第50話 愛しい人。

 色とりどりの花に囲まれ、リリアはたった一人で胎児のように丸くなって横たわっていた。暖かな光がリリアを包み、深い眠りに誘う。まるで春の穏やかな日差しの下でまどろんでいるようだ。


『わたしが、守ってあげる』


 どこからか聞こえてくる鈴が鳴るようなかわいらしい少女の声。その声にどこか懐かしさを感じる。


「……誰? ……私、何か大切なことを忘れている気がするの。とても大切なことを──」


 徐々に薄れていく意識の中で、長い髪の女の人の姿が浮かび上ってきた。髪はリリアと同じ淡い金色で、薄青い瞳のとても気品のある美しい人だった。一目見ただけで、リリアとは住む世界が違う高貴な人であることが分かる。綺麗に結い上げられた頭上にティアラがきらきらと輝いていた。そのような人がなぜかリリアを慈愛に満ちた眼差しでじっと見つめてくる。その表情はどこか憂いているようにも見えた。戸惑いを感じつつもリリアはその女の人の事がとても気になった。

 だが、ますます意識を保ち続けることが難しくなっていく。


「……あなたは、誰なのですか? どうしてそんなに辛そうなの顔をして私を見つめるの? ……ああ、どうして……とても……眠い……少しだけ、眠らせ……て──」


 再びリリアは意識を手放しかけた。


『眠ってはならぬ』


 突如、張りのある少し低めの男の人の声がリリアの鼓膜を震わせた。まるでその声に引き上げられるように意識が浮上していく。再びあの美しい女の人が現れ、その傍に背の高い男の人が女の人を抱き寄せるように立っていた。男の人も秀麗な顔立ちをしている。蜂蜜のような金色の髪に、目の覚めるような青い瞳がとても印象的で、凛とした目はリリアのすべてを包み込んでしまうかのように優しい。その眼差しはとても温かく、リリアのことをまるで幼子を見る様に愛おしげに見つめてくる。


「……あなた達は、誰なのですか? どうして私をそんな目で見つめるの?」


 なぜか、二人がリリアの事をとても心配していることが分かる。なのに、リリアには二人が誰なのか分からない。ひどくもどかしく感じながらも、リリアはもっと彼らのそばへ近づきたいと思っていた。

 だがその思いを打ち消そうとするかのように、さらに強い睡魔がすべての感覚を飲み込んでいく。


『リリアッ!』


 ふいに聞こえて来た力強い若い男の声が、ぷつりと切れそうになったリリアの意識を繋ぎ止めた。心に訴えかけるような声に、リリアの心臓がドクリと大きく脈打ち、胸に走った鋭い痛みがリリアを目覚めさせる。


『俺は、ここにいる。おまえの傍にいるんだ! リリアッ! 応えてくれ!』


 心を強く揺さぶる声がリリアを呼び続ける。


「誰かが、私を呼んでいる……。この声は、誰? ……思い出せない。…………思い出すのが怖い。……怖い!」


 意識がはっきりと浮上していくのが分かる。

 だが、それに伴い、襲って来たのは胸を締め付けるような自己嫌悪とまるで押しつぶされてしまいそうな後悔の念。理由も分からず泣き叫びたくなった。リリアは息が止まるほどの胸の痛みに両手で胸を押さえる。


『痛いと感じるのは、生きているからだ』


 どこからか優しい声が聞こえてきた。大好きなおじいさんの声だ。


『恐れに向き合ってみなさい。大丈夫だ。おまえは一人ではない』


(おじいさん!)


