第49話 精霊王。

『やはり、我らと人とは相容れぬのかもしれぬ』


 不思議な声が、耳ではなく直接頭の中に響いてきた。クロウは弾かれたように声の主を探した。

 森を背に、ぐったりと意識を失ったリリアを横抱きにして立つ長身の男の姿があった。目を疑うようなその男の美しい容姿にクロウは息を吸うことさえ一時忘れたほどだ。

 男は珍しい薄手の柔らかな風合いの真っ白な衣装に身を包んでいた。優し気な面差しに、緩やかに波打つ長い髪は金とも銀とも言い難い不思議な色をしている。すらりと立つ姿は、一見二十代後半ぐらいのように見えた。

 だが、この者から感じるのは、樹齢千年を超える大木のように、すべてを受け入れてしまうような奥の深さと、岩を削る激流のような抗いがたい厳しさだった。クロウはこのような不思議な風格を持った男に会ったことなどなかった。。


「くっ……」


 クロウは左手を目の前に翳し、目を細める。男が放つ水面の輝きにも似た澄み切った眩い光にずっと見続けることが出来ないのだ。太陽の光よりも優しく、月の光よりも暖かい。直接心に触れてくるような光だった。

 その幻のような光景の中でその男の瞳の色だけがはっきりと目に焼き付く。見る者すべてを引きつけるリリアと同じ翠緑色の瞳。

 だが、すべてを見通すかのような男の眼差しに思わず膝を付きそうになるのを必死で堪える。


「精霊の王────」


 クロウの唇は無意識に言葉を紡いでいた。男は肯定も否定もしない。ただ静かにクロウを見つめているだけだ。男の背後には彼と同じ白い衣装を身に纏っている者達が数人控えていた。

 だが、その者たちが男か女かさえ判断がつかない。すべては男が放つ眩い光に霞んで姿をはっきりと捉える事ができないのだ。

 やがて男はゆっくりとクロウに背を向けた。まるでそれが合図であったかのように背後に控えていた者達が足音一つたてることなく、男を守るように彼の後に付従い森へ向って立ち去ろうとする。


「待ってくれ!」


 クロウはすぐに後を追おうとした。

 しかし、足が大地に縫い止められているかのようにまったく動かない。苦痛に目を眇め、光に抗いながら連れ攫われていくリリアへ向け必死で手を伸ばす。


「精霊の王よ! リリアを、リリアをどこへ連れて行く気だ?!」


 男の歩みが止まった。ゆっくりと肩越しに振り返る。


(この男は精霊の王だ)


 クロウの予測が確信に変わる。


『聞いてどうする? 人の子よ』

「俺はリリアに関わる過去を見た。見せたのはあんただ。違うのか?」


 人でないならば、なおさらリリアを連れ去られるわけにはいかない。クロウの焦りを感じ取ったのか、精霊の王がクロウに向き直る。


『確かにそなたに過去を見せたのは、私だ』


 人ならざる者の眼差しをクロウは怯むことなく見つめ返す。


『俺に出来ることがあるからだろ?』


 クロウの真っ直ぐな眼差しを精霊の王は静かに受け止めていた。

 だが、その瞳にわずかに影が差したように見えた。


『……人は同じ魂であっても、記憶に蓋をしてしまうのだな。ならば、今のそなたでは荷が重すぎる。……この娘の魂には我が一族の者が寄り添っている。長い年月を経てその者はこの娘の魂に同化してしまい、一つになってしまった魂を引き離す事など、私を含めもう誰にもできぬ。これまではその者がまどろみの中にいたために、人ならざる力も眠っていたのだが、人の子であるこの娘が心を閉ざしてしまった今、我が一族の者が目覚め、人の感情に感化されたまま力を解き放ち、もう自力で止めることが出来なくなっている。このままではその力はさらに増大し、暴走しはじめた力はこの森さえ破壊し、娘が死ぬまでこの世界を破壊し続けるだろう』


 クロウの涼やかな目が大きく見開かれた。


(世界を破壊する?)


 握り緊めていた拳が震える。


(記憶に蓋だと? 俺は何か大切なことを忘れてしまったというのか?)


 言葉なく立ちすくむクロウの様子に、精霊の王の瞳にはクロウが畏れを感じていると映ったようだった。


『案ずるな。私には一族の者の暴走を止める責任がある。我が元でこの娘の身体は預かろう。この娘の命が尽きるまで眠らせる』


 精霊の王が発した言葉に、クロウの中で何かが弾け飛んだ。


「! 命が尽きるまで……だと? そんなことは、絶対にさせない!」


 クロウは奥歯を噛みしめ、唸り声をあげた。強く握り緊めた拳の中では爪が掌に食い込んでいる。痛みは感じなかった。感じるのは強い憤りと深い悲しみ、そして悔やみきれない後悔だけだった。

 リリアが心を閉ざしたというのなら、それはおそらく彼女の目の前でクロウが毒矢に倒れたからだ。リリアは自分を責めたにちがいないのだ。

 クロウは目を閉じた。悔やんだところで事態が変わるわけではない。今、分かっている事は、ここで必ずリリアを取り戻さねば、確実に見失ってしまうということだ。人であるクロウには到底辿り着けない場所へリリアは連れて行かれてしまうのだ。


(動かないのなら、動かせばいい!)


 全神経を足に集中させる。自分のものではないようにまったく動かない足にさらに力を入れていく。こめかみを汗が流れ顎を伝う。微かに靴の下で小石がこすれる音がした。僅かだが足が動く感覚をとらえると、クロウはそのまま引きずるように足を前へ押しやる。

 彼の目に映る者は、ただ一人。

 望む者は、ただ一人。

 心に浮かぶ愛しい笑顔に向け、クロウは有らん限りの声でその者の名を叫んだ。


「リリアッ!」


 クロウのリリアを想うその心の激しさに精霊の王が目を眇めた。


『……人という生きものは面白い。先ほどまで死にかけていたとは思えぬ気迫だな。だが、この娘はこの世のあらゆる命が傷つくことを望んではおるまい』

「そんなことにはならない。俺がリリアにそんなことはさせない!」


 クロウは必死でリリアへ手を伸ばす。


「リリア! 俺の声に答えてくれ!」


 クロウはすでに大切な人たちを大勢失ってきた。もうどんなに願っても、もう二度と彼らに会うことは叶わない。

 だが、リリアは違う。

 彼女は今目の前にいる。まだ手を伸ばせば触れられる所にいるのだ。


「俺の名を呼べ! 呼んでくれ! リリアーッ!」


 クロウの魂の叫びが時のとまった空間に響き渡った。

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