第42話 リリティシア王女。

 朝日に照らされながら、リリアはクロウの腕の中にいた。目を閉じ、クロウの心臓が刻む音に耳を傾ける。鼓動が、クロウが生きていると告げていた。それだけでひどく安心している自分に気付く。

 

「きゃっ!」


 突然クロウに横抱きで抱え上げられ、リリアは小さく悲鳴を上げた。


「怖かったか? すまない」


 至近距離から真っ直ぐに見つめられ、リリアの顔は真っ赤に染まった。どうしてもクロウの顔を直視することができなくて、おろおろと視線を彷徨わせる。


「あの……、下してくれませんか? なんだか、私……」

「却下だ」

「え?!」


 お願いはあっさりと断られてしまった。驚きのあまり目を真ん丸にして見上げれば、彼は『くす』っと、小さな笑い声を漏らす。これまでリリアに見せたどの笑顔よりもどこか艶めいて見えた。


「大丈夫か?」


 ついその笑みに見とれてぼうっとしていたリリアは、心配した顔でさらに覗き込まれ、『ひやっ』と変な声を出してしまった。

 以前のクロウはリリアに対してどこか躊躇しているようなところがあったが、今の彼からは全くそのような雰囲気は感じられなくなっていた。

 まるで何かが吹っ切れたかのように真っすぐに見つめてくる彼の熱を帯びた眼差しにリリアの方が戸惑ってしまい、なぜだか大好きなクロウの側から逃げ出したくなってしまう。

 だが、クロウに抱き上げられた状態では、逃げるどころか離れることも出来ない。


「あの、でも……」


 リリアはあたふたと狼狽える。


「リリア、足を捻挫しているだろ? それに、……血の味がしたんだ」

「!」


 クロウが発した言葉に、リリアの視線は無意識に彼の唇の上で止まった。彼女の脳裏に先ほど触れた柔らかな唇の感触がまざまざと蘇り、本当に火が出るのではと心配になるほど顔が熱くなる。とても恥ずかしくなって、思わず両手で顔を覆う。


「口の中が切れている。身体もそうとう痛むはずだ。だが、逃げた兵士達が仲間を集めて戻ってくることも考えられる。本当は無理をさせたくないのだが、すぐにここを離れたほうがいい」


 クロウは気遣うような声で、強引に抱き上げた理由を説明する。リリアがこくこく頷き、上目遣いで見上げれば、クロウはほっとした表情を浮かべた。


「揺れて怖いなら、俺の首につかまっていろ」

「だ、大丈夫です!」

「そうか」


 そう言うと、クロウはしっかりとした足取りで歩き出した。


「俺の抱えているせいで痛いところはないか? ……エルバハルの屋敷に、打ち身に効く薬があればいいのだが──」


 リリアの頭の上から、あれこれと気遣うクロウの声が降ってくる。

 確かに、時間が経つほどにリリアの体のあちこちがずきずきと疼き始めていた。クロウが心配するようにかなり激しく身体を床に打ち付けてしまっていたようだ。

 おそらく、足首の捻挫が一番酷いかもしれない。揺れるたびに痛みが走る。かなり腫れてきていると感じられた。

 自分の足で立つ間もなくすぐに抱え上げられたので、捻挫をしているという自覚さえなかったのに、クロウは気付いていたのだ。

 クロウは出会ってからずっとリリアを気にかけ、とても大切にしてくれている。

 ふとリリアが視線を上げると、クロウの頬にうっすらと血がにじんでいるのが目に止まった。そっと指先で触れれば、血はすでに乾いているようだった。


「どうした?」


 驚いた表情を浮かべ、クロウがリリアを見た。黒曜石のように黒く澄んだ瞳にリリアの今にも泣きそうな顔が映っている。


「クロウ……」


 告げたい思いが溢れてくるのにうまく言葉に出来なくて、リリアは思わず唇を噛んだ。大勢の敵を相手にし、これだけの傷だけですんだのはクロウが本当に強いからだ。

 だが、もしクロウと同等、もしくは超えるほどの剣の使い手があれだけの敵の中にいたらどうなっていただろうか? 彼はリリアのために命を落としていたのかもしれないのだ。


「気分が悪くなったのか?」


 足を止め、心配そうに尋ねるクロウの首にリリアは思わずしがみ付いていた。


「助けに来てくれて、ありがとう。クロウ」

「! ……どこにだって、どんなところにだって、おまえが待っているなら、俺は必ず助けに行く」


 リリアを抱く腕にさらに力が込められた。さらに、その腕の力と同じく、力強く断言され、リリアは胸の奥から熱いものがこみ上げてきて呼吸が苦しくなる。こくりと頷くと、クロウはリリアの頭上にまるで誓うように口付を一つ落とし、再び歩き出した。

 大好きなクロウに抱き締められ、リリアは幸せだと感じる以上に不安が心を覆っていた。自分がクロウの側にいる限り、彼を危険な目に遭わせてしまうことに気付いたからだ。

 リリアには自分のためにクロウが傷つくことが何よりも恐ろしい。

 朝の澄んだ空気がひやりとリリアの頬をなでる。クロウの肩越しに見上げた夜が明けたばかりの空は、昨日の雨が嘘のように雲一つ無い。

 クロウはリリアを抱いたまま、雑草が伸び放題の荒れた前庭を通り抜けていく。目前に現れた頑丈な鉄製の門扉のわずかに開いた隙間から一歩足を踏み出した。

 突然、クロウが立ち止まった。ゆっくりと数歩後ろに下がり、門扉の内側へ戻る。


「クロウ?」


 リリアは不思議そうにクロウの横顔を見た。彼は黙ったまま鋭い眼差しを正面に向けている。リリアもその視線の先を追う。前方はうっすらと朝靄に包まれ、道の両端に木々が生茂る森がぼんやりと見えるだけだった。


