#1 風のグローリア

 最初にその本を見つけたのは、家の所有する街外れの丘の上にある別邸内の書庫であった。

 およそ二百年以上も昔に実際に起こった戦争を元にした物語から、今でも英雄として語り継がれている男の物語、さらには誰もが知らない少女を主人公とした魔獣との戦いの話など、まだ幼くも好奇心の旺盛な少年の心を満たし虜にするには十分であった。

 白銀色の髪を一つに結い束ね、館の書庫にある年季の入った木製のソファに寝そべっては一心不乱に物語を読み進める幼い少年————アベル=グローリアにとってはこの時間が何よりも至福な時間である。

 いつか自らも旅に出て各地を見て回る。それが少年アベルが密かに抱いている夢。

 本を読みながらアベルはまだ見ぬ世界へと期待を膨らませるのだ。


「————坊っちゃま?」


 だから陽の沈む頃になるまで書庫に篭りっきりになることなどは毎度のことで、陽が沈む時間帯になると使用人が必ず少年を探しにその屋敷にやってくる。


「坊っちゃま〜? お迎えにあがりました。ご帰宅のお時間ですぞ?」

 

 その声に物語から意識を戻し、アベルは本をパタンと閉じた。


「ごめんルーカス! 今行くよ!」


 軋む長椅子から跳び降りると、急いで本を書棚へと戻しアベルは使用人の待つもとへと向かった。

 書庫から出たアルマが急いで階段を駆け下りたところには、白髪の頭を綺麗に整えた老人が背筋をスッと伸ばして立ちアベルを待っている。

 老人はアベルの顔を見るとニコリと優しく微笑んだ。


「さぁさぁ、坊っちゃま。陽が完全に沈みきる前に屋敷へ帰りましょうぞ?」

「うん。いつもごめんね、ルーカス」

「ほっほ。構いませんぞ。坊ちゃんの迎えに行くのが、このルーカスめの務めであり楽しみでもあるのです。——ささ、お早くお乗りくださいませ」


 促されるままにアベルは馬車へ乗り込み、それ続いて使用人のルーカスが馬車へ同乗する。それから馬車は動き出した。

 それと同時に屋敷の門が開き、馬車が屋敷から出ると門は閉じる。

 陽の落ちるのを窓から眺めながら、アルマを乗せた馬車は街と向かうのだった。



 遥か昔に大精霊の加護を与えられし眷属より創られし大国。国の中心地の上空に浮遊する巨大な浮遊城。その城を中心に国が四方の領地へ分割し、精霊の眷属たる者の血縁達が自らの領土を統治している。


 四つの領には、それぞれの精霊に因んだ特性があり、南に位置するグローリア領は自然豊かな場所であり、常に澄んだ優しい風が街のあらゆる場所に設置された風車を回し領民の生活を助けている。そして、この国の守護を担う一族であるグローリア家が領主として統治している。


 空の精霊を崇拝し、風に愛され、風と共に生きる民。そして、空の精霊の眷属血を太古の時より受け継ぎし領主一族であるグローリア。アベルはその領主一族の子にあたる。


 アベルを乗せた馬車が屋敷を目指して街道を進み、その馬車の行手を遮らないように領民は道を開けては馬車に視線を向け、窓から見える領主の子の姿に僅かながら苦い顔になる。

 領民の顔に浮かぶ表情は領主の子であるアベルに向けられた敬愛心ですらない事に、幼いながらの少年にも理解できるものであった。


「……ルーカス。どうして皆は僕のことを嫌ってるんだろうね?」


 馬車の窓から見える街の人々の顔色から目を逸らし、向かい側に座るルーカスへと視線を向けるアベルに当のルーカスといえば「気にすることはありませんぞ」と微笑むだけ。

 このやりとりも既に毎回のことであるが、その度にルーカスが答えてくれる事といえば毎度同じ。

 それでもアベルは毎度この質問を年老いた使用人へと尋ねずにはいられないのだ。

 ルーカスだけではない。周囲の苦い顔色に気づいた頃からアベルは父や母、兄にすらも同じ質問を尋ねるが皆が決まって答えてはくれない。それどころか困った顔をされる始末。

 子供ながらに困らせてはいけないと、いつしかアベルがそれを尋ねるのは使用人のルーカスのみになり、優しい彼ならいつか教えてくれるのではないかといった小さな期待でもあった。


