大学のカフェスペースの一角に座る僕の対面に誰かが着席した。

 トレーには粉末唐辛子のてんこ盛りの、おそらく汁なし坦々麺が乗せられてある。僕の視界は、食べかけのたぬきうどんの器の外に、ひるがえるグレーのジャケットを認めた。


「なぜここにいるんですかね」


「半休。ええじゃろ、たまには学生気分を味わいたくなるんよ」


 三蔵法師が両手を合わせながら言う。

 勢いよくすすり上げるや「ぶふぉっ!」と大いにむせる。たちまち、僕の昼飯は彼女と同じメニューと化した。


「何しに来たんですか」


 三蔵法師は「ちょっと待て」のジェスチャーをする。次いで、グラスの水をぐいと飲み干し、「おー辛。死ぬかあ思うた」と涙目を浮かべ、だみ声でそう言った。


「ところで悟空、この後暇か?」


「学校で僕のことを悟空なんて呼ばないでくださいよ」


「なんでじゃ。格好ええやん」


「恥ずかしいでしょう」


「あ、孫の方がええんか」


「らくちんカードマンの親戚と思われるのでやめてください」


「いやあ、むしろモテるけえ」


 僕は嘆息してしまう。


「いいです、もう、なんでも。......ちなみに僕は暇ではありませんから」


 忙しい。バイトで。

 ひたすらいなり寿司を握る仕事が時給850円である。ワンルームのボロアパートに住むには家賃を払わなければならない。


「まあ、この後言うても」


 三蔵法師は伸ばした腕をゆっくりと上げ、僕の後ろの方を指で示した。


「すぐなんよ」

 

 悲鳴が上がる。三蔵法師の指の先には、3メートルはゆうにあろうか、二足歩行の虎が立っていた。背中にダクトホースらしき管が何本も繋がれ、垂れ下がっている。肥大化した爪と低い唸り声。場はパニック状態で収拾がつかない。携帯で写真を撮る者、逃げる者、隠れる者、椅子を武器に構える者がいる。


「......猪八戒さんは?」


 と僕が訊く。


「おらんよ。なんや腹壊しちょる言うて休んどるけえ」


 困った顔で三蔵法師が答える。

 絶対に昨晩のことが原因だ。

 椅子に腰掛けたまま動かない様子を見て、僕は戦慄をした。


「まさか」


「戦え」


「無理無理無理無理無理無理」


 僕は全力で拒否をした。が、乳首に電気。体が硬直をする。

 

「オウオウ」


 獣が唸り、周囲の学生たちの殺戮をはじめた。巨大な爪を振り回し、あっという間に身体をバラバラに引き裂いていく。

 

「ゔぉええ!」


「吐いとる場合か。はよう、おどれの髪の毛抜いてフーっと吹けや」


 ——まさか、例のアレができるのか?

 僕は昨日の今日で、夢と現が曖昧になっているためか、不思議とやれそうな気がする。


「分身んん!」


 高らかに唱えた。ためらいなく髪の毛を思いっきり抜き、虎をめがけて放った。パラパラと足元に落ちた。終わりである。


「ぶははははは! 前髪、真ん中だけなくなっとる」


 三蔵法師が腹を抱えて笑う。

 他人にこれほどまでに殺意を覚えたのは、生まれて初めてかもしれない。

 僕は椅子を持ち上げ、怒りに身を任せて、力いっぱい虎に投げつけた。

 頭に命中した。縦長の黒目が僕を睨んだ。


「オウオウオウオウオウオウ!」


 怒気をあらわに虎が迫る。多分、僕は死ぬだろう。

 十字を切ろうとしたときだった。桃色の塊がトラを弾き飛ばし、そのままガラスを突き破って外に出る。仰向けのまま、ピクリとも動かなくなった。

 

「あっちが本命じゃけえの」


 三蔵法師が言う。

 大きなピンクのボールは変態をはじめている。とうとう、海獣のイッカクもかくやと立派な1本ツノを生やし、体格に見合わない貧相な手足が生えた。

 それは、学生たちの死肉が寄り集まっている亡者だった。


「さて、孫悟空の真価をとくと見せちゃろう」


 三蔵法師は不気味に微笑む。

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