第44話 森の異変。
森中が、騒めき始めた。
落ち着きを無くした鳥達が一斉に飛び立ち、兎や鹿、その他の森に住まう獣達までもが怯えながら、森の奥へと一目散に駆け去って行く。
清々しいほど晴れ渡っていた空は、いつの間にか重い雲が立ち込め、いつ雨が降り始めてもおかしくない様相に変わっている。
崖の上では僅かに吹いていた風さえもぴたりと止まり、ただならぬ静けさがあたりを包み込んでいた。
だが、その静寂を破り、サンタンが黒い服装の男達を引き連れて森の中から姿を現した。男達の中に弓を持った者がいる。おそらく、この男がクロウに矢を放ったに違いなかった。
男達は獲物を狙う獣のように、ただ一点、自分達に幸運をもたらす娘にだけ視線を集中させ、誰一人として森の異変に対し、気に掛ける者はいなかった。彼らにとって非常に厄介であった男は地面に倒れたまま動かなくなっている。彼らは今にも舌なめずりしそうな様子で徐々にリリアとの距離を縮めて行く。
「くくく」
サンタンは高揚した気持ちを抑えきれず、喉の奥を鳴らした。
彼は事がすべて自分にとって都合がいいように動いていると感じていた。死んだはずであったこの国の王女が手に入るという、思いもよらぬ好機が訪れようとしているのだ。
当初は反国王派へこの娘を『精霊の乙女』としてうまく売り込み、内乱を起こさせ、双方へ武器を大量に売るつもりでいた。
そこで、王都へ着くなり今の国王に不満があった馬鹿な伯爵へ打診してみれば、案の定すぐさま話に乗って来た。早速娘を手に入れるために動いたにも関わらず、一度は見失ってしまったが、国王に取り入っている目障りだったエルバハルの屋敷にいるのを忍び込ませていた密偵から連絡を受け、その懐からこの娘をまんまと奪い取ることが出来た。それだけでも愉快であったのに、さらにこの娘は本物の王女だったのだ。
『緑色の瞳は精霊の乙女の証し。乙女を手に入れた者はこの国の主となる』
サンタンの脳裏に古くから伝わる言葉が過った。
確かに、その乙女を手に入れた者はこの国を手に入れる事ができる。古より伝わる言葉は、どうやら本当のことであったようだ。貴族でない商人であるサンタンがこの娘を手に入れさえすれば、彼女の背後でこの国を操ることができるのだから。
サンタンは王女を手に入れてからのことを想像し、ほくそ笑む。
すでに幸運の女神はサンタンに微笑み始めていた。美味い具合にクロウが欲深い伯爵を始末してくれたおかげで、やっかいだと思っていた伯爵の私兵と一戦も交えずに済んでいる。やはり自分に運気が向いて来たのだと確信せずにはいられなかった。サンタンは逸る気持ちを押さえながらゆっくりと王女のそばへと近づいていく。
だが、王女の数歩手前まで来たところでぴたりと足を止めた。毒に倒れたとはいえ、クロウの反撃を警戒してのことだ。それほどにクロウという男の存在は恐怖だった。サンタンの私兵達もサンタンにならい立ち止まる。
「追いかけっこは、もうおしまいですかな? 伯爵も、その男も、私を怒らせてしまったことを今頃あの世で後悔していることでしょう。さあ、王女様、あなた様まで私を怒らせないでください。あなた様はもうどこへも逃げる場所などないのですから。大人しく私共と一緒に来……」
ふいにサンタンが言葉を途切れさせた。その背後では他の男達も皆驚愕に目を大きく見開いている。
毒矢に倒れたクロウを守るように覆い被さっていたリリティシア王女の小さな体から、突如美しい新緑色の光が、まるで炎のように揺らめきながら立ち上り始めたのだ。その光はゆっくりと彼女の体を包み、クロウの体までもが光に覆われていく。
「?! ……な、何だ? これは、一体──」
「う、うわっ!」
