第35話 リコスの死神。

 時は十四年前に遡る。

 近隣諸国にとって垂涎の的であったベルンシュタインは、平和で活気に満ちあふれる国だった。厳しい寒さを乗り越えた王都では、早春の柔らかな日差しが降り注ぎ、民の心は例年以上に浮足立っていた。

 リリティシア王女の一歳の生誕祭が無事に終わり、お祝い気分が抜けきらないままその翌月に催される華やかな花祭りの準備が進んでいたからだ。明るい雰囲気が王都を包み、民の顔には自然と笑みがこぼれ、幸福に満ちた眼差しが白亜の王城に向けられた。

 その王城の中庭に面した回廊を堂々たる風貌の男が、外套を頭からすっぽりと覆った五人の兵士達を引き連れ、王の執務室へと向かっていた。


「……さすがですね。あなたのお陰でここまで易々と入ることができました」

「黙っていろ。今ここで、おまえの口が二度と開かないようにしたくなる」


 先頭を歩いていた男が、背後の男の問いかけに顔を向けることも無く、憮然とした口調で応じた。


「おお、怖い。ですが、あなたがここで私達を裏切ったりすれば、あなたの大切なご家族がどうなってしまうのでしょうね? 試してみますか? フクス将軍閣下」


まるで当てこするような口調に、西の砦を守るベルンシュタイン国の猛将クラード・フクス将軍は苛立ちも露わに眉間に深く皺を寄せた。


「……私の家族は無事なんだろうな?」

「はい。もちろんです。大切な人質ですからね」

「……」


 背後に居てもクラードの不機嫌を感じ取った男は満足そうににやりと笑うと、外套の下に隠していた一羽の鳥を取り出した。

 そして、その細い足に小さな筒を取りつけ、空へ放す。


「さあ、これで我が主がすぐに国境を超えて来られる。こちらも、事を急がねばなりません」


 飛び去って行く鳥を険しい眼差して見つめていたクラードが再び歩き始めると、背後にいた男達も黙したままその後に従う。誰に見咎められる事も無く、男達は長い廊下の先にある王の執務室に辿り着いた。

 だが、さすがに扉の前にいた近衛隊の兵士二人が男達の姿を捉えると、すぐさま彼らの行く手を遮る。


「お待ちください。この時間には、面会の予定はございません。御用向きをお聞かせください」


 クラードの背後で、男達が剣に手を掛ける気配がする。こんなところで乱闘になれば、今までの苦慮が無駄になってしまう。そんなことはどうしても避けねばならなかった。


「ご苦労だな」


 殺気を抱く男達とは対照的に、クラードは敢えて穏やかな声で近衛兵達に声を掛けながら近付いて行く。


「フクス将軍閣下!」


 近衛兵の一人がクラード・フクスだと気付いようだ。二人の近衛兵はすぐさま姿勢を正し、握り緊めた右手を左胸に当てる。その姿に背後の男達も緊張を解く。


「これは、大変失礼いたしました。西の砦からお戻りだったのですね」


 好意的な笑顔を向けられ、クラードはここへ来て初めて自然な笑みを見せた。


「先ほど、到着したばかりだ。陛下へ重大な報告のため、馳せ参じたのだが、陛下はご在室か? すぐにでもお目通りを願いたいのだが」

「はっ! すぐに確認してまいります」


 近衛兵の一人がすぐさま扉の向こうへ消える。

 と、その時、背後からクラードにだけ聞こえる声で囁かれた言葉は、『念のため、他の近衛兵の居場所を聞いてください』だった。クラードは拳をぐっと握りしめ、今にも爆発しそうな怒りを抑える。


「……他の近衛隊達はどうしている? 祭りの前で多忙をきわめているのではないのか?」


 口調が固くならないように気を付けながらクラードは尋ねる。


「他の者は皆、王妃様の護衛を仰せつかり、今は神殿へ行っております」

「神殿へ? 皆?」

「はい」


 まるで足元が崩れて行くような絶望がクラードを襲う。危惧していた事が現実味を帯び、改めて自分がしようとしている事の恐ろしさを思い知らされる。


「どうぞ、お入りください。フクス将軍閣下」


 樫の木で作られた重い扉が大きく開かれ、クラードは重い足を踏み出す。彼を先頭に、背後の男達も執務室の中へ入って来た。

 王の執務室は何度も来ているが、今日はやけに部屋の中が広く感じられた。

 部屋の正面、最奥の重厚な机の向こうから視線を向けているのは、ベルンシュタイン国の国王アルフレッドだった。彼の傍にはいつものように側近であり侍従を務めるオスカ・フェッセンが控えていた。

