第38話 森の中のお屋敷。

 夜明け前。

 季節は春とはいえ、朝晩はまだずいぶんと冷えこんでいた。

 人里離れた森の中に、ぽつりと大きな屋敷が建っている。立派な建物であるが、かなり古いらしく外壁に蔦が絡みついている。室内も長い間使われていなかったのか、床や壁の傷みも目立った。

 だが、一室だけは室内が綺麗に掃除され、オイルランプが灯されていた。暖炉では暖かな炎が赤々と燃え、室内を外界の寒さから守っている。その暖炉の前に、部屋の雰囲気とはあまりに不似合いな質の良い寝衣を身に纏った三十代半ばの男が立っていた。寝ているところを起こされたらしく、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。この男は何か理由があって屋敷にほんの一時留まっているだけのようだった。男は黙ったまま足元を見下ろしていた。そこには美しい少女が横たわっていた。

 若草色の美しいドレスに身を包み、淡い金色の髪は所々ほつれてはいるものの綺麗に結い上げられ、質の良い髪飾りで止められている。


「──っ……」


 少女が辛そうに眉根を寄せた。彼女の長い睫が震え、ゆっくりと瞼が上がっていく。そして現れたのは、宝玉のように美しく澄んだ翠緑色の瞳。

 エルバハルの屋敷から攫われてしまったリリアだった。

 男は膝を折りリリアの顎を強引に掴むと無遠慮に瞳を覗き込んだ。まだ視点が定まらないリリアの瞳をまるで値踏みするかのように凝視する。暗く濁った男の目が驚きで大きく見開かれていく。


「おおっ! 本当に翠緑色の瞳をしているぞ! まさに伝説の精霊の乙女ではないか!」


 男は歓喜する。


「気に入っていただけましたか? マグヌス・バルデン伯爵様」


 背後から掛けられた静かな男の声に、伯爵と呼ばれた男は今やっと存在を思い出したように振り返った。その視線の先には豊かな髭を蓄えた初老の男が部屋の隅に控えている。

 リリアがはじめて馬車に乗った時に、親切にしてくれた男だ。


「……かなり手間取ったようだな。おまえから連絡を受け、この私がわざわざ出向いてやったというのに、まさかこのような森の中にあるぼろ屋敷でこれほど待たされることになるとは思いもしなかったぞ」

「それは大変申し訳ございません」


 伯爵に当てこすられても男は嫌な顔ひとつせず、恭しく頭を下げる。


「まあ、良い。こうして、この娘が手に入ったのだからな。ご苦労だった。サンタン」


 気を取り直した伯爵が労いの言葉を掛ければ、サンタンは安心したように笑みを浮かべた。


「では、満足していただけたのでしたら、約束のものをいただけますかな? 伯爵様」


 伯爵は鷹揚に頷くと扉の傍に控えていた男達に目配せをする。男達はその視線を受け、すぐに用意されていた二つの袋をサンタンへ差し出した。


「どうぞ」


 サンタンは重い袋を受け取ると、その一つを開け、中を覗いた。中にはオイルランプの光を受け、金貨が眩い光を放っていた。

 サンタンは目を細め、満足そうに微笑んだ。


「確かに受け取りました。伯爵様、また何かご用がございましたら、私めになんなりと御申しつけください。私ならばあなた様のご希望にきっとお応えすることができるでしょう」

「ああ、そのようにしよう。今日は、もう下がってよいぞ」


 伯爵は用が済んだとばかりに左手を軽く振り、サンタンに部屋から出るよう促す。


「では、また」


 サンタンは深くお辞儀をすると、静かに部屋を出て行った。立ち去っていく足音が聞こえなくなると、伯爵は控えていた男達に冷酷な眼差しを向けた。


「やれ」


 伯爵の声が室内に冷たく響く。男達は心得たとばかりにサンタンの後を追うように部屋を出て行った。

 扉が音もなく閉じられ、リリアと二人きりになった伯爵はまだ薬のせいで意識がはっきりとしていない彼女の耳元に口を寄せ、まるで酒にでも酔ったかのように高揚した様子で囁く。


「誰が言いだしたのかは知らぬが、この国の貴族の間では、精霊の乙女を手に入れた者は国をも手に入れることができると、まことしやかに囁かれている。ならば、この私が北の小国なんぞの血が流れた男の手からこの国の王座を奪い取り、その事を証明してみせようではないか。なあ、乙女よ」


 伯爵は、野心に燃えた目を窓の外へ向ける。

 真っ暗だった空は徐々に白み始め、もう間もなく日の出を迎えようとしていた。


「もう間もなく夜が明ける。まさしく私の夜明けだ」

「────あ、あなたは、誰ですか?」


 やっと意識を取り戻したリリアが、見覚えの無い男に顎を掴まれた状態に怯えた声を上げた。


「おや、お目覚めですかな?」


 優越感にひたっていた伯爵は再びリリアを見下ろしてきた。


「……あのっ、離してください!」


 リリアは怯えながらも、伯爵の手から逃れようとした。

だが、さらに強い力で右肩を掴まれ思わず悲鳴を上げる。


「くくくっ、そんなに怯えるな。あまり怯えた顔をされると、もっと虐めたくなるではないか」


 掴んでいる伯爵の指がさらに容赦なく肩に食い込んでくる。その痛さにリリアが顔を歪めれば、伯爵は残忍な笑みを浮べた。そして、リリアの肌の感触を楽しむように、顎を掴んでいた指先を徐々に頬へと這わせていく。


「嫌!」


 ぞくりとした悪寒を感じ、リリアは思わず顔を背けた。

 しかし、すぐさま伯爵はリリアの頭部を両手で掴むと、恐怖で怯える顔を無理やり自分の方へ向かせる。


「良く聞け。おまえは今日から私のものになったのだ。私に対し、今後はどんなことでも嫌だとは言ってはならぬ。……まあ、言わせないがな。ふふふ」

「な、何を言っているの?!」

「今にわかるさ」


 伯爵がにやりと笑う。

 恐怖がリリアを襲った。逃げることも叶わず、ただ怯えることしができない。

 その時、扉が激しく叩かれ、見張りの男が駆けこんできた。


「大変です! 男が一人侵入しました! その娘を返せと言っています!」


 まるで喜びに水を差すような報告に、伯爵はさも煩わしそうに知らせに来た男を睨んだ。そして、いらいらとした口調で命じる。


「いちいちそのような些細な報告など必要ない! さっさとおまえ達で始末しておけ!」

「で、ですが! 恐ろしいほど強く……」


 なおも言い募る男の背後で、両開きの扉が大きな音を立てて勢いよく開いた。


「何事だ?!」

「伯爵様! 早くお逃げください!」


 見張りをしていた伯爵の私兵達がどっとなだれ込んで来た。どの男も剣の先を廊下へ向けている。全員がじりじりと後ずさりながら何かを酷く警戒していた。どこからか聞こえてくる絶叫が段々と近づいて来ると、さすがに身の危険を感じたのか、伯爵は床に転がしていたリリアを引き摺るように立たせ、まるで楯のように自分の体の前に押しやった。


 ぎゃあぁぁぁぁっ!


 扉近くで上がった断末魔の叫びと共に突然人垣が割れ、ゆっくりと黒い人影が現れる。どれほどの人数の血を吸ったというのだろうか、その者が持つ剣の先から真っ赤な雫が床にぽとりと落ちた。

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