第48話 精霊の光。

 淡い光に包まれ、大地に横たわるクロウの体から、深く刺さっていた矢がぽとりと抜け落ちた。傷口を覆っていた黒い靄が霧散し、傷が跡形もなく消え去っていく。クロウの肌が徐々に本来の色を取り戻し、固く閉じられていた瞼がわずかに震えると、黒く澄んだ瞳がゆっくりと現れた。

 その瞳に光が宿る。


「──リ……リア……」


 クロウはふらつく頭を左手で押さえ、右肘で体を支えながらゆっくりと上半身を起こした。顔を上げた途端、にわかに信じがたい光景が目に飛び込んできて絶句する。

 いつのまにか降りだしていた猛烈な雨の中、地中から伸びた巨大な蛇のようなものに体を巻き付かれた男達が、雨に打たれながら空中で悲鳴をあげているのだ。辺り一面、地中から伸びる蛇のようなものがいくつも蠢いている。そのどれにも頭とおぼしきものが何も無い。細く尖った先はどう見ても木の根のように見える。

 だが、木の根がまるで生き物のように蠢き、さらには人を襲うなど見た事も無ければ聞いた事さえ無かった。


(何が起きている? リリアは? リリアは、どこに……?)


 クロウは身を前に乗り出そうとして地面に手をつき、違和感に気付く。クロウのいる地面だけが乾いていた。不思議なことに、クロウのところだけまったく雨が降っていないのだ。よく見れば淡い光が幕のようにクロウを覆い、まるで雨や化け物から守っているかのように見える。


 「おやじっ!」


 茫然としていたクロウの耳に、突然聞きなれた声が飛び込んできた。ルイの声だ。

 弾かれたように顔を向ける。視線の先、ルイとシャイルがお互い背を預け、雨に打たれながら地中から伸びた異形のものと戦っていた。


「ルイ!」


 仲間の名前を有らん限りの声で叫べば、すぐにルイが振り返った。


「クロウ!」


 歓喜に満ちた声でルイがクロウの名を呼ぶ。

 だが、すぐにルイの女達が好むどこか甘さが感じられる顔が歪んだ。


「クロウ! おやじが……、おやじが!」


 ルイがひどく動揺していた。こんな異様な状況下では当然の事とはいえ、これほど切羽詰まった声を、クロウは今まで聞いた事がなかった。いつでもどんな時でも飄々としていて、これほど焦っている姿を人前にさらすことなどなかったのだ。ルイが言う『おやじ』が誰をさすのかも分からない。


「ルイっ! 『おやじ』と呼ぶなと言っておいただろう!」


 すぐにルイ達のところへ向かおうとした瞬間、空からガルロイの強く逞しい声が降ってきた。驚き見上げれば、幾重にも巻き付かれた異形の隙間から剣を掴む見覚えのある逞しい腕が見えている。


(! ガルロイまでもがすでに捕らわれていたとは……)


 クロウは愕然とする。さすがのルイもひどく動揺するはずだ。彼は団長のことをとても慕っているのだ。再びルイに目を向ければ、彼は泣き笑うような複雑な顔でガルロイを見つめている。


「俺に心配ばかりかけさせるからだよ! バカおやじ!」


 怒ったような口調でルイが言い返す。ルイはガルロイの声を聞き、本来の彼に戻っていた。


「すまん! ……だが、これぐらいでへたばるような男だと思ったのか? 馬鹿はおまえだぞ、ルイ! 俺は、大丈夫だ。脱出するぐらい自分で出来る。おまえは今すぐシャイルと共に安全な所へ避難しろ!」


 苦楽を共にした仲間の声を聞き、クロウも少なからず冷静になることができた。ガルロイの声の調子からしても意識はしっかりとしているようだ。何と言っても本人が自力で脱出出来ると言っているのだから、あの男なら実際にやってのけるだろう。


「うわぁっ!」

「「ルイ!」」


 クロウとガルロイが同時に緊迫した声をあげた。

 ルイが襲われたのだ。次いでシャイルまでもが捕えられ空中へ引きずり上げられていく。駈け出そうとしたクロウは背後に何かが動く気配を感じ、振り向いた。


「リリア!?」


 背後にリリアが立っていたのだ。信じられない事だった。これほど近くにいたというのに、今まで彼女の気配を一切感じていなかったのだ。

 だが、すぐにクロウはリリアの異変に気付く。短かった髪は地面に付くほど伸び、無風の光の中で大きく揺れ動いている。

 そして何よりも、ずっとクロウの心を揺さぶり続けている優しい翠緑色の瞳が今はただ冷たく妖しく輝き眩い光を放っているのだ。

 