立ち竦む男達の足元がいきなり大きく揺れた。咄嗟にその場にしゃがみ込んだ男達の顔は恐怖で強張っている。
「落ち着け! ただの地震だ! すぐに収まる!」
サンタンは自分に言い聞かせるように叫んだ。彼の言葉どおり、すぐに揺れは収まった。
だが、何かが地中を移動しているかのような異様な地鳴りが徐々に大きくなってくる。
男達は何かとんでもないことが起きようとしていることを肌で感じ取り、怯えた目で落ち着きなくあたりを見回す。中には大きな体を小さく縮めて、森の精霊達が怒っている、と呟きながら、がたがたと身を震わせる者もではじめた。
突如、心臓が止まるかと思うほどの大きな音が響き、地面に大きな亀裂が走る。
しかし、彼らに襲い掛かる恐怖はそれで終わらなかった。男達はいまだかつて無い恐怖に震え上がった。地面の割れ目から何か得体の知れない物がまるで蛇のように身をくねらせながら、いくつもいくつも這い上がって来たのだ。それは大小の違いはあれど、どう見ても木の根に違いなかった。ふつう木の根がまるで生き物のように蠢く事などありえないことだった。
その場にいた男達は一人残らず恐慌状態に陥る。
「ば、化物だ!」
どの男も皆、口々に叫びながら必死でその場から逃げ出す。
だが、地中から現れたその化物達は、まるで意思を持っているかのように逃げ惑う男達に容赦なく襲い掛かり始めたのだ。木の根が男達の悲鳴まで奪うかのように、彼らの体に幾重にも巻き付いたまま軽々と空高く持ち上げていく。空中で大きく振り回され、すでに気を失っている者もいた。
そのあまりにも非現実的で常識を超える恐ろしい光景を目にし、腰を抜かしたサンタンは無様な姿で地面に這いつくばっていた。先ほどまで優越感に満ちていた顔は今ではひどく蒼褪め、口はわなわなと震え、血の気の失せた頬はひどく引き攣っている。
「許さない……」
まるで脳に直接響くような不思議な声に、サンタンは反射的に声のした方へ顔を向けた。その視線の先には、大地に横たわるクロウの側で、まるで亡霊のように俯いたまま立っているリリティシア王女の姿があった。新緑色の光が彼女の体に纏わりついている。ほどけた髪は肩にも届かないほど短く、その髪が風も無いのに揺らめきながら徐々に伸び始めた。
さらに、表情のかけた美しい顔に怪しく光る緑玉の瞳がゆっくりとサンタンに向けられる。
「ひぃぃぃ────」
喉の奥で悲鳴を上げ、人知を超えた恐怖に這いながら必死で逃げようとしていたサンタンの足にも、とうとう木の根が絡み付いていく。
「は、離せ! 離せっ!」
自分の足に巻き付いた木の根を躍起になって外そうとしたサンタンであったが、あっという間にその体は他の男達と同様に宙づりになる。
「ぎゃぁぁぁっ!」
サンタンの悲鳴が森中に響き渡った。死に物狂いでサンタンは自分の足に絡み付いているものを掴む。やはりそれは紛れもない木の根だった。
だが、ただの普通の木の根ではない。彼の足を強く締めつけながら、どんどん絡み付いてくるのだ。
「くそ! くそっ! 私は木の根ごときにやられるような男ではないぞっ!」
そう叫びながらサンタンは隠し持っていた短刀を取りだし、足に巻き付いている木の根に何度も何度も刃を突き立てる。
「このっ! 化物め! 化物めっ────!」
すると突然、彼の足を締め上げていた強い力が緩んだ。
「どうだ! えっ?!」
喜びも束の間、絡みついていた木の根からすっぽりと足が抜けたサンタンの体は、まるで吸い込まれるように崖の下へと真っ逆さまに落ちて行く。彼の絶叫と共に。
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