第43話 祈り。

 リリアが、王女……?!


 クロウは愕然とし、言葉を失った。その姿にサンタンは目を細める。


「私はリリティシア王女様があまりに不憫でならないのです。今、王座にのうのうと座っている男を引きずり降ろし、王座を取り戻さねば、王女様の平穏な生活などどこにもないと言っていいでしょう。その為には、武器や人員が必要となりますね。相手は現国王なのですから。僭越ながらこの私がすべてご用意いたしますよ。私にはその手腕がございます。クロウ殿は今までどおり王女様のそばでその御身をお守りいただければいいのです」


 熱のこもった口調でサンタンはしゃべり続けた。リリアが耳を塞ぎ、青ざめた顔でクロウの腕の中で震えている。その姿に、クロウは冷静さを取り戻す。黒い瞳が冷たく光る。

 内容は、リリアのためだと言っているが、本当はリリアが王女かどうかなど関係ないのかもしれない。この男の狙いはおそらく内乱だ。


「そこまでして、おまえに何の得がある?」


 クロウはわざと尋ねる。話に乗って来たと勘違いしたのか、サンタンがほほ笑む。


「私はただ、王女様が本来あるべき姿、無事に女王陛下になっていただきたいだけです」


 まるで神聖な誓いをするかのようにサンタンは右の掌を胸にあてた。わずかに天を仰ぐ姿はただの自己陶酔にしか見えない。『王女様』とリリアのことを呼ぶわりには、この男からはリリアに対して、尊敬や敬愛の念を一切感じられなかった。

 オアシスで感じた直感が、確信に変わる。


『この男は危険だ』、と。


「詭弁だな」

「は?」


 クロウが呟けば、サンタンは初めて顔に張り付かせていた笑みを消した。


「おまえの申し出は、すべて断らせてもらう」


 そうはっきりと告げ、クロウは突如リリアの体を自分の左肩に担ぐように抱え上げた。驚いたリリアが小さく悲鳴を上げる。クロウはその華奢な体をしっかりと支え、半開になっていた鉄製の門扉に強烈な蹴りを入れた。すると、錆びついていた鉄門が、耳にしたとたん鳥肌が立つような金属が擦れ合う独特の音を響かせながら閉まっていく。その音にはさすがにサンタンも耐えられなかったのか、思わず耳を塞いでいる。

 だが、閉じた門扉にクロウがすばやく閂をかけたのに気付くと、サンタンは目を剝いた。


「! くっ、追え! 男は殺してもかまわん! 女は、絶対に捕まえろ!」


 サンタンが怒りに任せ大声を上げれば、彼の背後から黒い服に身を包んだ男達が潜んでいた木々の影から飛び出して来た。人数は五人だけのようだが、どの男も人を殺すことなど何とも感じないような者達だった。彼らは一斉にリリアを捉えようと向かって来る。


「リリア、口を開けるなよ。舌を噛むぞ」


 クロウはリリアに声を掛けると、彼女の返事も待たずに駆け出した。もちろん、彼女の体があまり揺れないようにしっかりと抱きかかえている。

 背後からは門を壊そうとする大きな音が響き始めた。一刻も早く門から離れなくてはならない。クロウは屋敷の中へ逃げ込まず、前庭と同じように荒れ果てた中庭を駆け抜けて行く。やっと足を止めたのは建物の裏手に辿り着いた時だった。

 この屋敷には裏に森へ抜ける扉があるのを侵入するときにすでに確認していたのだ。


「少し、ここで待っていてくれ」


 そう言いながら近くにあった石の台の上にそっとリリアを座らせる。ふと目線を上げると、彼女の不安そうな瞳とぶつかった。何か少しでも安心させてやれる言葉をかけてやりたかったが、考える時間も余裕も無く、クロウは手を伸ばし、ただぽんぽんとリリアの頭に軽く触れる。

 そして、そのまま彼女に背を向け、すぐに壊れて傾いている裏戸に手を掛けると、力任せに扉をこじ開けていく。心の中で、必ず無事にここから連れだしてやる。と誓いながら。


「リリア。もう少し、我慢してくれ」


 再びリリアを左腕に担ぎ上げ、クロウは森の中へ入って行く。

 だが、思った以上に敵の動きは速かった。まだ遠くだが、クロウ達を執拗に探しまわる男達の声が聞こえてくる。クロウ達はどんどんと森の奥へと逃げねばならなくなった。


「あっ」


 リリアが声を上げた 突然森が途切れ視界が広がったのだ。

だが、二人が追手の声から逃げるように辿り着いた先は崖の上だった。むき出しになった大地の向こうにはただ青い空が広がっている。


「降ろすぞ」


 クロウは一度リリアを地面に降ろし、彼女の右足首の状態を確認する。


「かなり腫れてきているな」


 クロウは内心焦りを感じ始めていた。このまま逃げ続ければリリアの負担はかなりのものになるだろう。かと言って、リリアを抱えたまま戦えば、さらに彼女に負担と恐怖を与えることになってしまう。

 逸る心を押さえながら崖の縁に立ち、逃げる方向を確かめる。足元を覗けば、はるか下には川が見えた。


「クロウ」


 リリアの静かな声に、クロウは振り返る。

 そこには、何かを覚悟したような真剣な表情のリリアの姿があった。


「クロウ。私はここにいます。クロウはガルロイさんのところへ戻ってください。私はサンタンさんのお話をちゃんと聞いてみようと思います。だから……」


 気丈にもリリアはクロウに微笑んで見せた。リリアは必死でクロウを逃がそうとしているのだ。その証拠に、その声はひどく震えていた。

 クロウはすぐに彼女の側に駆け戻り、その細い肩を抱き寄せる。


「駄目だ、リリア。あの男のところへ行ってはいけない。行けば、おまえは戦争の道具にされてしまう」

「せ、戦争……?」

「そうだ。あいつは、死の商人だ」

「死の商人……」


 美しい翠玉の瞳を見開き、リリアは怯えた顔でクロウを見上げている。


「あの男の本当の目的は武器を売る事だ。あの男のような商人達は死の商人と呼ばれている。奴らは平和な時はわざと自分達で戦争の種を蒔いて、戦に使う武器や情報を売って金を儲けようとする。ひとたび戦が起これば大勢の人々が命を失う。だが、奴らはそのことには気にも留めないだろう」

