は騎士団長から呼び出しを受けた。

 できることなら断りたい使命を授かった。それにより、彼は城に退避しいまもこうして生き延びている。


 青年は、服装からもわかるとおり騎士団の一員だ。剣も魔法も団員の中で特に目立つところはなかったが、彼は人一倍身のこなしは軽い。そして運が良い。だからよく、伝令として使われることもあった。しかし、こんな絶望的な状況で息も絶え絶えな仲間を残して一人だけ、それも最悪の事態を伝えに走らねばならなくなるとは考えたこともない。現実になったいまでさえ、信じられない気持ちでいっぱいだった。


 謁見の間を通りすぎ、裏庭へとまわる。木立に隠れるように小さな礼拝堂が建っていたが、そこも上からの攻撃を受けたのだろう。屋根と壁が半分吹き飛んでいる。


「…………」


 本当にここで良いのだろうか。

 騎士団長直々に指名された場所とはいえ、ここにはもうなにも残っていないように見えた。ゆっくりと警戒しながら足を踏み入れる。

 扉の壊れた祭司室の中から、静かな声が聞こえた。


「なにをぼやっとしている? 報告にきたのだろう。はやく中に入りなさい」

「……へ、陛下……!」


 慌てて祭司室へ入る。ここは屋根があるぶん中も比較的ましだった。まだ若い、王位を継承してまもない国王は穏やかに言う。


「よく、たどり着いてくれた。積もる話はこの先で聞こう」

「先……?」


 王はうなづいて、本棚の本を一冊動かした。ごご、と重たい音とともに本棚が移動し、地下への階段が現れる。

 王に続いて階段をおりる。


 地下は上の礼拝堂よりも少し広い空間だった。ほんのりと魔法の灯りで照らされている。

 中にいたのは、すべて女性だった。質素なベッドに横たわった王妃と彼女の世話役だろう女性たちが二人。もう一人は青年と同じえんじ色の制服を身にまとった、王妃専属の女性騎士だ。


 いや。


 王妃の横に、もう一人――赤ん坊がいる。

 そういえば。

 そろそろ後継ぎが生まれると城下町でも噂になっていた。


 それが――まさか。

 まさか、こんな日に。


 ここにいる皆がそう思っているだろうことなどつゆ知らず、赤ん坊はすやすやと安らかな寝息を立てて眠っていた。


 国王は慈しむように瞳を細めて王妃と赤ん坊を見る。こんなことさえ起こらなければ、すぐにでも抱きしめていただろう家族の顔をしばし眺めて、女性騎士に変わりはないか問うた。彼女は「変わりありません」と短く答える。


「不思議かい? ここは昔から男子禁制なんだ。なにせここには、男をまどわす神族がいるからね」

「え?」


 言われて、やっと気が付いた。部屋の奥に古びた石像があることに。


「まさか、これは……」

「罰を受けた神族の成れの果て……と言われている。まぁ、真偽のほどは知らないよ」


 それは膝をつき、両手を胸の前で合わせ背中から鳥の羽を生やした女性の像だった。それこそ芸術のような美しさだ。国王の言葉は冷たい響きを伴っており、祈りを捧げているかのような石像を語るには相応しくない。

 なにも知らない人間が見れば、こんな場所で埃をかぶっているのはもったいないと思うだろう。が、この国の国民であれば、王の言葉だけでそれが誰の像なのか容易に察しはつく。


「それで、外の様子は?」


 問われて、我に返る。

 そうだ、自分の使命は。


「城下町が占領されました。残る国民はすべて城の中に避難させ終わっておりますが……」


 ――騎士団は、全滅です。

 自身の報告にギリッと奥歯を強く噛みしめる。果敢に戦っている仲間たちの、逃げまどう民たちの姿が頭からはなれない。かたく握りしめた拳からは血が滲んでいた。


「相手は魔族の集団です。魔獣の群れごと、魔法で街を破壊しつくしました」

「……そうか」

「奴らは、雨が止んだら城に総攻撃を仕掛ける気です。俺たちを袋のネズミとしか思っちゃいないッ」


 怒りで思わず言葉づかいが乱れるが、咎められることはなかった。若き王は一度静かに目を閉じると、神族の石像を穏やかな青空の瞳で見上げる。


「我が国は、大陸と大きく引き裂かれることで罰を受けた。国交の断絶、絶えぬ魔族との小競り合いも罰のうちだとあまんじて受け入れてきた。だが、滅ぼされるほどの罪を、犯したのだろうか」


 柔らかな口調で石像に向かって語りかける。


「なぜ、我が国だったのだ。なぜこの国へ、エイジアシェルへ降りてきたのだ。お前が三種族間の取り決めを破らなければ、こんなことにはならなかった。すべての元凶は、人間へ近寄ってきた貴様にあるというのに。なぜいま、この国が滅ぼされなくてはならない……!」


 次第に熱を帯びる王の独白。

 それは、ただの伝説ではなかったのか。

 唖然として、王を見る。


 いつの間に手にしたのだろう。王は右手にナイフを持ち、ためらいなく刃を左腕に滑らせると石像の上にかかげた。


 朗々と、謳うように言葉を紡ぐ。

 それは、ちからある言葉だった。


「今こそ己が力を以ってその原罪を償う時」


 ぷつぷつと傷口から血が沸きあがり、ぽた、と石像を赤く濡らした。


「エイジアシェルの血を享けてここに復活せよ」


 大罪人――。


 ――ブリュンヒルデ。

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