第51話 人ならざる者。

 夢と現実の境界線を彷徨うようにぼんやりとクロウに身を任せていたリリアは、突然はっと我に返った。蒼ざめた顔でクロウを見上げる。


「! クロウ! 肩に、矢が! 早く手当てを!」


 酷く狼狽えながらリリアはクロウの逞しい胸元を押し、体を僅かに離した。クロウは僅かに腕の力を抜く。

 しかし、リリアを腕の中に捉えたまま、まるで労わるように見つめてくる。


「大丈夫だ。リリアが心配するようなことは何もない。何も……」


 クロウが囁く。

 その声は、これまで聞いたことがないほど優しいものだった。


「え……?」


 動きを止めたリリアを、再びクロウは抱きしめる。

 だが、彼の左肩に深々と突き刺さった矢をリリアは目の当たりにしている。何ともないはずはないのだ。


「……本当に、大丈夫なの? 傷は? 痛みは?」


 なおも心配するリリアに、クロウは少し困惑するような眼差しを向けてきた。


「本当だ。何ともない」


 おもむろにクロウは自分の左肩をリリアが見える様に傾ける。

 確かに、クロウが言うように、そこには矢はおろか血で汚れた痕跡もなかった。少し破れて穴が開いているが、そこから覗くクロウの肌には、傷らしいものは見当たらなかった。


「傷が無い……」


 頭の中はまだ混乱していたが、リリアはクロウの無事を確認できたことで、やっと心から安心することができた。心が緩んだ事と、何よりもクロウが生きて傍にいてくれる事がただただ嬉しくて、ぼろぼろと涙が頬をつたう。とうとうしゃくり上げながら泣いてしまったリリアの背中を、クロウは抱き締めながら優しく撫でてくれる。

 その腕の強さと温もりに、リリアはクロウの元へ戻ってこられたのだとやっと心から感じる事が出来た。


「もう大丈夫だ」


 優しくて力強いクロウの声が何度も耳元で聞こえる。彼の声を聞きながら、以前にも泣いているリリアの背を彼が優しく撫でてくれたことを思い出していた。全身を彼の温もりに包み込まれ、愛しい思いがさらに増していく。涙で濡れた目をクロウに向ければ、彼の静かな眼差しに捉えられた。

 とくんと、甘い痛みが胸を過る。

 いつのまにかクロウの纏う気が変わっていた。以前のクロウにはどこか危うく、人を寄せ付けないところがあった。

 だが、今はしっかりと大地に根をはったような安心感を感じる。

 リリアは今更ながら、近すぎるクロウとの距離にどきどきとしてしまい、落ちつきなく視線をきょろきょろと泳がせれば、彼の切創だらけの手の甲が目にとまった。よく見れば服もあらゆる場所が切り裂かれている。まさに満身創痍な状態だった。

 リリアは傷が増えたクロウの手にそっと触れる。


「クロウ……、この傷は?」

「ん? ああ、大丈夫だ。すでに血も止まっているだろ?」


 確かに血は止まっていて、乾いている。


「……ずっと傍にいて守ってくれていたのね。ありがとう、クロウ。」


 それだけしか言えなかった。言葉は便利なようで不便だ。クロウへの思いをうまく言い表せる言葉が見つからない。どうすればこの胸の内に湧き上がる気持ちをちゃんと伝えることができるのだろう。思い悩みながら見上げれば、クロウが笑みを浮かべて見つめていた。輝くような微笑みだ。

 クロウの過去はとても辛いものだった。そのことが彼に暗い影を落としていた。まるで自分は幸せになってはいけないと思い込んでいるようなところがあった。 

 だが、今の彼からは暗い影をまったく感じない。


「礼を言うのは俺の方だ。ありがとう、リリア」

「?」


 なぜか守られていたリリアが礼を言われたのかさっぱり分からなかった。

 しかし、クロウの言葉には言葉以上の想いを感じる。言葉では上手く気持ちをあらわせないないかもしれない。でも思いを込めれば伝わるものだとリリアは知ったのだった。


『人とは、計り知れぬものだな』


 不思議な響きのする声に驚いたリリアがクロウにさらに身を寄せ、その声の方へ顔を向けた。少し離れた場所に、眩い光を纏う美しい青年が立っている。彼の瞳の色に、リリアの目は釘づけになった。彼女は初めて同じ色の瞳を持つ者に出会えたのだ。

 しかし、その青年の目はリリアのもの、否人のものとはまったく違っていた。まるで吸い込まれてしまいそうな不思議な目だった。

 クロウは唖然としているリリアをまるでその青年から隠すようにさらに深く抱き込み、その青年に挑むように顔を向けている。


「リリアは戻って来た。どうか彼女を信じて欲しい」


(信じる? ……私を?)


 クロウが何のことを言っているのか分からない。

 ただクロウの声はとても力強いものだった。さらに強い光を放つクロウの眼差しを不思議な青年は怯むどころか、まるで包み込むように受け止めている。二人の間に漂う緊張感にリリアは思わずクロウの胸元に縋り付く。

 突如、全身が自分の体ではないようにずしりと重く感じ、うまく手に力が入らなくなった。必死でクロウの服を掴んでいるのに、ずるずると落ちていく。

だが、すぐに大きな手がリリアの手を掴んだ。クロウはそのまま気遣うように手を握り緊めてくれる。


「力が入らないのか?」


 こくりと小さく頷く。

 ふと見られている感覚に、目だけでその視線を追う。不思議な青年がただじっと静かに見つめていた。泣きたいような、微笑みたいようなそんな相反する不思議な気持ちが心の奥、リリアの心とは少し違うところから湧き上がってくる。


「あ……」


 突然、視界がぐるりと反転したかと思うと、目の前が真っ暗になってしまった。クロウのリリアを心配する声が遠のいていく。

 リリアの意識はそのまま途切れてしまった。

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