「……出てきたらどうだ?」


 クロウのよくとおる低めの声が朝の空気を震わす。

 僅かな間をおいて、朝靄の中からまるで浮かび上がるように一人の男が姿を現した。


「?! あっ、あなたは……!」


 商人の服装をした小柄な初老の男の顔を目にしたリリアは思わず驚きの声を上げた。見覚えのある顔だったのだ。

 男はリリア達がここにいることをすでに知っていたのだろうか。別段驚いた様子もなく、ただ人のよい笑みを浮かべて立っている。男の名は確かサンタンと言っていた。彼はリリアが馬車に乗る時にとても親切にしてくれた人だったのだ。


「私を覚えておいででしたか?」

「ええ、馬車ではとても親切にしてくださいましたね。あの時は本当にありがとうございました」


 和やかに言葉を交わすリリアとサンタンとは対照的に、クロウは鋭い眼差しを向けたまま一言も言葉を発しない。

 心配になったリリアがクロウの顔を覗き込んだ。


「クロウ? サンタンさんですよ。同じ馬車に乗っていた方です。覚えていませんか?」


 サンタンを見据えているクロウの眼差しはとても険しく、彼がひどく警戒しているのが分かる。


「……オアシスからずっと俺達を探していたようだな? 何の用だ?」

「え?」


 クロウの言葉に驚いたリリアはサンタンへ再び視線を向ける。


「おや、さすがですね。気付いておられましたか」


 驚いたような口調ではあったが、サンタンの声はあまりそんなふうには聞こえなかった。では、クロウが言うようにサンタンはリリア達をずっと探していたというのだろうか?


(何のために……?)


「伯爵様はどうなさったのですかな?」

「伯爵?」

「この廃墟のような屋敷の中で、そのお嬢さんと一緒にいた男ですよ」

「……死んだ」


 すると、サンタンは耐えられないとばかりに『くくく』と喉の奥で笑い声を漏らした。

 その声を聞いた途端、リリアの背をぞくりと冷たいものが走り、咄嗟にクロウの首にさらに強くしがみつく。


「それは、それは、欲深い伯爵様は当然の報いを受けたのですね」


 サンタンの薄く笑む目はとても冷たいものだった。彼はゆっくりと辺りを見渡し、再びクロウへ視線を戻した。


「たった一人で、ここへ乗り込まれたのですかな?」

「おまえには関係ないことだ」

「確かに関係はないかもしれません。ですが、おおいに関心はあるのですよ。たとえば、あなたが大切に腕に抱いておられるその目に翡翠の輝きを持つお嬢さんのこととか。その方がどれほど高貴な身であるか。クロウ殿はご存知なのですかな?」

「おまえも精霊信仰か?」

「この国の者はみな偉大な精霊を畏怖し、崇めておりますよ。ですが、現実的な意味で、ご存知なのかと?」

「興味はない。そこを退け」


 まったく話に取りあわないクロウの様子に、サンタンは呆れたようにあからさまにため息をもらした。

 そして、大げさな仕草で両手を大きく広げ、肩をすぼめる。


「このまま王都へ向かえば、そのお嬢さんは殺されてしまう運命ですが、それでも興味がないと?」

「……勿体つける言い方だな」


 クロウの声に苛立ちが混じる。サンタンという男に対し、クロウは怒りを感じているようだった。

 すでに身も心も傷ついていたリリアは、突然『殺される』と告げられ、さらに身を強張らせた。得体のしれない恐怖がリリアの小さな体を小刻みに震えさせる。抱き上げているクロウが気付かないはずはなかったのだ。


「申し訳ございません。どうしてもこのような言い回しなってしまうようです。私は商人なものですから、つい……。ですが、別に情報をあなたに売ろうとしているのではありません。ただ、私は親切心からあなた方のお役に立ちたいと思っているだけなのです」


 喋れば喋るほど、なぜかうさん臭さが鼻に付いた。これ以上どんな話もこの男から聞きたくはなかった。

 だが……


「……おまえが知っている情報とは何だ」


 クロウが少し興味を示す。

 すると、サンタンは笑みを深くした。


「実は、私も先ほど手にしたばかりの情報なのですが……」


 サンタンがリリアを見る。その目はまるで値踏みしているように感じられて、初めは優しいと思えていた彼の目が、今はとても恐ろしかった。


「私も聞いた時にはとても驚きました。そのお嬢さんは先王アルフレッド様の忘れ形見、亡くなられたとされていた王女リリティシア様だったのですから!」

「?! 嘘よ! それは何かの間違いだわ! 私が王女であるわけがないもの!」


 狡猾そうな笑みを浮かべたサンタンに向かって、リリアは思わず叫んでいた。


「嘘などではありませんよ。さらに恐ろしい事に、あなたを取り巻く陰謀まで明らかになったのです。今やあなたは現王であられるシュティル国王陛下にとっては足元を揺るがす恐ろしい存在なのです。現にあなたを消すため、密に探しておられたようですな」


 思わずリリアは耳を塞いだ。

 だが、その瞬間『王都へは行ってはいけない』と言ったシャイルの声が耳の奥で響く。


(シャイルは本当のことを知っているの? おじいさんが大切な友達に会えなくなったのは私のせい? この私が王女だから?)


 考えたくないのに、サンタンが語る内容と符合することに思い当たる。


(おじいさん! おじいさん! 助けて!)


 心の中でどれほどおじいさんに呼びかけても、リリアはもうおじいさんの優しい声さえ聞くことはかなわないのだ。

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