5

 僕の真向かいには、猪八戒さんが座っている。

 およそ6畳間のリビングに2人きり。ガラステーブルを間に置いて、ジェラピケのパジャマ姿の彼女は冷えピタをおでこに貼っている。


「ご面倒をおかけして、本当にごめんなさい」


 猪八戒さんが頭を下げて言った。


「謝ることないですよ。気にしないでください」


 やわらかな深い渓谷が垣間見える。僕は断腸の思いで目をそらした。

 整理整頓の行き届いた部屋だ。シンプルかつセンスの良い家具に囲まれている。女性の部屋独特の香りがする。というか、異性の部屋にはじめて訪れたのだから、こんな匂いだったのか! という発見に驚く。なんだかまた緊張してきた。


 連絡があったのは今朝のことだ。何も予定のないオフの日。携帯のディスプレイに「早朝にすいません。ご相談させていただきたいことがあるので、今から家にきていただけませんか?」というメッセージが浮かんだ。車の怪異の退治された夜、念のためにと猪八戒さんと連絡先を交換しておいたのだった。

 僕を必要としてくれている! 

 ——僕は飛んだ。道すがら薬局で適切なものを買い、オートロックのマンションを無事に通していただき、今に至る。


「あの、相談というのは」


 と僕が言う。


「例の人のことなんですけど」


「三蔵法師さんですか?」


「ええ、さんぞさんぞ......」


 顔を引きつらせる猪八戒さん。そんなに言いたくないのか。すさまじいトラウマがありそうだ。

 猪八戒さんは咳ばらいをひとつした。


「何か最近、変わったことはありませんでしたか? 体に異変があるとか、気分がいつもと違うなあ、とか」


「変わったこと、ですか」


 僕の脳裏に、昨日の記憶があざやかに思い出される。

 ピンク色のブヨブヨとした化け物に相対し、僕はどうすればいいかわからずに立ちすくんでしまった。すると三蔵法師が僕の腰をガっとつかみ、「伸びろ如意棒!」と叫ぶや僕の股間から鉄棒が勢いよく飛び出し、風船を割るように標的を倒してしまった。その直後、時間を巻き戻すごとく状況が変化し、何事もない平和な日常が取り戻されたのである。


「こんなことがありました」


 討伐の仕方については伏せ、かわりにとても格好良く伝えた。


「やっぱり」


 猪八戒さんが言う。


「あの人と会ってから、おかしな力が身についてしまったみたいで。私、それから普通の食事ができなくなって、別のモノが強烈に欲しくなるんです」


「なんですかそれは!」


「妖怪の」


 一寸間があって、彼女は「血肉です」と結んだ。

 インターフォンが鳴った。エントランスではなく、玄関のチャイムが押されている。


「おはようございまーす。本物の刑事でーす」


 粗雑に扉がノックされる。人のよさそうな感じはしない。

 おびえる猪八戒さんの代わりに、僕は鴬張りの廊下を渡る気持ちで玄関へと歩を進め、ゆっくりと錠を開けた。


「あら、ぼくちゃん。ここ女が住んでるよな。彼氏?」


 警察手帳を見せながら、初老の男が訊ねる。しかし返答を待たずして、僕の肩越しに部屋の奥を探るふうに首を伸ばし、「いるじゃーん」と嬉しそうに言った。


「どんなご用件でしょうか」


 僕が訊く。


「この女について訊きたい」


 写真が差し出される。そこには、赤ら顔の三蔵法師が酒樽の中身を畳にぶちまけている様子が写されていた。


「ちょおっとだけ、おうちに入れてくれるかなあ?」


 失敗した福笑いみたいな笑顔だった。











 

 




 

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