「それはそうと——、明日は兄君の風冠式でございますぞ! 屋敷へ戻ったら坊っちゃまも明日に備えた準備でございます」

「え?」


 やんわりと逸らされた話題に、アベルは口を開いたままでルーカスの顔を見つめた。


「えと——、ぼく……やっぱり僕も出席しなきゃダメ?」


 兄が嫌いなんてことはない。むしろ精霊様からの寵愛を最も受けた子と称されるほどの兄を心から尊敬しているし、兄も弟のアベルを可愛がってくれる。

 しかし、それでも自らも風冠式に出席し公の場にでることに対して前向きにはなれなかった。

 領地の民でさえもアベルのことを好ましくは思っていないのだ。兄だけでなくグローリア家に恥をかかせてしまうのではないか、とアベルは怯えてしまう。


「……坊っちゃま。お気持ちはお察ししますが、気にされずに堂々としていればと私めは思いますぞ。この老いぼれにとっては、坊っちゃまも気高きグローリア家の者でございますゆえに!」

「ルーカス……」


 ルーカスの優しい言葉にアベルの胸が暖かくじんわり滲みだす。口元が緩むのを感じ照れ臭さから顔を背けつつも、アベルは「ありがとう」と弱々しくも言葉を付け足した。




 街の中心にある二塔の巨大な風の灯台。その手前にあるグローリアの本邸は、いかにも領主の住む館……とは初見の者でなくとも思わないだろう。

 国で最高位有力一族の屋敷というよりは、街でそこそこ裕福そうな者の屋敷。

その例えがしっくりくるくらい、煉瓦造りの住宅である街の建物と同じ造り。

唯一の違いは領民の住まいよりは敷地も館も広く大きく頑丈に造られているくらいだろう。

 どちらかと言えば街外れの丘の上にある別邸の方が領主の屋敷としてはしっくりくる。


「ベル!」

「————ッ!?」


 グローリアの館に馬車が到着し館の玄関扉をルーカスが開けたところで、自らの名前を呼ぶ声と共に勢いよくアベルの顔が何か柔らかなモノに埋まり、そのまま頭と体がギュッと強い力で締め付けられた。

 心地よい甘い香りと、顔を包むやわらかな感触、同時に襲う息苦しさ…………


「ベル! まったく! どこ行ってたのですか!」

「————う……ッッ!?」

「その辺で解放してあげてくれ——サラ。君は私の可愛い弟を窒息させる気なのかい?」


 いっそう締めつける力が強くなり、息苦しさにアベルが声なき悲鳴をあげたと同時に馴染みのある声が仲裁をかけた。

 アベルの体を力強く抱きしめていた少女は、その声に渋々ながら従いアベルはやっと解放される。


「ごめんなさい、ベル。その……苦しくするつもりはなかったのだけれど……」

「うっ……うん。大丈夫だよサラ。兄さんも、ありがとう」


 顔を上げれば甘栗色の長い髪をポニーテールにした少女がしょぼんと肩を落として立っていて、その後ろには金色の髪の青年が「やれやれ」といった感じで苦笑していた。

 家臣の子であり幼なじみであるサラと、アベルの兄である長兄のカインである。

 

「はは。——どうせまた街外れの館にでも行っていたんだろう?」


 カインがチラッと扉の方を見遣る。ルーカスが静かに扉を閉めて静かに微笑む。


「ただ今戻りましたぞ。カイン様」

「ルーカスがアベルに付いてくれているから私も安心だ。苦労をかけるね」

「いえいえ。坊っちゃまをお迎えに行くのは、このルーカスにとっての楽しみの一つでございますぞ。それに————あちらの館には個人的な思い入れがございますので、それも老人の楽しみでもあるのでございます」


 ルーカスはニコリと微笑み、と同時に少し寂しげな影がその顔によぎったようにアベルには感じた。


「さて、それでは私めはこれにて失礼させていただきます。明日の風冠式の準備に戻らなければなりません故に。————サラ様。もし御時間がおありでしたらカイン様の儀式用の衣装の確認をお願いしてもよろしいですか?」

「ふふ、任せてください。後ほど確認に向かいますね」


 サラが頷くと、ルーカスは一礼後に踵を返して歩み去った。それを見送ったあとに、サラはアベルの方へ振り向き抱きしめた。今度は優しくである。


「……サラ、大丈夫だよ。また本を読んでたら時間を忘れてしまっただけだから——」

「そう……でも、もう少し早く帰ってきてくれないと私もカイン様も心配だから……」

「兄上も?」


 アベルがチラっとカインの姿を見あげると、兄は金色の髪を揺らしながら恥ずかしそうに頭をかいた。照明の光に当てられた髪がキラキラと輝く。


「改めて言われると少し恥ずかしいが、勿論さ。アベルは私の唯一の弟だからね。私とサラだけではないよ。ルーカス達使用人もだし、もちろん父上も母上も同じ気持ちだとも」

「……へへ」


 アベルの口元は自然と緩む。それを目にしたカインは気恥ずかしそうに頬をかき、サラも優しく微笑んだ。

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