 数カ月ぶりに見る国王の顔は、光の加減なのかどこか青白く、以前に会った時より幾分痩せたように感じられ、クラードはさらに不安を募らせる。


「久しいな、クラード。おまえが城へ来るのはもう少し先だったはずだが? 忙しいおまえが自ら報告に来るとは……、その内容とやら、あまり聞きたくはないのだがな」


 どこか茶化すような口ぶりで、アルフレッドが笑みを浮かべる。

 だが、彼の青い瞳の奥で一瞬過った鋭い輝きを、共に戦場で戦ったことのあるクラードは、見逃しはしなかった。クラードは心が落ち着いていくのを感じていた。


「陛下、ご無沙汰しておりました。新年の挨拶にも参らず、誠に申し訳ございません。……報告の前に、少々気になることがあるのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「気になること? 何だ?」


 『何だ?』と聞いておきながら、本当に聞く気があるのか、アルフレッドは再び書類に筆を走らせ始めた。


「花祭りの前だというのに、この城の兵の数があまりに少ないのではありませんか? それに扉の外にいる二人以外、近衛隊も城にいないと聞きました」

「相変わらず目敏いな、クラード」


 アルフレッドは書類に視線を向けたまま、苦笑を漏らす。


「昨日、東の国境近くで問題が起きたと報告が来たのです。小競り合い程度ですが、他国には気取られぬよう昨夜のうちにシュティル殿下に兵を連れてすぐに鎮圧するように陛下が命じられました。もちろん、城の外から見える衛兵の数は減らしてはおりませんよ」


 今まで黙って立っていたオスカが、アルフレッドに代わり説明をする。クラードの表情が一気に蒼ざめる。


「悠長に構えていては、花祭りが始まってしまうからな。シュティルにはさっさと片付けて早く戻ってくるように言ってある」

「ではなぜ、このような時に王妃様は神殿へ向かわれたのですか?」

「さあな。私はエレーネが神殿へ向かったと、ラファルから報告を受けただけだ」

「宰相閣下からですか?」


 神殿は城の北にある切り立った山の中腹にあり、自然の要塞に守られている。

 だが、道中はどうしても護衛は必要になる場所だった。


(その為に、国王の近衛隊がつけられたのだろうか? しかし、近衛隊へ付添を命じたのは誰だ? 王妃殿下が……? あの方が、勝手に国王の近衛隊を動かすとは考えにくい……)


 クラードが思考に囚われていると、アルフレッドがやれやれとばかりに筆を置いた。もう終わりだとでもいうように、書いた書類をオスカへ押し付ける。オスカは書類にさっと目を通すと、他の書類と一緒に部屋の外へと運んで行き、すぐに戻って来た。


「……では、今、おそばにおられるのはフェッセン殿だけなのですか?」

「ええ、そうです。今日こそは、陛下には溜まっていた書類を片付けていただかねばなりませんからね。そのために、執務室に二人で籠っているのです」


 『くくっ』と、クラードの背後で誰かが喉を鳴らした。

 僅かな空気の動きに、クラードは咄嗟に横へ飛び退る。彼がいた場所を鋭い剣先が空を切っていた。


「……お見事。背後の気配だけで気付かれましたか」


 剣を下ろしながら、兵の一人が外套を脱いだ。獲物を狙う蛇のような目をした男だった。その男にならい一斉に他の兵達も剣を抜く。どの男からも戦慣れした雰囲気が漂ってくる。


「おまえ達は、何者だ?」


 誰何しながらすぐに剣を抜いたオスカは、男達を睨みながらアルフレッドを守るように立ち位置を変えた。クラードも王の前へ移動し、剣を構え直す。


「これは、これは、挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。私はリコス軍第二王子専属部隊隊長イワン・マクドゥールというものです。どうぞお見知りおきください」

「リコスの死神か……」


 そう呟いたアルフレッドは動揺しているような様子はなく、椅子に座ったまま自分に剣を向ける男達を眺めていた。


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