23話 天然ギャルとモラトリアムな話をした。
色んな意味で落ち着きを取り戻した、午後十時。
僕の家のリビングに、歪な『川』の字ができあがっていた。
リビングの入り口方面からベランダ方面に向けて、木綿布団二組と『人をダメにしつづけるソファ』が並んでいる。
入り口近くの布団は赤霧さん、真ん中がミツミ、そしてソファは僕の寝床だ。
「兄さまはこの家の主なのですから、普通の布団をお使いになればいいのに……やっぱり、わたしと一緒のお布団で寝ますか?」
「遠慮しとく。というか、本当はこのリビングで寝るのも遠慮したいぐらいなんだよ、僕は」
「それだけはダメなのです。主をほかの部屋に追いやるなど、わたしの次期女将としての誇りが許さないのです」
「ご立派なことで」
嫌味でもなんでもなく、未来を見据えてる人間は意識がちがう。
未来から逃げている僕とは、だから正反対なのだ。
「そういうことですから、わかりましたね? ぽっちゃりさん」
言って、ミツミは布団の上で寝転がる赤霧さんを見やった。
余談。お風呂を出たあと、新しく着るものがないことに気が付いた赤霧さんは、
一歩間違えれば露出狂である。
というか、自宅に戻ったのならそこで着替えてきたらいいのに。
まあ、赤霧さんのそんな天然ぶりにも慣れてきたから、もう驚きはしなかったけれど。
閑話休題。
「わかったって、なにがっスかー? ミッちゃん」
「ミッちゃんって言わないで――兄さまの寛大な御心に感謝なさい、という話なのです。兄さまがこのような粗雑なソファで眠ってくださるからこそ、わたしたちは立派な布団で眠ることができるのですからね? その辺、ちゃんと理解しているのですか?」
「ういー、ミッチーありがとー」
「いえ、どういたしまして」
「このふたりは……」
呆れ顔でため息をつき、ミツミは旅行用バッグから歯磨きセットを取り出すと、赤霧さんのお尻をわざと踏んづけて洗面所に足を向けた。
「うぎゅ! ミッちゃん、なんでお尻踏むんスか!?」
「脂肪ばっかりでやわらかそうだったから」
「え、そう? ふひひ、褒めてくれてありがとー」
「……ほんと、調子が狂う人なのです」
にへら、と頬を緩める赤霧さんから視線を切り、リビングを出て行くミツミ。
お風呂場でなにがあったかは知らないけれど、なんだかんだ仲良くはなっているようだ。
まあ、それはさておき。
「では、赤霧さん。そろそろお泊り会のメインイベントといきましょうか」
「へ? メインイベント?」
「アニメ鑑賞会ですよ。そのために僕の家でお泊り会をしたい、とお願いしたんでしょう?」
「……あー、そういう解釈できたっスかー……なるほどなあ……」
「なんですか、その諦めにも似た切ない微笑は」
「べつにー? ミッチーはおもしろい人だなあ、って思っただけっスよー。まあ、だからこそやりがいがある、って感じっスけど」
「? やりがいとは?」
「ひみつー」
はぐらかして、赤霧さんはテレビのほうにゴロン、と向き直った。
「ほらほら、いいからアニメ見せるっスよ! ちょうど『ロードアビス』一期を見終わったところなんで、なんか別のアニメも見てみたかったんスよ」
「なッ……一期を見終わった!? なんでそれを早く言ってくれないんですか! ああ、どうしよう、こうなったらアニメ鑑賞会はやめて『ロードアビス』の座談会でも開きますかッ!?」
「ミッチー、落ち着くっス」
「で、でも! 語れるオタク仲間が目の前にいるのに、こんな……!」
「今日はアニメを見る日。座談会は別の日。アンダースタン?」
「うううぅぅ……! わ、わかりました」
行き場のない情熱を必死で抑え込みながら、アニメの選定に入る。
その最中。赤霧さんはひどく楽しそうに笑い、布団の上でお腹を抱えていた。
その様子を見て、僕も思わず笑みをこぼす。