「!」


 リリアの白い顔が一気に蒼褪めていく。


「私のせいで……戦争が?」

「リリアのせいではない。だが、奴の口ぶりから戦争の火種にされてしまう可能性は否定できない。今、あの男に話を聞いたとしても、その話が真実かどうかさえ分かったものではない。奴が本当の事を教えるという保証もない。自分に都合のいい嘘を並べたてるかもしれない。話をするなら、シャイルとだ。あいつならリリアの本当の出自をしっているのではないのか?」


 クロウは一度言葉を切った。

 怯えるリリアの翡翠色の瞳を見つめ、静かな声で心の内を告げる。


「……リリアがこの国にいることで危険な目に遭うというなら、俺がこの国から連れ出してやる。おまえがそばにいてくれるなら、俺はどこでだって生きていける」


 その時、背後で馬の嘶きが聞こえてきた。クロウは振り向きざまに剣を抜き、リリアを庇うように立ち剣を構える。

 目の前の茂みがガサガサと揺れ、木の葉の影から一頭の馬が顔を突き出した。


「! シェーン!」


 驚くことに、姿を見せたのは愛馬のシェーンだった。


「シェーン! ガルロイ達も来ているのか?」


 安堵しながら剣を鞘にしまうクロウに向かって、シェーンは嬉しそうに嘶きながら駆け寄って来た。頭をクロウにすり寄せ、甘えてくるシェーンの首を優しく撫る。


「リリア! もう大丈夫だ。シェーンの脚ならすぐにエルバハルの屋敷に逃げ込めるだろう。それにガルロイ達も近くまできているのかもしれない」

「本当に、シェーンなのね?!」

「ああ。さあ、すぐにシェーンの背に乗せてやる」


 愛馬の背に乗せるため、クロウはリリアの体を抱え上げた。

 だがその瞬間、風を切る音と共に左肩に焼けつくような衝撃が走った。


「! ……っ────」

「クロウ?」


 異変に気づいたリリアが心配そうに見上げてくる。クロウはそのままリリアをシェーンの背に乗せた。こめかみを嫌な汗が流れる。

 

「……リ、リリア、手綱をしっかりと持て」

「ク、クロウ! 矢が!!」


 クロウの左肩に刺さる矢に気付いたリリアが悲鳴のような声を上げた。慌ててシェーンの背から降りようとするリリアを押し止める。


「降りるんじゃない! ……しっかりと自分で手綱を握るんだ!」


 顔を歪ませながら、クロウはリリアの手に手綱を握らせようとした。


「嫌よ、嫌! クロウ! お願いよ! 一緒に逃げて!」


 クロウの手を両手で握りしめ、リリアは泣きながら懇願する。彼女はクロウがリリアだけを逃がそうとしていることに気付いているのだ。

 だが、この機会を逃せば、もうリリアを逃がすことはできない。

 クロウは迷いの無い眼差しでリリアの涙に濡れた瞳を見つめる。


「リリア、俺のために逃げてくれ。頼む!」


 ふいにクロウは膝を付いた。

 もう立ち上がることも出来なくなっている。すでに限界を超えていた。おそらく矢の先に毒が塗ってあったのだ。今まで立っていられたのが奇跡に近い。

 だが、クロウはまだやり残したことがあった。気力だけで腕を上げる。震える指先がリリアの向かうべき先を示す。


「シェーン! ……リリアを、ガルロイ達のところへ連れて行け!」


 ぐらりとクロウの体が揺れた。体中が痺れて倒れていくのをもう止める事が出来ない。霞んで行く視界に、力なく落ちて行くクロウの指先を追うようにリリアがシェーンの背から飛び降りる姿が見えた。


(なぜだ? リリ……ア──)


 もうどんなに彼女の名前を叫ぼうとしても、口を動かす事さえできなくなっていた。


「クロウーッ!」


 倒れたクロウに足を引きずりながらにじり寄って来きたリリアが縋り付くようにクロウの手を握りしめる。


「しっかりして! クロウーッ!」


 泣きながらリリアが必死でクロウの名前を呼んでいる。

 だがその声に答えてやることができない。愛しいリリアのために出来るのは、ただ彼女が無事に逃げ延び、シャイルに保護されることを祈るだけだ。


(逃げろ、リリア。逃げてくれ。この国に本当に精霊がいるのなら、リリアを助けてほしい。彼女が無事でさえあれば、俺はこのまま朽ち果てて構わない。リリアに好きだと告げられた時、俺は初めて生きていていいのだと許されたような気がした。俺も人を愛していいのだと。俺に人を愛する喜びを教えてくれたのはリリアだ。だから、どうか守ってくれ! 頼む!)


 祈りまでもが遠のいて行く。聞くだけで胸を熱くさせてくれるリリアの声も、もう聞こえない。すべてが真っ白になっていく。最後にクロウの中に残ったのは愛しい人の名前だけだった。


(リリア……)


 リリアの手からクロウの手が、するりと抜け落ちて行った。


「クロウ────ッ」


 リリアの絶叫がすべてを震えさせた。

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