2・空から降ってきた少女 (2)
「混沌の外に住まうものよ」
大きくはないが普段とは違う凛とした声音。
魔法を使うための詠唱である。だが、聞くものが聞けば、彼のそれは出だしからしてあきらかに異質だということがわかっただろう。
右手で少女を支え、左手をかざす。
「我が命を喰らいてその姿を具現せよ――!」
みじかな詠唱が終わるや否や、かざした手の先に巨大な魔法陣が迎え撃つように浮かび上がった。禍々しい赤色に光る魔法陣からは、大きな口と長い身体を持ついきものがみっしりと絡まるように詰まってうごめいている。それぞれ目の数も腕や足の本数どころか有無すらバラバラだが、口の中にびっしりと生えている鋭い牙が幾重にも重なっているところだけは共通していた。
ぎちぎちと聞こえる耳障りな音は、いきものの鳴き声だろうか。
――混沌の外に住まうもの。
それはつまり。
この世界という概念の外に存在しているもの――に他ならない。
世界の外の存在に干渉する魔法とは、まぎれもない禁呪だ。さらに、魔力ではなく命を削って魔法を使用する行為もまた、扱いの難しさゆえに禁止されている。
そんな魔法を、少年はためらいもなく使った。
ひときわ大きないきものの一匹が、ぎちぎちと頭をもたげてメビウスを見る。
「よぉ、『
にっと口の端を持ち上げ、上を指差す。彼の言葉がわかるのかどうかは不明だが、ワームたちは一斉にソレを見た。
パリン、と氷が割れるような音を立て、最後の防護陣が砕け散る。押し止められていた火球が落下を再開する。ごう、と熱気が過ぎていく。
それを見てワームたちのテンションは最高潮に達した。ぎちぎちと口々に鳴らしながら、見た目も大きさもバラバラないきものたちは我先にと炎へ向かう。世界の外に存在するいきものにとって、こちらの世界の命や魔力は最高のごちそうらしい。『悪食』の名にもれず、ワームたちはものの数分で太陽すら連想させた巨大な火球を食べ尽くした。
「はい、食べたら帰る! オレの命も喰ってデザート食べるだけのお仕事とか超好待遇だろ。こらそこ食後の散歩に出ない! はい、さっさと帰る!!」
炎があらかた消えたのを確認し、メビウスはもう一度左手をかざした。赤い魔法陣が一際強い光を放ち、ばらばらに行動し始めたワームたちを吸い込んでいく。小さな個体が森の中へ逃げ込みかけたがあえなく元の世界へ返された。
すべてのワームを吸収して、魔法陣――外の世界への扉を閉じる。
「…………」
静かになった上空を睨み、素早く気配を探る。だが、魔法が出現したときと同じく魔力どころかなんの気配も感じなかった。
感じなかったが。
おかしい。
なにか、変だ。
「坊ちゃん? 長居は無用かと思いますが」
「……ああ」
気持ちの悪い違和感が胸の中に居座っている。しかし、ウィルの言うことももっともだ。メビウスは少女を抱き直すと踵を返し、急ぎ石舞台のそでまで走る。
「転移陣、いけるか!?」
言った瞬間だった。
ぞくりと。
全身が粟立つ。
「ウィル!」
少年を突き動かしたのは、本能だった。ただ、ここにいてはダメだ、という予感のようなもの。
胸に抱いた少女を、渾身の力で突き飛ばした。少女の後ろにはもう足場がない。一度空から抱きとめた少女はまた、地面へと向かって落ちていく。
いままで感じたこともないほどの濃い闇が。
瘴気が、上空で爆発する。
「……ッ!」
瞬間、メビウスの身体に重く冷たい衝撃が走り背中が弓なりにしなる。遅れて、声すら出せぬほどの激痛がやってきた。
少年の細い身体は、銀色に輝く数本の茨に背中からつらぬかれていた。銀色、すなわち金属でできているもの。それは、魔のものの証明である。
輝く
少女を突き飛ばしたのは正解だった。下にはウィルがいる。少女だけでも彼に任せられる。もし彼女を抱いたまま飛び降りていたなら、メビウスごと少女もつらぬかれていただろう。彼を突き刺したまま、執拗に少女へと伸びる茨がなによりの証拠だ。
「……は……ッ、させ、るかよ……!」
脳が焼き切れてしまいそうな激痛に襲われながら、自身をつらぬく茨をひっつかみ、渾身のちからで引きとめた。銀の棘がぶつぶつと刺さる。一番太い茨を抱え込むと腕から手のひらまでずるりと皮膚が裂け、血が勢いよくあふれ出した。みるみるうちに血だまりが広がる。
はぁはぁと荒く血の混じった呼吸を繰り返しながら、それでも彼は胸をつらぬき暴れる茨を離さない。
「……ウィル! 彼女を――」
懸命にふり絞った言葉は、それ以上続かなかった。
少女は。
夜空色のうるんだ瞳で少年を見上げていた。
ほんの、ほんの――僅かなじかん。
メビウスは、少女に目を奪われていた。
ああ。
やっぱり。
もう、声にはならなかった。
とん、と膝が地に落ちる。
ウィルが少女を抱きとめるのがぼんやりと見え。
なにかあったけど、結局ルシオラと二人にはなれないなぁと、少年は少しだけ困ったように笑みを浮かべる。細めた目の端に、柔らかな転移陣の光が差し込んだ。
まぁ、人助けしたんだし、いいよね。
まぶたが、重い。
痛みはすでに麻痺し、失血も限界を超えている。全身全霊を込めて抱え込んでいた茨が腕から抜け出した。
ざりッと嫌な音を立てて茨が次々に引き抜かれる。抱え込まれていた茨は獲物を仕留められなかった腹いせか、わざと傷口に棘をひっかけながらゆっくりと戻っているようだった。
「ぅ……ぁッ!」
ぶちぶちと、身体の内からいろんななにかが引きちぎられるなんともいえない不快感がメビウスを襲う。声にならない悲鳴がもれた。感覚がとうに麻痺しているからこそ、痛いはずなのに痛みを感じないことこそが不快だった。
時間をかけて蹂躙していた茨も、とうとう背中から抜け出した。まだかろうじて繋がっている、動いている、彼の心臓を戦利品のように高らかに握って。
茨のまとう瘴気が、濃くなった気がした。まるで、笑ってでもいるような。
……ったく、悪趣味なこった。
もう少し体力が残っていれば、せめて毒づいていただろう。だが、いまの彼は茨が心臓を握っているからかろうじて重力に逆らっているだけの状態だった。強制的に、膝立ちのままにさせられているといってもいい。
血にまみれ元の色をなくした茨はゆらりと揺れたあと、力任せに心臓を引きちぎるといとも簡単に握りつぶした。
ぷちっとか、ばちゅっとか。
そんな音がしたのかもしれないが、メビウスにはもう聞こえていない。
やっと支えから解放され、少年の身体は石舞台の上にぱたりと力なくくずれ落ちた。ぽっかりと開いた胸の穴からはじわじわとまだ血が流れ続けている。
血だまりに落ちた三つ編みを飾るシンプルな金のリングが、一瞬赤い光に包まれたように見えた。
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