いつも教室で見ていたあの笑顔が、自分の日常の中にある。
そんなささいなことが、なぜだろう、とんでもなく幸せなことのように思えた。
アニメ鑑賞会がスタートして、はや一時間。
ふにゃっとした生物が色んなキャンプ地を点々と巡るアニメ、『ふにゃキャン□』の第三話を開始した辺りで、隣の布団で眠るミツミが寝息を立て始めた。
時刻は午後十一時すぎ。
旅館育ちで早寝早起きが染みついているミツミには、酷な時間帯である。
リビングの明かりを消したあと、ミツミの頬にかかった黒髪をそっとどかして、崩れた布団をかけ直す。
「これでよし。赤霧さんもそろそろ寝ますか?」
「んー、もうちょっと起きてるっスよ」
「そうですか」
応え、僕と赤霧さんはどちらからともなくテレビに視線を移した。
テレビの明かりだけが灯る
気まずいわけではない。アニメに見入っているわけでもない。
深夜特有の空気、とでも言おうか。
なにかを考えているわけでもなく、けれど、なにも考えていないわけでもない。
気だるくも心地よい、停滞した空気が、いまこのリビングを支配していた。
そんな特殊な空気のせいなのだろう。
「ミッチーはさ」
アニメが第四話の中盤に差しかかった辺りで、テレビを見つめたまま、赤霧さんが何気なくといった風に訊ねてきた。
「どうして、ひとり暮らししてるんスか?」
「あれ、まだ話してませんでしたっけ?」
「聞いてないっスね。ああ、もし話しにくい事情だったら……」
「あはは。全然大した理由じゃないので、大丈夫ですよ」
ソファを顎の下に移動させ、うつ伏せの状態に寝転がりながら、僕は続ける。
「一言で言うなら、アニメを見るためにひとり暮らしを始めました」
「またミッチーはそんな……」
「冗談ではなく本当にそうなんですよ。僕にはなにもなかったから、アニメを見ることで……アニメに没頭することで、ナニカを掴めるかもと思ったんです」
幸い、子供の頃からやってきた旅館の手伝いで貯金はそこそこ貯まっていたから、引越しや家具などの資金面で、両親の手を煩わせることはなかった。
〝もっと『子ども』になってもいいのよ?〟
なんて、義母は言ってくれていたけれど。
「モラトリアムっていうんですかね? まあ、自分探し、と言い換えてもいいです」
「自分探し……なんか青春っぽいっスね」
「そんないいものでもないですよ。結局は、まだなにも掴めてませんし」
「掴もうとすることに意義があるんじゃないんスか? 立派っスよ、ほんと」
「そうなんですかね……うん、そうだといいですけど」
「でも……なるほどっスね」
ゴロン、と仰向けになり、赤霧さんは天井を見つめながら。
「ミッちゃんが連休でもないタイミングでココに来た理由が、ちょっとだけわかったっスよ」
「僕が連絡しなかったから、では?」
「さみしかったからっスよ」
即答して、赤霧さんは静かにミツミの布団を指差した。
つられて視線を落とすと、僕のジャージの右袖を、なにかが握っていた。
ミツミだ。
眠ったままのミツミが、両手でギュウ、と力強く僕のジャージを握っている。
まるで、行かないで、と言わんばかりに。
眠るミツミのその目尻には、薄っすらと涙が滲んでいた。
「話を聞く限りだと、突然ミッチーが家を出ていったって感じがするっスからね。ミッチーにとっては一大決心の末の行動だったんだろうけど、ミッちゃんにとっては相当ショックだったと思うっスよ。大好きなお兄ちゃんが、急に目の前からいなくなるんスから」
「…………」
「キツいっスよ、大事なひとが目の前から消えるのは」
妙に実感のこもったつぶやきと共に、ミツミの髪をやさしくなでる赤霧さん。
それに反応して、ミツミの泣いてしまいそうな表情がスッ、とやわらいだ。
僕は、ミツミの涙をそっと拭いつつ。