「リリア! しっかりしろ! 俺だ。クロウだ! 分かるか?」


 華奢なリリアの両肩を掴み、リリアの名前を呼びながら揺らす。

 だが、何の反応も返ってこない。まるで目の前にいるクロウが見えていないかのようだ。感情が抜け落ちてしまったかのような表情で捕らわれた男達をじっと見据えている。動揺を隠せないクロウの目の前でほっそりとしたリリアの右手がまるで操られているかのようにゆっくりと持ち上げられていく。

 そして、その手が正面に向け開かれた瞬間、雨に濡れた大地が水しぶきを上げて砕けた。大きな岩や石が音をたてて崖下へ崩れ落ちて行く。

 理解を超える衝撃がクロウを襲った。


「ガルロイ! ルイ! シャイル!」


 崖の一部が無惨に崩れている。

 クロウはリリアからは手を離さず、仲間達の名を叫んだ。


「クロウ! おまえは無事なのだな? 俺も大丈夫だ!」

「もう嫌だ~。本当に、勘弁してよ~」

「私は大丈夫です! リリアは、リリアは無事ですか?!」


 上空から望んだ者達の声が聞こえてくる。幸運なことに彼らはみな無事なようだった。彼らを捕えていた異形のもの達にはまったく影響がなかったことが幸いした。地表が崩れようと、地中深くから伸びた異形のものはガルロイ達に巻き付いたまま変わりなく蠢いている。


「リリアは無事だ! もう少しの間、何とか持ちこたえてくれ! 必ず助ける!」


 クロウは仲間達に声を掛けながら眉間に深い皺を寄せる。雨脚は激しくなるばかりで、このままではガルロイ達の体力にも限界があった。その上、先ほど崩れた土砂が崖下を流れていた川の水をせき止めているはずだ。このまま雨が降り続ければ、いずれ下流にある村や町が多大な被害を受けることになるだろう。

 思考を巡らすクロウの脳裏にふと浮かんだのは草原にいた不思議な少女の姿だった。


(精霊……? 彼女の力なのか?)


 記憶に鮮明に残る畏れを感じた精霊の少女。

 そして、この光!

 クロウはリリアに向き直る。顔も体も確かにリリアだ。彼女の正面に立っているというのに、まったくリリアの存在を感じ取る事が出来ない。


「……リリアではないんだな? お前は誰だ? 彼女の体を乗っ取っているのか?」


 妖しく光る瞳をクロウはじっと見つめる。ずっと空を仰いでいた目がゆっくりとクロウに向けられた。リリアでなければ、どれほど見つめられてもクロウの心は満たされなかった。ぽっかりと空いてしまった心の空洞は、もうリリア本人でしか埋める事はできない。


『乗っ取る……? 違う。守っているだけ』


 鈴をころがすような声がリリアの花びらのような唇から零れる。

 だが、その声はやはりリリアのものではなかった。


「止めるんだ! 止めてくれ。リリアにこれ以上酷いことをさせないでくれ。頼む! この事を知ればリリアはひどく悲しむ!」


 懇願するようにクロウは語り掛ける。

 しかし、興味を失ったように翠色の瞳は再び空に向けられ、ほっそりとした白い手がゆっくりと持ち上がっていく。クロウはその手を掴み、華奢な体を強引に引き寄せた。

 そして、そのまま包み込むように強い力で抱きしめる。


「……俺は、ここにいる。おまえの傍にいるんだ! リリア! 応えてくれ!」


 腕の中にすっぽりと納まってしまう華奢な小さな体は僅かにでも身じろぎすることはなかった。

 だが、表情がなかったリリアの左目から突然涙がつと流れ落ちていく。


「くっ……」


 クロウの口からうめき声が漏れる。

 突如、リリアを中心にして強い旋風が巻き起こったのだ。巻き上げられた小石がクロウの衣服を切り裂き、傷つけられた頬や腕から血がにじむ。それでもクロウはリリアの体をしっかりと抱き込んだまま離そうとはしなかった。

 どれほどの時が経ったのか、いつのまにか風が止んいた。驚くことに、クロウの周りからあらゆる音が消え、耳が痛くなるような静けさがあたりを包んでいる。小さな体を守るように抱き抱えたままクロウはゆっくりと顔を上げた。

 そして、目を大きく見開く。彼以外のものがまるで時が止まったかのように動きを止めていたのだ。雨粒までも空中で静止している。


「リリア?!」


 クロウの腕の中からリリアの体が忽然と消えた。それと同時に彼を覆っていた翠色に輝く光も消え失せていた。

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