 懐かしい姿を求め、強く閉じていた瞼を開ける。


「? ……ここは?」


 リリアはぼんやりと周りを見回す。あれほど咲き乱れていた花の姿はなく、淡い翠色に輝く光の球体の中にリリアはたった一人でいた。まるで大きな卵の中にいるみたいだ。その外側は真っ暗な闇がどこまでも広がっていて、何も見えない。

 とても不思議な場所だった。


(私は、夢を見ているのかしら……)


『リリア! 俺の声に答えてくれ!』


 再びリリアの耳に彼女の名を呼ぶ若い男の声が聞こえてきた。その声はとても切羽詰まった、どこか縋るような響きがして、リリアの心は激しく揺さぶられる。リリアは声に突き動かされるように立ち上がった。生まれたばかりの小鹿のように足が震える。ふらつきながらも、声がした方へ手を伸ばす。不思議なことに、手を伸ばせばきっと力強い手がこの手を掴み取ってくれると心のどこかで信じているのだ。

 だが、本当は思い出すことがとても怖い。不安で仕方がない。

でも、おじいさんの声が励ましてくれたように、怖がっているだけでは駄目なのだ。自分が恐れ、逃げようとしているものに向き合おうと心に決める。


『俺の名を呼べ! 呼んでくれ! リリアーッ!』


 その声が引き金となった。心に被さっていたものが一気に吹き飛んだような感覚が体中を駆け抜け、まるで湧き水のように愛しいと思う気持ちが溢れてくる。恋しく思う人の名と共に。

 リリアはその名を声の限りに叫ぶ。


「クロウ──ッ!」


 閉じ込められていた記憶の数々が、まるで水門を開いたかのようにものすごい勢いで流れ出し、過去の情景が走馬灯のようにリリアの脳裏に次々に浮かんでは消えていく。

 そして、最後に浮かんできたものは、リリアを逃がすため、左肩に矢を受けて倒れるクロウの姿だった。

 心臓を握り潰されるような激痛が走る。喉を熱い塊が塞いだ。鼓動は壊れそうなほど激しくなっていく。

 リリアは全てを思い出したのだ。


「私はどうしてこんなところにいるの? 早くクロウのところへ行かないと!急いで手当てをしなくては、手遅れになってしまう! 私のせいで、クロウが死んでしまう!」


 倒れたクロウの姿が目に焼き付いている。焦燥感がさらに痛む胸を焦がしていく。


「クロウ! クロウ! クロ──ッ!」


 愛しい人の名を叫びながらリリアは光の幕に縋りつく。

 だが、光の幕は固い感触を伴い、障壁として彼女の行く手を阻む。温かく感じていたはずの光が今は酷く冷たく感じた。

 リリアは光の壁を拳で何度も何度も叩き続ける。


「お願い! クロウのところへ行きたいの。お願いよ! 行かせてっ!」

 

 光の壁はリリアの切な願いを拒み続けていた。翠緑色の瞳から零れ落ちた涙の滴がきらきらと輝きながらリリアの足元の光の幕に吸い込まれていった。


「!」


 突然、リリアの周りを取り囲んでいた光の壁がキンッと澄んだ高い音を響かせ粉々に弾け散った。リリアの体は暗くて深い闇の中に容赦なく放り出され、どちらが上かさえ分からない混沌とした暗闇の中をまるで見えない力によって押し流されていく。真っ暗な世界の中で、砕け散った光の破片は夜空に瞬く星のようにきらきらと輝きながらリリアの体と共に大きな渦の中心に向かって流れていく。流れに翻弄されながらもリリアの瞳は、彼女を取り巻く混沌としていた暗闇が徐々に濁りが消えていく様子を静かに映していた。

 さらに激しさを増していく流れに身を任せながら、リリアは不思議と恐ろしいと感じなかった。リリアを取り囲んでいるものは愛しい人の瞳の色と同じだったからだ。

澄み切った黒。

 流れの先に小さな光が見えはじめた。その光を中心にして渦が徐々に形を変えていく。リリアの想いを形にするかのように。


「! リリア……」


 黒水晶のように美しい黒い瞳がリリアを覗き込んでいた。小さな光はクロウの瞳の奥で輝く魂の光だった。


「……クロウ?」


 名前をそっと呼べば、まるで縋りつくように強く抱き締められた。まるでリリアの存在を確かめるように、クロウは頬をすり寄せ、何度もリリアの名前を呼び続けた。

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