「たしかに、自分勝手すぎましたね……周りのことを考えてない」
「周りのことを考えられたらモラトリアムじゃないっスよ、きっと。ワガママで、自暴自棄で、がむしゃらで――そうしてグチャグチャな感情に従って突き進むのが、モラトリアムな若者ってやつなんスよ」
「……まるで先生みたいですね、赤霧さん」
「まあ? 成績だけで言えば、ミッチーよりは上っスからね、私」
「そんな秀才の赤霧さんは、どうしてひとり暮らしを?」
会話の流れとしてそう訊ね返すと、赤霧さんは得意げな顔をすこしだけ曇らせて。
「いまは内緒」
と、答えた。
「でも、いつか必ず話すっスよ。ミッチーにだけ語らせておいて私が話さない、なんてのは、フェアじゃないっスからね」
「わかりました。では、そのときを楽しみにしときます」
「ふひひ。ありがとう、ミッチー」
ありがとう、と。
暗闇に溶け込んでしまいそうな声でつぶやき、赤霧さんはそっと目をつむった。
僕はひとり、第五話に入ったアニメを、ただただ眺めていた。
なにが掴めるかもわからずに。
□
「ミツミ、忘れ物はないか? ハンカチはあるか? ああちょっと、スカートがよれてる」
「ちょ……そんなところまで直さなくていいのです」
明けて翌日。
朝陽もあくびをしているような午前五時半にミツミは起床し、唐突に「帰るのです」と言い出した。
実家までは片道三時間程度。帰るにしても早すぎる時間帯である。
なんとか引きとめようとしたがミツミは聞き入れてくれず、僕と赤霧さんはこうして、マンションの前まで見送りに来ていたのだった。
まあ、早起きに慣れている僕はともかく、赤霧さんは半分まぶたが落ちているけれど。
「朝ごはんぐらい食べていけばいいのに。僕が作るぞ?」
「だから、兄さまが作ったら世界が滅ぶのですよ。何度言ったらわかるのですか」
「僕の料理スキル、悪い方向にアップグレードしてない?」
「ともあれ。途中でなにか食べるので朝ごはんはいいのです。お気持ちだけいただきます」
「そうか……それじゃあまあ、気をつけてな」
「兄さまも。RINEのIDも交換したのですから、これからはちゃんと連絡してくださいね?」
「了解」
「それと」
そう言って、ミツミは赤霧さんの前に立ち、そっと右手を差し伸べた。
握手の形だ。
「その……な、『ナコ』さんも、色々とありがとうなのです。よく眠れました」
その言葉に、思わずドキリとする。
昨晩、赤霧さんと会話していたあのとき、ミツミは起きていたのだ。
いや、あの寝息からするに眠ってはいたけれど、半分起きていたような状態だったのだろう。それこそ、頭をなでられたことはわかる程度に。
してやられた、といった風に赤霧さんはため息をひとつ。昇り始めた太陽と同じような笑顔で、ミツミの手を握り返した。
「どういたしまして。今度はもっとゆっくり遊びに来るっスよ、ミッちゃん」
「だから、その呼び方はやめてください」
ふっ、とシニカルな笑みを残し、ミツミは手を離すと、颯爽と駅に向けて歩き始めた。
その中途。ミツミは思い出したようにこちらを振り返り、大きな声でこう言った。
「ナコさん! 今日一日、兄さまを譲ってあげたのですから、ちゃんと進展するのですよ!」
「ちょ、ミッちゃん! なんでそんなことを大声で……!」
「……進展?」
僕が首をかしげていると、隣に立つ赤霧さんがあわわ、とうろたえ始めた。
遠くのミツミが笑い声をあげ、帰宅の足を再開させる。
久しぶりの妹との再会は、こうして幕を閉じていった。
余談。
この一週間後に、中学校の創立記念日だとかなんとかで、またもミツミが泊まりに来て一騒動あったのだが、それはまた別の機会に。
第二章 完
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