第39話 俺が、怖いか?

 マグヌス・バルデン伯爵の私兵達は、乗り込んで来たたった一人の男を取り囲んでいながらこの男が放つ鋭い雰囲気に押され、攻めあぐねていた。男の黒い瞳がリリアの姿を捉え、一瞬ほっとした表情を見せる。


「誰だ? おまえは?!」


 リリアの体をまるで盾にするかのように羽交い絞めにしながら怒りを露わに伯爵が声を張り上げた。男の眼差しが剣呑になる。


「その汚い手を、リリアから離せ」


 唸るような低い声が、緊張をはらんだ室内に響いた。


「クロウ!」


 恐怖と不安に打ち震えていたリリアは、男の姿を捉えると喜びに満ち溢れた声でその名を叫んだ。身をよじりクロウに向けて必死で手を伸ばす。

 だが、そんなリリアの姿を忌々しそうに見下ろしていた伯爵が、突然冷酷な表情を浮かべてにやりと口の端を上げた。


「くくく。愚かな男だな。この娘をたった一人で助けに来たのか? おっと、それ以上こちらへ近付いてはならぬ」


 伯爵はリリアの細い首を右手で掴んだ。

 そして、クロウに見せつけるようにゆっくりと力を入れる。


「! く、くっ……」


 リリアが顔を歪め、苦し気な声が桃色の唇から漏れる。

 

「やめろ!」


 クロウが叫んだ。明らかに動揺を見せるクロウの姿に、伯爵は満足そうな笑みを浮かべた。


「これは愉快だ。それほどこの娘が大切か? ならばその血に濡れた剣を下に置け。早くしろ! それとも、この娘の細い首がどこまでもつのか、試してみるか?」


 伯爵はリリアの命をもてあそぶようにさらに指に力を入れる。


「やめてくれ! 言うとおりにする……」


クロウが焦った声を上げた。


「ならば、早く剣を床に置け!」


 優越に浸りながら伯爵がクロウへ命令する。クロウは言われたとおりゆっくりと剣を床へ下していく。その姿を緊張した面持ちで取り囲んでいた伯爵の兵達が、クロウに剣を向けたままじりじりと囲みを縮めはじめた。


「!……うっ……だめ! ク、クロウ……逃げてっ────!」


 リリアは首を絞めつけられていながらも、必死で声を上げた。

 さらに、自分の首を掴んでいる手に残りの力を振り絞って爪を立てる。爪が伯爵の皮膚にくい込みわずかに血が滲む。


「痛(つ)っ!」


 伯爵は手に走った鋭い痛みに、リリアを床へ投げつける。リリアは床に体を強く打ち付け、そのまま倒れ伏した。


「おのれっ!」


 傷ついた手を押さえながら伯爵は激怒する。リリアの肩をむと無理やり引き起こし、その白い頬を力任せに打った。リリアの小さな体はその衝撃で飛ばされ、床の上で一転した。衝撃で外れた髪留めが音を立てながら転がっていく。


「リリア!」


 クロウが叫ぶのと同時に、まわりを取り囲んでいた私兵達が一斉に襲い掛かって来た。クロウは置きかけていた剣を掴むと、向かってきた複数の剣を一振りではじき飛ばす。群がるように襲ってくる私兵達と応戦するクロウの視界の端に、怒りに目を血走らせた伯爵が倒れているリリアの髪を鷲掴みにする姿が映る。クロウは振り下ろされた剣を自分の剣で受け止めると、その兵士に体当たりを食らわせ、他の兵士達をなぎ倒した。

 そして、リリアの髪を掴んだまま引きずり上げようとしている伯爵に目がけ、掴んでいた剣を力任せに投げつける。


「ぐふっ……」


 剣は伯爵の背に深々と突き刺さった。伯爵は大きくのけぞると、膝から崩れ落ちていく。力なく床に突っ伏した伯爵は、そのまま動かなくなった。


「おまえ達も同じようになりたいのか? 命が惜しい者は、すぐにここから立ち去れ! これ以上命を無駄にするな!」


 すでにリリアのそばに駆け寄っていたクロウは、彼女を背に庇うように立ち、声を張り上げた。その手にはすでに敵から奪った剣が握られている。伯爵の私兵達は一様に動きを止め、お互いの顔を見合わせた。


「────それとも、まだ俺と戦いたいのか?」


 剣を構え直し、まるで獲物を狙うような鋭い眼差しをクロウは男達に向ける。


「う、うわぁぁぁぁっ!」


 突然、一人の男が大声を上げて、部屋を飛び出した。すると、まるで恐怖が連鎖したかのに我先にと主を失った男達が建物の外へと向かって走り去って行く。

 クロウはさっと視線を動かし危険が去ったことを確認すると、すぐに床に片膝を付き、リリアの体をそっと抱き起した。


「リリア……」


 伯爵に殴られたリリアの頬は赤く腫れていた。クロウはとても辛そうな表情を浮かべ、まるで傷を癒そうとするかのように大きな掌でリリアの柔らかな頬を包み込む。


「すまなかった。俺がそばにいながら……」

「クロウ」


 痛さと緊張が緩んだせいで、クロウを見つめるリリアの澄んだ瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れては流れ落ちていく。その姿に、クロウは胸に締め付けられるような痛みを感じていた。リリアの華奢な体をそっと自分の腕で包み込む。


「もう、大丈夫だ。リリア」


 クロウの胸に縋り、リリアは静かに泣き続けた。その間、クロウは肩を震わせて泣くその細い背をまるで幼子をあやすかのように優しく撫で続ける。


「リリア、みんなのところへ戻ろう」


 少し落ち着きを取り戻してきたリリアに、クロウは優しく声を掛けた。その声に答えるように、リリアはゆっくりと顔を上げた。。

 だが、クロウの肩越しに見えた光景に、リリアは言葉を失う。

 開ききった扉から続く長い廊下には大勢の男達が血を流し倒れていた。そのあまりにも凄惨な状況に衝撃を受けたリリアは目を背けることが出来ず、ただ目を見開いたまま体を小刻みに震わる。

 その様子に気付いたクロウは、まるで世界から彼女を遮断するかのように強引にリリアの頭を抱きかかえた。

 そして一度瞼を閉じると、覚悟を決めたように目を開けた。


「……俺が、怖いか? リリア」


 クロウの静かな声が室内に響いた。

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